数日前に細川呉港さんから「舞鶴に散る桜」という本を頂きました。以前に「草原のラーゲリ」という本と「桜物語」という本も頂きましたので細川呉港さんの力作の3部作が揃いました。
この3部作の本の写真をお送りします。
これら3つの本には戦争に振り回されながらも美しく生きようとする人間の心の動きがしみじみと描かれています。嗚呼、人間はこうも美しい心を持っているだと思わず涙を流します。歴史に現れない無名の人々の生き方を丹念に探し歩きそれぞれの人生を描いているのです。そのいろいろな人々を結ぶ縦糸は桜の花です。細川呉港さんは人間を愛しているのです。細川呉港さんは桜花を愛しているのです。
いずれ「舞鶴に散る桜」という本の書評を掲載するつもりですが、今日はまず「草原のラーゲリ」という本をご紹介いたさいます。
「草原のラーゲリ」は美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆を書いた本です。
嗚呼、何故モンゴル人はこんなにも純粋なのでしょう?一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないでせつないまでに日本人へ忠誠をつくします。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか。深い感慨にとらわれます。
この本は大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂いた一冊でした。は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本のことです。
細川呉港氏は1944年広島県生まれ。集英社勤務を経てフリーになった人です。
モンゴル人、ソヨルジャブは1925年、満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。優秀だった彼はハルピン学院を卒業し、満州国の官吏になり、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員として働いていました。
昭和20年(1945年)8月9日未明、突如飛来したソ連軍機の空襲があります。
数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学します。
だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転したのです。留学を終えた1947年、公安に逮捕されたのです。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこからはは9年半後、65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない。
国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に忠誠を誓い協力した多くの人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。
文革大革命も終り名誉回復したソヨルジャブはフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校しました。
そしてその後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
彼は偶然にも満州国の官吏になったお陰で苦難の人生を歩むことになったのです。
しかし強制収容所の生活を17年もしても日本人を裏切らなかったのです。
このような人は数多く居たに違いありません。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その理由は謎です。
しかし人としての絆を守り抜く人の人生は燦然として輝いています。彼にとっては美しい人生とはそんなものでした。
彼は2011年に86歳で人生を終わります。その後、日本で開催された「ソヨルジャブさんを偲ぶ会」には奥さんが出席しました。
ソヨルジャップは昭和17年に生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語は、「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」(2018年07月26日掲載記事)にあります。
藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。その後、数十年間も探すのです。そして日本まで探しに来たソヨルジャップはついに藤田の妻と娘に会います。
こんなことが書いてあるのが細川呉港著「草原のラーゲリ」という本なのです。
この3部作の本の写真をお送りします。
これら3つの本には戦争に振り回されながらも美しく生きようとする人間の心の動きがしみじみと描かれています。嗚呼、人間はこうも美しい心を持っているだと思わず涙を流します。歴史に現れない無名の人々の生き方を丹念に探し歩きそれぞれの人生を描いているのです。そのいろいろな人々を結ぶ縦糸は桜の花です。細川呉港さんは人間を愛しているのです。細川呉港さんは桜花を愛しているのです。
いずれ「舞鶴に散る桜」という本の書評を掲載するつもりですが、今日はまず「草原のラーゲリ」という本をご紹介いたさいます。
「草原のラーゲリ」は美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆を書いた本です。
嗚呼、何故モンゴル人はこんなにも純粋なのでしょう?一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないでせつないまでに日本人へ忠誠をつくします。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか。深い感慨にとらわれます。
この本は大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂いた一冊でした。は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本のことです。
細川呉港氏は1944年広島県生まれ。集英社勤務を経てフリーになった人です。
モンゴル人、ソヨルジャブは1925年、満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。優秀だった彼はハルピン学院を卒業し、満州国の官吏になり、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員として働いていました。
昭和20年(1945年)8月9日未明、突如飛来したソ連軍機の空襲があります。
数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学します。
だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転したのです。留学を終えた1947年、公安に逮捕されたのです。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこからはは9年半後、65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない。
国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に忠誠を誓い協力した多くの人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。
文革大革命も終り名誉回復したソヨルジャブはフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校しました。
そしてその後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
彼は偶然にも満州国の官吏になったお陰で苦難の人生を歩むことになったのです。
しかし強制収容所の生活を17年もしても日本人を裏切らなかったのです。
このような人は数多く居たに違いありません。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その理由は謎です。
しかし人としての絆を守り抜く人の人生は燦然として輝いています。彼にとっては美しい人生とはそんなものでした。
彼は2011年に86歳で人生を終わります。その後、日本で開催された「ソヨルジャブさんを偲ぶ会」には奥さんが出席しました。
ソヨルジャップは昭和17年に生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語は、「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」(2018年07月26日掲載記事)にあります。
藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。その後、数十年間も探すのです。そして日本まで探しに来たソヨルジャップはついに藤田の妻と娘に会います。
こんなことが書いてあるのが細川呉港著「草原のラーゲリ」という本なのです。