暖かい晴天の日でした.。後の散歩は小金井公園までです。
甲府盆地の古墳とその造営を支えた稲作の水田風景をご紹介したいと思います。水田の風景は紀元前3世紀頃からの弥生時代から現在にいたるまであまり変わっていないのです。
さて甲府盆地の石器時代と縄文時代は、現在の北杜市の八ヶ岳南麓には人々が沢山住んでいました。特に縄文時代には見事な装飾のついた縄文土器を生産していました。縄文時代の住居跡もあちこちにあります。
しかし同じ北杜市の甲斐駒岳の甲府盆地側は北向きの傾斜地が多く、冬は寒冷で住みにくかったらしく、住居跡はありません。しかし定住はしていませんでしたが狩の場所として人々出入りしていました。そこ棲んでいた鹿や猪の狩猟や、山菜や木の実の収集のために人が出入りしていたようです。住居跡はありませんが狩に使う石器や、焚火の跡に縄文土器が残っているのです。
そして西暦前300年以後の弥生時代に入ると、田畑農業が普及し、八ヶ岳山麓の縄文人達は現在の韮崎市より東に広がる甲府盆地へと移動してしまいます。釜無川や笛吹川の周囲に水田を作るために甲府盆地の東部分に移住して行ったのでしょう。
弥生時代になると人間の住居跡は韮崎市の東側にしか出て来ません。八ヶ岳山麓や甲斐駒山麓には弥生時代の遺跡が皆無なのです。
時は流れ、西暦後300年以後の古墳時代になると甲府盆地の釜無川と笛吹川の両側の稲作地帯にのみ人々が定住していたようです。
その様子は山梨県にある30基の古墳の分布が甲府盆地の稲作可能な地帯にだけ集中している様子からも明快です。
従って現在の北杜市には、西暦前300年頃から西暦600年頃までの約900年間、人間が殆どいなくなってしまったのです。勿論、狩猟・採集生活が好きな少数の家族は北杜市に住みついて相変らず縄文時代と同じような生活をしていたようです。
縄文時代と弥生時代が重なり合って同時に両方の生活様式が行われていたのです。
ですから上記で紀元前300年から弥生時代になったと書きましたが、それは便宜的な表現です。旧石器時代も縄文時代も弥生時代も古墳時代も全国の場所によってその区分は明瞭でないのが普通です。例えば平安時代になっても地方の農民は竪穴住宅や掘っ立て小屋に住んでいて、弥生時代とあまり変わらぬ生活だったのです。
それはさておき、甲府盆地の西の部分へ人間が戻ったのは、律令国家が出来て、献上する馬の放牧地として利用するようになったためと推定されています。現在、北杜市武川町の甲州街道には牧原(まきがはら)という地名もあるのです。このあたりは中央朝廷へ献上する馬の生産地であって、牧が原の名がついたのでしょう。
この甲府盆地には30基の古墳があるのです。
下には笛吹川の傍にある全長170mの巨大な前方後円墳の甲斐銚子塚古墳の写真を示します。この古墳は西暦350から400年に造営されたと言われています。
1番目の写真は甲斐銚子塚古墳の写真です。
そして下にある2枚の写真はこの甲斐銚子塚古墳の現在の光景です。2013年1月17日に家内と一緒に行って撮って来た写真です。
2番目の写真は甲斐銚子塚古墳の現在の光景です。
3番目の写真も甲斐銚子塚古墳の光景です。
山梨県の古墳や、出土品を詳しく見ていくと、このような山国の内陸地にこれだけ多くの古墳が築造されていたことに驚きます。
古墳は3世紀から5世紀にかけて全国に造られました。大和地方や機内の前方後円墳だけが教科書に載っているので、巨大な古墳が全国にあったという事実を知らない人も多いようです。しかし甲府盆地にも30基も作られていたのです。
この数多くの古墳の存在は地方豪族の存在を示しています。そして古墳造営の費用を支えたのは弥生時代から始まった水稲栽培の発達だったのです。
そこで甲府盆地にある現在の水田風景の写真を示します。家内が以前に撮ったものです。
