全ての宗教には優劣がありません。原始宗教や高等宗教も同じように重要なのです。
全ての宗教は平等に重要であり、どんな宗教や宗派にも優劣が無いと私は信じています。
しかし私は古いキリスト教が好きです。宗教改革の前から受けたつがれて来たカトリックやロシア正教が好きです。マルチン・ルターの宗教改革のおかげで、カトリックの悪習や政治権力との融合が無くなり随分と改良されました。それも含めて、私は何故か古いものに魅力を感じます。
とくにカトリックは1549年にザビエルによって日本へもたらされました。他のキリスト教の全ての宗派は江戸末期か明治時代になってから日本へやって来ました。
今日は私の個人的な好みに従ってカトリックからはヨハネ・パウロ2世とロシア正教からはニコライのことを紹介したいと存じます。
====傑出していたローマ法王、ヨハネ・パウロ2世のこと===
ヨハネ・パウロ2世が2011年に福者に列せられるという決定が、ローマ法王、ベネディクト16世から正式に発表されました。福者とはカトリックの聖者の次の名誉称号であり、いずれ聖者になる可能性が大きいのです。
ヨハネ・パウロ2世が死後6年足らずで福者に列せられるのは異例のことで、如何に傑出した法王だったかの証です。
彼の偉大な功績は、法王なのに巡礼のように世界中を隅々まで旅をして、各地の言葉でミサをたて、洗礼式や叙階式をした事です。日本へも1981年に来て、長崎へも巡礼の旅に行きました。これほどローマ法王が身近に感じ、親しく感じた事はありません。
ポーランドの連帯代表のワルサさんに会いに行き、ポーランドの自由化を支援した事も忘れられません。
====神田のニコライ堂を建てたあるロシア人のニコライの物語=====
ロシア正教は他の東方教会とともにマルチン・ルターの宗教改革の洗礼を直接は受けませんでした。ですから本当に古いタイプの宗派です。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。そして翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。
函館に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。その中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)
お茶の水のニコライ堂のそばを通るこいとがあったら上の話を思い出して下さい。
それはそれとして、今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)