後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

細川呉港著「草原のラーゲリ」という美しき物語

2020年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
数日前に細川呉港さんから「舞鶴に散る桜」という本を頂きました。以前に「草原のラーゲリ」という本と「桜物語」という本も頂きましたので細川呉港さんの力作の3部作が揃いました。
この3部作の本の写真をお送りします。





これら3つの本には戦争に振り回されながらも美しく生きようとする人間の心の動きがしみじみと描かれています。嗚呼、人間はこうも美しい心を持っているだと思わず涙を流します。歴史に現れない無名の人々の生き方を丹念に探し歩きそれぞれの人生を描いているのです。そのいろいろな人々を結ぶ縦糸は桜の花です。細川呉港さんは人間を愛しているのです。細川呉港さんは桜花を愛しているのです。
いずれ「舞鶴に散る桜」という本の書評を掲載するつもりですが、今日はまず「草原のラーゲリ」という本をご紹介いたさいます。
「草原のラーゲリ」は美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆を書いた本です。
嗚呼、何故モンゴル人はこんなにも純粋なのでしょう?一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないでせつないまでに日本人へ忠誠をつくします。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか。深い感慨にとらわれます。
この本は大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂いた一冊でした。は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本のことです。
細川呉港氏は1944年広島県生まれ。集英社勤務を経てフリーになった人です。
モンゴル人、ソヨルジャブは1925年、満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。優秀だった彼はハルピン学院を卒業し、満州国の官吏になり、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員として働いていました。
昭和20年(1945年)8月9日未明、突如飛来したソ連軍機の空襲があります。
数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学します。

だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転したのです。留学を終えた1947年、公安に逮捕されたのです。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこからはは9年半後、65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない。

国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に忠誠を誓い協力した多くの人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。
文革大革命も終り名誉回復したソヨルジャブはフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校しました。
そしてその後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
彼は偶然にも満州国の官吏になったお陰で苦難の人生を歩むことになったのです。
しかし強制収容所の生活を17年もしても日本人を裏切らなかったのです。
このような人は数多く居たに違いありません。

何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その理由は謎です。
しかし人としての絆を守り抜く人の人生は燦然として輝いています。彼にとっては美しい人生とはそんなものでした。
彼は2011年に86歳で人生を終わります。その後、日本で開催された「ソヨルジャブさんを偲ぶ会」には奥さんが出席しました。
ソヨルジャップは昭和17年に生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
 それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
 省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
 藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
 それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
 藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
 広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・

これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語は、「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」(2018年07月26日掲載記事)にあります。

 藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。その後、数十年間も探すのです。そして日本まで探しに来たソヨルジャップはついに藤田の妻と娘に会います。

こんなことが書いてあるのが細川呉港著「草原のラーゲリ」という本なのです。

「親友、近藤君が旅立った」

2020年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
歳を取ると昔仲良くしていた友人が一人、また一人と旅立って行きます。惜別の悲しみとともにその友人との楽しい思い出の場面が走馬燈の絵のように浮かび上がって来ます。
最近亡くなった近藤君は仙台の大学時代の同級生の友人でした。何事にも情熱的で夢多いロマンチストでした。大学の建物の屋上での私が撮った近藤君の学生服の姿の写真を思い出します。
やがて卒業し就職しました。東海村の日本原子力研究所で金属の腐食の研究を始めました。私は何度か東海村の近藤君の所に遊びに行きました。新婚だった彼の家に泊ったこともありました。
そして私がいたオハイオ州立大学への留学を誘ったのです。彼も奥さんもオハイオに来て博士号を取りました。そして東海村の研究所で生涯を過ごしたのです。我が家にも泊まりに来てくれました。旧友と学生時代の話をしながら酌み交わした酒はしみじみ美味しかったのを思い出しています。
定年後、近藤君は霞ヶ浦の私のヨットに何度か遊びに来ました。水戸から特急に乗ってやって来たのです。

1番目の写真は近藤君と霞ヶ浦でセイリングした時の写真です。今から15年ほど前でした。

2番目の写真は土浦港に係留してあった私のヨットです。
夜は近藤君とヨットに中でビールを飲みます。その時彼が言ったのです。「こんな面白いものに仙台時代の同級生も誘ったら良い」と言うのです。

3番目の写真はそうして開いたヨットの中のパーティです。近藤君を含めて同級生が6人来ました。皆は土浦駅前のホテルに泊まり次の日は霞ヶ浦でセイリングを楽しみました。この時参加した星野君も大友君もその後旅立ってしまったのです。
近藤君は研究所を止めてからも元気でした。畑でいいろな野菜を作り宅急便で送って来ました。新鮮な野菜は美味しいと分ったのは近藤君のお陰です。
彼は原子力発電は重要な技術だから止めるべきではないという講演をあちこちでしていました。
以下はこの欄に2011年08月06日に掲載した記事です。
「原子力の先進技術から日本が徹退する手はない・・・近藤達男さんの主張」
このブログでは何度も私は「段階的脱原発論」を展開して来ました。
しかしその反対意見も時々掲載してきました。今回は元日本原子力研究所で原子力の平和利用の研究をして来た近藤達男さんの、銚子市文化講演会の様子の写真をお送りします。

4番目の写真は記事が掲載された新聞の誌面の写真です。新聞は銚子市に古くからある新聞、「大衆日報」です。その2011年8月3日の紙面の写真です。
新聞の見出しを見ただけで彼の気持ちが痛いほど分かります。非常に数多くの研究者が一生を捧げて築いてきた日本の原子力利用の技術をムザムザ捨てても良いのですか?それは技術立国にしようと、えいえいとして努力して来た日本にとっては取り返しのつかない禍根になりませんか?原発からの撤退でなく、より安全な原発を開発すべきではないでしょうか?というような趣旨でした。(終わり)
近藤君は最後まで情熱家でした。ロマンチストでした。私の人生を豊かにしてくれました。
そして同じように大学時代の同級生の星野君も大友君も亡くなってしまったのです。
彼等への追悼の記事は次のとうりです。
「猪苗代湖の白鳥とヨット、そして今は亡き星野君を想う」(2014年12月17日 掲載)
「数日前、富士山で遭難した旧友(大友君)の思い出」(2018年09月15日 掲載)
「我が友人、星野君と大友君との最後のセイリングの写真と思い出」(2020年09月28日 掲載)
仙台の大学の同級生は30人でした。もう7,8人旅立ってしまいました。大学時代の彼等の若い元気な顔を思い出します。
悲しみながらも楽しかった場面をいろいろ思い出します。老境の悲しみと楽しみです。

それはそれとして、
今日は縁あってこの拙文をお読みになった皆様の長寿をお祈り申し上げます。  後藤和弘