後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は江戸東京たてもの園に行きました」、続き

2024年03月03日 | 写真
JR中央線武蔵小金井駅北口からバス5分
西武バス:2、3番のりばより、「小金井公園西口」下車。徒歩5分。
〈 時刻表 〉
2番のりば 武12(東久留米駅 御成橋経由) / 武13(清瀬駅南口)
3番のりば 武21(東久留米駅 錦城高校経由) / 武15(滝山営業所)


「今日は江戸東京たてもの園に行きました」

2024年03月03日 | 写真
 東京都は、1993年(平成5)東京都江戸東京博物館の分館として、敷地面積約7haを擁する「江戸東京たてもの園」を小金井公園に開設しました。
当園では、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。


「伊豆下田の初代アメリカ領事館と日本の開国」

2024年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
伊豆半島は太平洋に突き出た半島です。アメリカから来航して来たハリスは下田の初代アメリカ領事館に着任しました。
1856年でした。ハリスは黒船に海兵隊を乗せて来ました。海兵隊は領事館の玉泉寺の護衛のために3年間、交代しながら常駐します。
着任するとハリスはすぐに江戸幕府へ領事館を江戸に移すように強固な交渉を始めます。
江戸幕府がそんなハリスを懐柔するために美人で賢い藝者のお吉を差し出したのです。
お吉は真心をこめて優しくハリスの世話をしました。
しかしハリスの3年の任期が終わり、彼が帰国するとお吉の運命が暗転します。町の人々は彼女を「唐人お吉」と蔑みました。
そのうえ江戸幕府はハリスの強硬な交渉ぶりに恨みを持っていました。その恨みを、お吉への意趣返しではらしたのです。
下田の町の人々をそそのかせてお吉をいじめさせたのです。
思いあまったお吉は川の淵に身を投げます。その淵は現在、「お吉ケ淵」というバス停になっています。
一方お吉が身投げする3年前に、江戸幕府はアメリカの領事館にするという理由で玉泉寺という寺を接収したのです。
3年後、領事館が江戸へ移転した時、玉泉寺は元の住職へ返されます。
その住職も偉かったのです。迷惑なアメリカの水兵5人のお墓も作り、菩提を弔ったのです。5人の水兵は遠い異国で病死したのです。その墓は現在でも玉泉寺の墓地にあります。
1853、米国特史、ペリーが浦賀に上陸し、翌年の1854年再び来日し、横濱の、現在の神奈川県庁付近に設営した会議場で日米和親条約が調印されました。そして続けて交渉の場を下田へ移し、了仙寺で日米和親条約の細則の下田条約を作ったのです。
それに従って下田の玉泉寺にはじめてのアメリカ領事館が出来、ハリスが初代領事として着任したのです。
このように下田は日本の歴史上大事件である鎖国から開国への転換の地となったのです。
1854年、ペリーが上陸し、交渉の場の了仙寺まで軍楽隊を従えて威風堂々と行進した道が当時の雰囲気に復元されて観光道路になっています。
その道にはナマコ壁の家が並び、アジサイが咲いていました。開国博物館もあります。
2009年12月15日に、ペリーの記念碑と玉泉寺の家内が撮った写真を下に示します。下田に行ったら、この歴史通りを是非訪れてみて下さい。

1番目の写真は下田港の上陸点にあるぺり―提督の胸像です。

2番目の写真はぺり―提督の胸像のそばに咲いていたアジサイです。
ペリー提督が三浦半島の浦賀に1853年に上陸した一年後の1854年に、江戸幕府とペリー提督は日米和親条約を作ったのです。
帰国後、ペリーはタウンゼント・ハリスを初代の在日総領事として下田へ派遣したのが1856年です。
ハリスを乗せた3本マストの帆船で蒸気機関を持ったサン・ジャシント号が下田港に錨を下ろした所は1番目の写真の付近です。
この写真の海からボートで陸に上がった所に玉泉寺があります。
玉泉寺は420年の歴史のある曹洞宗の古刹です。江戸幕府はその寺をハリスにアメリカ領事館として与えたのです。

3番目の写真は下田港の風景です。ヨットが多数もやっていました。

1856年8月5日にハリスは通訳官ヒュースケンを伴い、下田の玉泉寺に入ります。次の日に高い旗竿を立てて、日本で初めて、星条旗を掲揚したのです。
それから2年10ケ月の間、ハリスはこの寺にとどまり、アメリカの初代総領事館を守ったのです。
下の4番目の写真は寺の入口の階段です。ハリスが登り降りした階段です。

4番目の写真は玉泉寺の寺の入口の階段です。 
5番目の写真は寺玉泉寺の本堂です。立っている男は私です。
本堂の右手に大きなハリス記念館があり、当時ハリスが使っていた文房具、家具、調度などが展示してあります。
展示物は数多く、ハリスの人物像もあり当時の生活の実態がよく分かります。
ハリスが住んでいた本堂の中にアメリカから運んできた大きな薪ストーブを取りつけ、冬の寒さをしのいだのです。
本堂の前庭では牛を殺して牛肉を食べていたと記録にあります。牛乳も飲んでいました。
夏は暑くて、大きな蚊に悩まされたとハリス日記に書いてあります。
ハリスの世話をしたのが江戸幕府が送った下田の芸者、お吉でした。お吉は美人で聡明な女性でした。彼女はこの玉泉寺で3年間、誠心誠意ハリスへ尽くしたのです。
このお寺の裏山には、ペリー艦隊の5人の死亡者のお墓もあります。ペリー艦隊の5人のお墓とは別にロシアの黒船の3人の墓もあります。

6番目の写真はロシアの黒船の3人の墓です。立っている男は私です。
アメリカ人の5つの墓もロシア人の3つの墓も見かけは佛教風な作りですが、墓石の前面には大きく十字架が彫り込んであります。
海兵隊(Marine)が当時からアメリカの軍隊組織の中に独立した組織として区別されていたのです。

江戸時代からアメリカ領事館が日本にあったのです。やがて明治維新が起き、アメリカ総領事館は東京へと移転して行くのです。

幕府の外交方針は閉鎖的な考えに基いて居ました。外国人は江戸からなるべく遠方に離して置いたのです。それは函館に最初のロシア領事館を置いたことでも分かります。

このように、外人を遠方に置きたい、異人とはなるべく付き合いたくないという考え方でした。

今日は江戸幕府が260年続いた鎖国をやめてアメリカへ開国したいきさつを書きました。下田でアメリカのアメリカ領事館が出来、ハリスが初代領事として着任したのです。その後アメリカ領事館は東京へ移転するのです。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘

「全国一大規模な勝浦の雛祭り」

2024年03月03日 | 写真
ただいま千葉県勝浦市で大規模なひな祭りが開催中です。
勝浦市芸術文化交流センター・キュステをメイン会場とし、
興津(おきつ)会場、上野会場、総野会場、御宿会場など
各地区で工夫をこらした雛飾りを見ることができます。
お雛様の数がすごい! 
すべて合わせると勝浦市の人口(約19,000人)を軽く超える、
約30,000体にもなるそうです。
そのうえ日本全国から集められたので見たこともないような珍しい雛人形を見ることができりそうです。
詳しくは、https://colocal.jp/news/66181.html をご覧下さい。