後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「お正月に賑わう神社と縄文時代に出来た神道の原型」

2023年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなく楽しいお正月がやって来ます。多くの日本人は家族と一緒に神社に行って初詣をします。心が明るくなります。心温まる日本人の年中行事です。
この日本固有の宗教の歴史はとても古く旧石器時代や縄文時代から自然崇拝から始まりました。この自然崇拝のための建物が神社の原型だと言われています。神社の原型は大きな柱や高い櫓のようなものでした。青森、三内丸山縄文遺跡からは巨大な六本柱の櫓の跡が発見されています。
その原型が弥生時代から古墳時代にかけて次第に現在の神社ような建物になったと考えられています。
日本列島に人が住み始めたのは3万年以上前のことです。ですから神道の原型の自然崇拝は3万年以上もあると考えられていかす。
したがって神道は日本人の民族宗教なのです。日本に仏教やキリスト教が入って来ても絶対に消滅しない日本人特有の宗教です。

今日はこの神社や神道の歴史をご紹介したいと思います。
3万年以上前の旧石器時代と続く縄文時代の生活の様子は長野県の井戸尻遺跡の研究によって明らかになっています。
井戸尻遺跡からは畑作農耕に使われた石器の刃の鍬や鎌などが多数発見されています。縄文時代に畑作農耕が普及していたのです。
そして青森、三内丸山縄文遺跡からは巨大な六本柱の櫓跡が発見されています。この建造物は縄文人の宗教行事に使用されたと言われています。
一方、山や大樹・大きな岩など自然のものに神が宿ると崇拝する神道の起源は縄文時代にあるという説もあります。そしてこの自然崇拝のための建物が弥生時代や古墳時代に現在の神社のようになったという説が広く認められています。
ですから日本には約2000年前の弥生時代に起源がある神社が沢山あります。
その一つの実例が東京都府中市にある大国魂神社です。大国魂神社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものであると言い伝えられています。
景行天皇は実在していませんから景行天皇41年は嘘です。しかし弥生時代の西暦111年頃には起源があったことは信用しても良いと私は思っています。さらに大国魂神社の2Kmくらい西に熊野神社古墳があるのです。
この府中市の近辺は弥生時代や古墳時代から武蔵野の中心として栄えた場所だったのは間違いの無い事です。
出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられ大国魂神社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれています。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、律令国家の武蔵国の国府をこの処に置くようになり国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられたのです。そして大国魂神社の東の隣に国衙が建設され武蔵国の首都になったのです。
そんな古い歴史のある神社なので地方史が趣味の私にとっては興味深い場所です。
以前撮った大国魂神社の写真をお送りします。




さてここで日本にある神社の全体を見てみましょう。
日本にある神社は東京都渋谷区代々木にある神社本庁によって統括されています。神社本庁は「庁」と称していますが政府の行政機関ではなく民間の宗教法人の一つです。
日本において「神道」という言葉が初めて出て来るのは『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であると言われています。
神道は外来の宗教である仏教と日本固有の信仰を区別するため用いられた言葉ですがやがて神仏混交するのです。
日本国内には約85,000の神社が登録されています。その他に登録されていない小さな神社が無数にあるのです。この神社を敬う人は約1億600万人いると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるそうです。初詣の参拝者が多いのもうなずけます。
東京で初詣の多い神社・寺院は明治神宮、浅草寺、増上寺、神田明神、靖国神社、大國魂神社、深大寺、高幡不動などなどです。私の地元には小金井貫井弁天と稲穂神社あります。

以上のように神社や神道は日本人の心の故郷なのです。間もなく神社が賑わう楽しいお正月がやって来ます。初詣の神社を想うと心が暖かくなります。

今日は神社と縄文時代に出来た神道の原型のはなしを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人の心の故郷のような奈良井、妻籠、馬籠の宿」 

