今日は宗教のことを少し書くことにします。さて宗教心とは何でしょうか?
カトリック小金井教会もクリスマスイブのミサに行きながら宗教のことを考えていました。宗教心すなわち信仰心のことです。
1番目の写真は昨日クリスマスイブのミサに行ったカトリック小金井教会です。
さて宗教を信じることを信仰心すなわち宗教心と定義してみましょう。信仰心と宗教心は同義語と定義します。
すると宗教とは何かという問題が出てきます。神道も仏教もキリスト教もイスラム教もみな宗教です。
ですからこれらの宗教を信じれば宗教心があると言えます。
しかし宗教を信じない人でも亡くなった父母を時々思い出して、自分を守ってくれていると思うことがあります。
あるいは、お彼岸に先祖代々のお墓の掃除をして線香を上げて手を合わせます。するとご先祖さまが自分の家内安全を守ってくれているような気がします。何時もは忘れているご先祖さまを身近に感じ、自分達の幸せを守ってくれるように感じます。
これが人間が原始時代から持っている宗教心と言えます。
原始的な宗教心は先祖への崇拝の気持ちだけではありません。巨木や山や高い滝に対して神秘的な力を感じ、それらに自分の健康と幸せを祈る気持ちが自然に湧いてきます。これも宗教心です。
そして原始人が火を使い始めると同時に火の不思議な力に感動します。そして火そのものを祈りの対象にする人々も現れます。
そして太陽を信仰する原始宗教もあります。
このような原始的な宗教心は現在でも私達の宗教心の見えない土台として重要な役割を果たしていると私は考えています。
これらの原始的な宗教心は現在でも非常に大切だというのが今日の私の主張なのです。
そして私はこの原始的な宗教心を土台として日本人は神道や仏教やキリスト教を信じていると考えています。
さて原始的な宗教に対して仏教やキリスト教やイスラム教を高等宗教と言う場合があります。
原始宗教と高等宗教の違いは体系的な教えがあるか否かによって分類出来ます。
仏教やキリスト教やイスラム教には体系的に書かれてた教義があります。それに対していろいろな原始的な宗教には体系だった教義がありません。
このように書くと原始宗教と高等宗教ははっきりと分けられそうです。
しかし人間は一般的に原始宗教と高等宗教の両方を信じていることがあるのです。
例は四国のお遍路さんの信仰心です。お遍路道を苦しい思いをして歩く時に「同行二人」と信じて苦しさを忘れて歩き通します。弘法大師さまが自分と一緒に歩いて下さっているから頑張れるのです。
このように信じることはご先祖さまが生きていて常に子孫を守っているという信仰と似ています。
そこにはお釈迦様の教えより弘法大師さまが重要な役割をしているようです。
弘法大師さまが生きていて自分とお遍路道を一緒に歩いて下さっているという信じ方は何か原始宗教的な信じ方です。
このような信仰心のあり方はキリスト教にもあります。イエス様が何時も自分と一緒に居て下さっているという信じかたです。
そして最後の晩餐でパンを割き、弟子たちにこれを自分の肉体の記念として食べなさいと手渡したのです。ブドウ酒をイエス様の血として飲みなさいと言って弟子たちに飲ませたのです。
カトリックやロシア正教のミサや礼拝ではこの最後の晩餐と同じことを行います。
小さなパン片を信者一人一人に神父様が「イエスの体」と言って食べさせます。信者はパンの一片をイエス様の肉体の一部として食べるのです。
葡萄酒をイエスさまの血として飲むのです。このような信じ方はあまりにも原始的です。
しかし私はそれを信じます。パンの一片をイエス様の肉体の一部として食べるのです。
このように高等宗教の実際の信仰のあり方に原始宗教的な信仰が混在しているのです。
宗教改革以後に生まれたプロテスタントの諸宗派はこのような原始的な信仰を嫌います。ですから小さなパン片を信者一人一人に神父様が「イエスの体」と言って食べさせる儀式はしませません。
今日は人間の宗教心に関することを少し書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)