4番目の写真が山梨県の水田風景です。
5番目の写真は山際の水田です。
この写真には農民が一人写っています。弥生時代と同じようです。しかし、よく見ると水田の向うに白いビニールハウスが2棟写っています。昔はそんなものはありませんでした。
つでにもう一枚、田植え機械の田植え風景の写真を示します。
6番目の写真は田植え機械で」の田植え風景です。
さて、日本の総人口は、縄文時代中期には26万人まで増加し、末期の寒冷化で数万人まで減少します。しかし弥生時代に入り、農業の発達し始めると増加一方に変化したのです。
山梨県の甲府盆地には豪族たちが生まれ、領地の農民を支配し、お互いに戦争をしたり、和議を結んでいたのです。
そして古墳時代になると豪族たちは巨大な古墳を造営したのです。しかし甲府盆地にある30程の古墳に葬られている豪族達の名前は定かではありません。
この状況が、律令国家の甲斐国の成立と甲斐国分寺が出来る時代へとつながって行くのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:山梨県にある30基の古墳の説明======
下は山梨県にある30基の古墳の一覧表を示します。http://kofun.info/kofunlist/15より。
名前、 形、 紹介文
姥塚古墳 円墳 径約40m、高さ約10mの円墳。 一番の見所は南西に開口す ...
滝坂の往生塚 円墳 径15m、高さ3mの円墳。 埋葬施設は無袖型の横穴式石室で ...
王塚古墳 帆立貝式古墳 全長約65mの帆立貝式古墳。 墳丘各所で円筒埴輪が見つかっ ...
大塚古墳 円墳 径約15mの円墳。 片袖型の横穴式石室が南に開口、全長約8 ...
岡・銚子塚古墳 前方後円墳 全長92mの前方後円墳。 墳丘には段が有り、葺石、埴輪が存 ...
おつき穴古墳 円墳 墳形・規模は不明。公園内に保存されている。 横穴式石室が南 ...
甲斐銚子塚古墳 前方後円墳 全長約170mの前方後円墳。 墳丘は後円部3段、前方部2段 ...
加牟那塚古墳 円墳 径約45mの円墳。 埋葬施設は南に開口する横穴式石室で、全 ...
かんかん塚(茶塚)古墳 円墳 径約26mの円墳。 埋葬施設は全長約7mの竪穴式石室で、武 ...
狐塚古墳 円墳 径約15m、高さ約3mの円墳。 埋葬施設は南東に開口する無 ...
経塚古墳 八角墳 全国でも発見例の少ない八角形墳の1基である。 径約12.5 ...
こうもり塚古墳 円墳 大平1号墳、地元では「こうもり塚」と呼ばれている。 径10 ...
盃塚古墳 円墳 径23m、高さ4.5mの円墳。 墳丘の周囲を幅1.8mの濠 ...
地蔵古墳 円墳 大平2号墳、地元では「地蔵古墳」と呼ばれている。 径10~ ...
地蔵塚古墳 円墳 径約35mの円墳。 片袖型の横穴式石室が南に開口、全長約1 ...
団栗塚古墳 前方後円墳 現在は円形をしているが、前方後円墳だったようだ。 円丘部の ...
千米寺古墳群 群集墳 古墳時代後期の円墳群。 かつては60基以上が存在したようだ ...
塚原上村古墳 円墳 古墳時代後期に築造された円墳。愛称は「大西のおかま」。 墳 ...
天神塚古墳 円墳 径約35m、高さ約4mの円墳。 埋葬施設は南に開口する横穴 ...
中秣塚古墳 円墳 赤坂台古墳群の1基で、径14m、高さ約3mの円墳。 埋葬施 ...
西ノ原古墳 不明 墳形・規模不明。石室が保存されている。 石室は南東に入口を ...
子の神古墳 円墳 古墳時代後期に築造された径約5mの円墳。 横穴式石室が南に ...
八幡塚古墳 帆立貝式古墳 現状は方墳だが、築造当時は帆立貝式古墳だったようだ。 葺石 ...