2023年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の心の故郷のような町は何処でしょうか。私のは故郷は仙台ですが都会なので故郷という気分にはなれません。あちこち旅して偶然、「これぞ故郷の町」と感じた町が2か所ありました。一つは「奈良井、妻籠、馬籠の宿」です。二つめは松江でした。
今日は奈良井、妻籠、馬籠の宿の雪景色をご紹介したいと思います。
これらの宿場町は木曽の山の中の中山道にあります。奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿は江戸時代の宿場町がそのまま中山道に保存してあります。
そんな古い宿場町の家並みはシーンとして静かです。時が止まったような風景に魅了されて何度も訪れました。奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿はとても懐かしい曾遊の地なのです。日本人の心の故郷のような町です。
それでは奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿と島崎藤村の生家の雪景色の写真をお送りします。
1番目の写真は雪の奈良井の宿です。写真の出典は、https://riba-kurata.com/winter です。
2番目の写真は妻籠の宿です。宿場の南側に位置する街道には町並みがよく保存されています。雪化粧された家々や石畳が美しいものです。写真の出典は、https://www.jalan.net/news/article/220141/3/ です。
3番目の写真は雪の妻籠宿の夜です。木曽の山の中にある妻籠宿は夜になると急に冷え込みます。この写真は暗い、そして寒い夜の通りを示しています。写真の出典は、https://twitter.com/asumoyama/status/958716519839498240 です。
4番目の写真は積雪した馬籠宿です。写真の出典は、
https://pixta.jp/tags/%E7%A9%8D%E9%9B%AA%20%E9%A6%AC%E7%B1%A0%E5%AE%BF%20%E9%9B%AA%E6%99%AF%E8%89%B2%20%E9%81%93?search_type=1 です。
5番目の写真は積雪の馬籠宿と木曽の山並みの写真です。写真の出典は、
https://pixta.jp/tags/%E7%A9%8D%E9%9B%AA%20%E9%A6%AC%E7%B1%A0%E5%AE%BF%20%E9%9B%AA%20%E5%86%AC です。
6番目の写真は島崎藤村の生家です。藤村記念館になっています。藤村の生家は馬籠宿の本陣でした。幼児からの写真など多数飾られ、原稿や初版本などが展示してあります。家内は素朴な「藤村かるた」を購入しました。
写真の出典は、https://ameblo.jp/ksuigyok/entry-11779207222.html です。

奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は全て険しい山の谷に沿った中山道の宿場町でした。
京都から下って行くと、中山道は木曽福島の関所の先の峠までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井の峠を越すと日本海へ注ぐ川に沿っています。
その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。
・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。・・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。
昔の中山道は現在は奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の中に残っているだけなのです。時はどんどん流れ行きますが、そこだけは時が止まっているのです。此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りました。
新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿は頓着しません。人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?
妻籠の宿、馬籠の宿と島崎藤村の生家の雪景色の写真を見ながら、そんな想いをします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
島崎藤村の「夜明け前」あらすじ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91%E5%89%8D から引用します。
日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている「夜明け前」のあらすじです。

・・・中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主、青山半蔵は、平田派の国学を学び王政復古に陶酔し、山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。下層の人々への同情心が強い半蔵は新しい時代の到来を待っており、明治維新に希望を持つが、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と、政府による人々への更なる圧迫など半蔵の希望とは違う物で、更に山林の国有化により一切の伐採が禁じられるという仕打ちであった。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また嫁入り前の娘、お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は意を決して上京し、自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動になる。その後、飛騨にある神社の宮司になるが数年で帰郷。半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で四十歳ほどで隠居して、読書をしつつ地元の子供たちに読み書きを教える生活を送ることになったが、次第に酒浸りの生活になっていく。維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちはこの責任は半蔵にあると、半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させ親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。そして半蔵は国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男、和助(作者島崎藤村自身がモデル)が期待に反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれ、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。当初は静かに読書に励んでいたが、次第に獄中で衰弱していき、最後には廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。(終り)