後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「キリスト教以前の西洋の宗教(1)バイキングの多神教」

2023年12月22日 | アート・文化
多神教と北欧神話を信仰していたのは、ゲルマン系に属するデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドの4カ国である。

これらの国では、キリスト教が入ってくる紀元後1000年前後まで、いろいろな神々を深く信仰していた。このキリスト教化する前の時代は、「異教時代」の時代として扱われるようになった。

ヴァイキングの生活は、神々への信仰と非常に深く結びついていた。ほかの宗教における「司祭」は存在せず、日々の祭祀は地域の代表者や家長が執り行う。

また各家庭には信じる神がまつられ、ことある毎に祈りを捧げたとされている。このように、彼らヴァイキングにとっては信仰=生活であり、切っても切り離せないものだったのだろう。

北欧神話を信じていた人々は、スカンディナヴィア半島の周辺に広く住んでいた。そのため、彼らの住む住居は森林の多い地域では木造、石が豊富に取れるところでは石造りと、地域によってばらつきがあった。

ただ、もっとも多く見られたのは、船をひっくり返したような湾曲した屋根を持つ「ロングハウス」という形式の住居だ。元々彼らは、本当に船をひっくり返して住んでいたと言われている。

人々はロングハウスという家に住んでいた..

ロングハウスの中には、部屋と呼べるものはほとんどなく、入り口を入るとすぐ「スカーリ」と呼ばれる広間があった。スカーリの中央には炊事や家事を行う土間と炉があり、部屋の壁には2列のベンチがもうけられている。

そのベンチには、家長や客人が座る高座があり、高座の柱には「トール」などその家が信じる神の像が彫られていた。

寫眞はスカンディナヴィア半島の海、ロングハウスの外観とその構造図です。

詳しくは、https://www.phantaporta.com/2017/06/blog-post03.html をご覧ください。
 

「信州の安曇野の道祖神の寫眞」

2023年12月22日 | 写真
安曇野の道祖神は村の守り神として村の中心、道の辻、三叉路に立っています。 村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄を祈願するもっとも身近な神です。具体的な男女像です。信州の安曇地方の独特の信仰です。ローカル文化です。 


「庚申塔とキリスト教のことなど」

2023年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

もう2日で楽しいクリスマスです。家族がそろって皆でクリスマスケーキやご馳走を食べます。楽しい年中行事です。

それはそれとして、私はよく散歩をします。すると道端に庚申塔があります。よく花が供えてある不思議な祠です。興味があります。
そこで今日は庚申塔のことなどを書いてみたいと思います。
庚申塔は中国の道教の古い信仰です。古くから日本に広まり、現在でも花などを供えて拝んでいる人々がいるのです。不思議です。

既に10世紀ごろには盛んだったようで、庚申の夜眠らないでいる人々の様子が「枕草子」、「大鏡」などに書いてあります。江戸時代には全国の農村などで大流行しました。

そして米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食や歓談をして過ごす楽しい集まりになっていきました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。

このように庚申塔信仰は人々の幸福を守る一種の宗教として栄えたのです。

写真は私の住んでいる小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に立っている1794年に建てられた庚申塔です。

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道教と言えば横浜の中華街の関羽廟を思いつく方々が多いと思いますが、この関羽廟へも日本人が多数参拝して太い線香を供えて家内安全、商売繁盛などを熱心に祈っています。

ところで一方、最近このブログでは以下のように日本にあるキリスト教の諸宗派の相違を比較しながら簡単にご紹介しました。

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(1)カトリック、日本正教(ロシア正教)、聖公会、プロテスタント諸宗派

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(2)幕末にロシア正教を日本へ伝承したニコライ

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(3)アメリカのプロテスタント教会、バプテスト教会

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(4)イエス様の肉を食べるカトリック

上の記事を書きながらそれぞれの宗派の違いは鮮明に理解できました。

そこで次に、私はどの宗派が優れていて、どの宗派が劣っているか考えてみました。

しかし考え始めて間もなく、優劣について考えることは全く無意味である、無駄な行為であるという事に気が付きました。そしてこの結論を確信するようになったのです。

宗教は、簡単に言ってしまえば、信ずる人を幸福にするものです。

従ってどの位幸福になれるかという問題は宗派の優劣よりも、信ずる人の主観的な考え方で決まるのです。

例えばキリスト教のある宗派が非常に精緻で高度な教義を持っていたとします。しかし、それを信じる人が理解できなければ全く無駄になります。

そしてたとえ理解できたとしても、いつも周囲の人に不満をもっているような人は絶対に幸福になれません。

それぐらいなら道端の庚申塔に花を供え、周囲の人々の健康を祈り、いつもニコニコしている方が幸福な状態と断言できます。

ですから私は庚申塔信仰とキリスト教信仰には優劣が無いと考えています。

しかし一方、下の写真をご覧下さい。以前に函館で自分で撮影したカトリック函館教会の内部の様子の写真です。

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円柱に支えられた天井の形と、淡い空色が美しい造形美を見せています。そして奥の祭壇にある金色に輝く彫刻や装飾が天国を暗示しています。内装が一つの芸術作品になっています。ですから、一見、カトリックは優れていて、他の宗派や宗教は劣っているように見えます。

しかしそれは宗教装飾の比較と、芸術性の優劣であって、信仰の対象としての優劣ではないのです。信仰の強弱は他人からは分りません。神様だけが分かるのです。

この考え方に従うとキリスト教のいろいろな宗派の信仰も庚申塔の信仰も優劣が無いと考えざるを得ません。

しかし世の中には原始宗教と高等宗教という言葉があります。一般には前者が劣っていて、後者が優れていると言われています。この優劣判断では両者の教義の精密さや体系化の程度を比較、判定した優劣判断です。

信仰の対象としての優劣の判断ではないのです。

このように私は考えています。

従って、私は日本に伝統的にある庚申塔や馬頭観音や道祖神に対する信仰に非常に興味があります。

素人の宗教に関する雑談ですので学問的な研究ではありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)