平林2号墳 円墳 春日居古墳群の1基で、径15mの円墳。 埋葬施設は無袖型の ...
ポンポコ塚 円墳 径15mほどの円墳。 出土品は不明だが、横穴式石室の形態か ...
丸山塚古墳 円墳 径72m、高さ11mの円墳。 墳丘は2段に築かれ、埴輪が存 ...
万寿森古墳 円墳 径約25m、高さ約5mの円墳。 2006(平成18)年の発 ...
六科丘古墳 円墳 径28mの造出し付円墳。 内部構造については不明だが、鉄剣 ...
物見塚古墳 前方後円墳 現存長約45mの前方後円墳。 墳丘全体を葺石が覆っていたと ...
竜塚古墳 方墳 1辺約56m、高さ約7mの方墳。 墳丘は2段に築かれ、上段 ...
・・・以下省略します。
師走になると日々が足早に流れて行きます。しかしそのせわしさを忘れ今日は武蔵野の古墳時代へ想いをはせてみましょう。律令国家の時代の武蔵国です。
さて武蔵の国の範囲は現在の東京の西部の多摩地方、埼玉県、神奈川県の東部などにまたがっていました。その首府は現在の東京都府中市にありました。首府の役所(国衙 コクガ)は現在の大国魂神社の周辺に集中してあったのです。
現在の府中市は古墳時代から関東西南部の中心地として人口の多い村落、あるいは都市のような機能を持っていたようです。その証拠には府中市内に古墳と証明された塚が多数あるのです。一つの例は府中市熊野神社古墳です。写真を撮って来ました。
1番目の写真は府中市にある熊野神社古墳です。
この石造りの古墳については驚くべき事実が3つあります。
(1)これが650年前後に作られた古墳であると学問的に発見されたのがごく最近の2004年であったのです。
(2)上が丸く、下が四角形は中国の思想を受けた構造であり、副葬品に中国の七曜文様が見つかっているのです。こんな時代に関東地方まで中国文化が浸透していたことに驚きます。
(3)この古墳の驚くべきことは江戸時代にここに引っ越して来た熊野神社のご神体として利用されてきたのです。神仏混淆とは珍しくありませんが神と古墳が混淆しているのは驚きです。
熊野神社古墳で驚いた私は関東地方の古墳時代を調べてみました。
下は家内が撮影した「さきたま古墳群」です。
さて一般に学校教育では古墳は大和朝廷が作ったもので大和地方にあると教わったものです。仁徳天皇の前方後円墳などを写真入りの教科書で習い、他の地方には前方後円墳は無いものと私は老年になるまで信じていました。
しかし古墳は大和朝廷が出来るはるか以前の3、4世紀頃からあったのです。しかも朝鮮からの渡来文化であり埋葬者も朝鮮からの亡命武将や有力な移住者が多かったようです。
埼玉県の行田市の埼玉(さきたま)という地域に巨大な前方後円墳や円墳が9個も集中して残っているのを見て驚きました。
強大な王国が存在したことを想像させます。
出土した、見事な細工の金属製馬具や装飾品の展示もあり、5世紀終わりから7世紀はじめに作られた古墳から出たその他の副葬品が展示されています。
その金属製の馬具や飾りを見てハッとしました。1983年頃、韓国、慶州で見た古墳からの出土品とあまりにも似ているのです。
素人の気安さで言えば、埼玉の古墳を作った人々は韓国、慶州から渡ってきたようです。高麗という地名も埼玉南西部に現存します。
戦中、戦後の学校教育では万世一系の天皇を強調していたのです。埼玉にも巨大な前方後円墳のあることを学校では教えなかったのでしょう。小生は老年になるまで古墳は大和地方にしか無いと信じていたのです。
あなたは埼玉県の行田市の郊外にこのように巨大な古墳群が存在している事実をご存知だったでしょうか?
尚、古墳に関する調査結果やその検証と写真は「埼玉古墳群」と検索するといろいろ出てきます。
今日は師走の忙しさを忘れて近所にある石の古墳と埼玉県の行田市にある「さきたま古墳群」をご紹介しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)