細川呉港著『舞鶴に散る桜』は飛鳥新社が出版した 352ページの本です。目次は次の通りです。
序章 舞鶴の丘に新しい桜を植える
一章 真珠湾に落ちたゼロ戦
二章 進駐軍と舞鶴 日系アメリカ情報部隊MISとCIC
三章 「かえり船」の港の見える丘
四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ
五章 受け継がれる桜を植えた人の心
前回の「書評、その二」では三章「かえり船」の港の見える丘、までの内容をご紹介しました。今回は四章と五章の内容をご紹介します。
三章では昭和48年、1975年に舞鶴市の市会議長の矢野健之助が「ハワイ日系二世をしのぶ友好平和のサクラ」の石碑を立てたと記しました。しかし昭和24年にフジオ高木がソメイヨシノを植えてから24年も経過したので誰が植えたかわかりません。そこで矢野健之助と関係者はハワイの日系新聞の協力で徹底的に桜を植えた日系兵を探します。
数年以上も探しますが桜を植えた人が分らなかったのです。
四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ、では桜を植えたフジオ高木の一生を詳しく説明してあります。そしてハワイの新聞で知っていながら、何故名のり出なかったか理由が書いてあります。フジオ高木は舞鶴で知り合った日本人と結婚し、そのご朝鮮動乱の戦場に出てベトナム戦争に参戦し1973年に除隊しました。除隊後、妻の実家のあった舞鶴を訪問します。若かった妻と当時の舞鶴を思い出し歩きまわります。そして「一章 真珠湾に落ちたゼロ戦」にある戦死したパイロットの奥さんを訪問し最後の様子を報告したのです。
この章には自分がハワイで貯めたお金で桜を植えたのにフジオ高木が名乗り出なかった理由も書いてあります。それは名乗り出るほどのことではないと思っていたからです。これこそ日系二世のつつましさです。
五章 受け継がれる桜を植えた人の心、ではいよいよ桜を植えたのがフジオ高木だったと判明します。きっかけは1992年の真珠湾攻撃50周年の行事でした。読売新聞が「真珠湾の人々、あれから50年」という7回の詳しい連載記事を掲載したのです。
その7回目の記事で舞鶴に桜を植えたフジオ高木と妻、弥生のインタビュー記事が出たのです。この新聞の日づけは1991年、平成3年12月8日でした。舞鶴に植えたのが1949年でしから実に43年たってからフジオ高木が植えたと確定したのです。
そして舞舞鶴市は1994年に高木夫妻を招待し感謝の宴を開いたのです。この行事は日本の全ての大新聞が報じ、テレビも特集番組をいろいろ組みました。
現在舞舞鶴市のその桜はアロハ桜保存会によって植え継がれ名所になっています。
フジオ高木は2004年に亡くなりました。享年84歳でした。
細川呉港さんが何故この本を書いたのでしょうか?何故こんなにも丹念に根気よく忘れられた事を調べ上げたのでしょうか?この本は太平洋戦争に巻き込まれた人々の記録です。歴史書です。細川呉港さんこの本を書いたのは桜花に対する深い愛があったからです。
彼は本の終わりに書いています。・・・何故舞鶴の人々は70年以上も前に植えられた桜にこだわり大切に保存するのか? それは桜を愛する人にとっては、かけがいのない大きな大きな心の財産だからである。桜を愛でる人の気持ち・心は、愛でない人には全く分からない。・・・
この言葉の意味は細川呉港著、「桜旅ー心の歴史秘話を歩く」を読むと一層深く理解出来ます。
さて長くなったので関連の写真を示して終わりにします。
1番目の写真は日本に進駐したころの若かりしフジオ高木です。
2番目の写真は行進する日系兵の第442連隊戦闘団の様子です。(1944年、フランス)
3番目の写真は日系兵の第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)です。トルーマン大統領はソフト帽をかぶりレインコートを着て中央を歩いています。
4番目の写真は日系兵の元兵士らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)です。
この本の内容をもう一度総括します。焼け跡で多くの日本人が食うや食わずの時、舞鶴の丘の上に桜を植えたのは誰か? 43年間名乗り出なかった日系2世の兵隊とは?。この問題を丹念に調べその結果を書いた本です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========================
(1)日系兵士の第442連隊戦闘団について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3
第442連隊戦闘団は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊である。士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりは連隊に従軍した約14,000人のうち、死傷率は314%であり、この数字は一人平均三回以上死ぬような大けがをしたということを示している。そして9,486人がパープルハート章(日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章などとも訳される)を獲得した。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる。
第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。
(2)著者プロフィール
細川呉港 は広島県呉市出身。1944(昭和19)年生まれ。出版社を経て現在フリー。現代中国、満洲、モンゴル研究は長い。東洋文化研究会の運営は今年で35年目になる。歴史に生きた無名の人物を掘り起こす作業を続けている。
著者に『満ちてくる湖』(平河出版)、『ノモンハンの地平』(光人社)、『日本人は鰯の群れ』(光人社)、『草原のラーゲリ』(文藝春秋社。中文版、モンゴル縦文字版、キリル文字版の翻訳書がある)、『紫の花伝書』(集広社)、『桜旅』(愛育出版)、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版)、近刊『柔術の遺恨』などのほか、編著として『台湾万葉集』『バイコフの森』『孔子画伝』『西チベット ピアンとトンガの仏教遺跡』(いずれも集英社)など。
序章 舞鶴の丘に新しい桜を植える
一章 真珠湾に落ちたゼロ戦
二章 進駐軍と舞鶴 日系アメリカ情報部隊MISとCIC
三章 「かえり船」の港の見える丘
四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ
五章 受け継がれる桜を植えた人の心
前回の「書評、その二」では三章「かえり船」の港の見える丘、までの内容をご紹介しました。今回は四章と五章の内容をご紹介します。
三章では昭和48年、1975年に舞鶴市の市会議長の矢野健之助が「ハワイ日系二世をしのぶ友好平和のサクラ」の石碑を立てたと記しました。しかし昭和24年にフジオ高木がソメイヨシノを植えてから24年も経過したので誰が植えたかわかりません。そこで矢野健之助と関係者はハワイの日系新聞の協力で徹底的に桜を植えた日系兵を探します。
数年以上も探しますが桜を植えた人が分らなかったのです。
四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ、では桜を植えたフジオ高木の一生を詳しく説明してあります。そしてハワイの新聞で知っていながら、何故名のり出なかったか理由が書いてあります。フジオ高木は舞鶴で知り合った日本人と結婚し、そのご朝鮮動乱の戦場に出てベトナム戦争に参戦し1973年に除隊しました。除隊後、妻の実家のあった舞鶴を訪問します。若かった妻と当時の舞鶴を思い出し歩きまわります。そして「一章 真珠湾に落ちたゼロ戦」にある戦死したパイロットの奥さんを訪問し最後の様子を報告したのです。
この章には自分がハワイで貯めたお金で桜を植えたのにフジオ高木が名乗り出なかった理由も書いてあります。それは名乗り出るほどのことではないと思っていたからです。これこそ日系二世のつつましさです。
五章 受け継がれる桜を植えた人の心、ではいよいよ桜を植えたのがフジオ高木だったと判明します。きっかけは1992年の真珠湾攻撃50周年の行事でした。読売新聞が「真珠湾の人々、あれから50年」という7回の詳しい連載記事を掲載したのです。
その7回目の記事で舞鶴に桜を植えたフジオ高木と妻、弥生のインタビュー記事が出たのです。この新聞の日づけは1991年、平成3年12月8日でした。舞鶴に植えたのが1949年でしから実に43年たってからフジオ高木が植えたと確定したのです。
そして舞舞鶴市は1994年に高木夫妻を招待し感謝の宴を開いたのです。この行事は日本の全ての大新聞が報じ、テレビも特集番組をいろいろ組みました。
現在舞舞鶴市のその桜はアロハ桜保存会によって植え継がれ名所になっています。
フジオ高木は2004年に亡くなりました。享年84歳でした。
細川呉港さんが何故この本を書いたのでしょうか?何故こんなにも丹念に根気よく忘れられた事を調べ上げたのでしょうか?この本は太平洋戦争に巻き込まれた人々の記録です。歴史書です。細川呉港さんこの本を書いたのは桜花に対する深い愛があったからです。
彼は本の終わりに書いています。・・・何故舞鶴の人々は70年以上も前に植えられた桜にこだわり大切に保存するのか? それは桜を愛する人にとっては、かけがいのない大きな大きな心の財産だからである。桜を愛でる人の気持ち・心は、愛でない人には全く分からない。・・・
この言葉の意味は細川呉港著、「桜旅ー心の歴史秘話を歩く」を読むと一層深く理解出来ます。
さて長くなったので関連の写真を示して終わりにします。
1番目の写真は日本に進駐したころの若かりしフジオ高木です。
2番目の写真は行進する日系兵の第442連隊戦闘団の様子です。(1944年、フランス)
3番目の写真は日系兵の第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)です。トルーマン大統領はソフト帽をかぶりレインコートを着て中央を歩いています。
4番目の写真は日系兵の元兵士らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)です。
この本の内容をもう一度総括します。焼け跡で多くの日本人が食うや食わずの時、舞鶴の丘の上に桜を植えたのは誰か? 43年間名乗り出なかった日系2世の兵隊とは?。この問題を丹念に調べその結果を書いた本です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========================
(1)日系兵士の第442連隊戦闘団について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3
第442連隊戦闘団は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊である。士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりは連隊に従軍した約14,000人のうち、死傷率は314%であり、この数字は一人平均三回以上死ぬような大けがをしたということを示している。そして9,486人がパープルハート章(日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章などとも訳される)を獲得した。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる。
第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。
(2)著者プロフィール
細川呉港 は広島県呉市出身。1944(昭和19)年生まれ。出版社を経て現在フリー。現代中国、満洲、モンゴル研究は長い。東洋文化研究会の運営は今年で35年目になる。歴史に生きた無名の人物を掘り起こす作業を続けている。
著者に『満ちてくる湖』(平河出版)、『ノモンハンの地平』(光人社)、『日本人は鰯の群れ』(光人社)、『草原のラーゲリ』(文藝春秋社。中文版、モンゴル縦文字版、キリル文字版の翻訳書がある)、『紫の花伝書』(集広社)、『桜旅』(愛育出版)、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版)、近刊『柔術の遺恨』などのほか、編著として『台湾万葉集』『バイコフの森』『孔子画伝』『西チベット ピアンとトンガの仏教遺跡』(いずれも集英社)など。