後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ジプシー民族の芸のロマンと犯罪」

2024年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄では最近、「アジアの少数民族、私の少数民族への温かい気持」や「写真で見る絶滅寸前のヨーロッパの少数民族」という記事を書きました。
今日はインド発祥のジプシー民族のことを書いてみたいと思います。
さてジプシーの文化、特に音楽などは非常に高く評価されています。スペインでは彼らのダンスからフラメンコが生まれました。大サーカスのうち幾つかのサーカス団はジプシーが経営者です。また、戦前戦後流行ったジャズ・マヌーシュで今でも人気があるギタリスト、ジャンゴ・レナルト(Reinhart)や、ピアニストのジョルジュ・シフラがそのジプシーです。
ジプシーの芸は広くヨーロッパの人々に愛されているのです。
彼等の音楽をお送り致します。
ジャズ・マヌーシュ、https://www.youtube.com/watch?v=KJqN0n5ontg
シフラ、https://www.youtube.com/watch?v=uOxe73q3f5w  

上記のジプシー民族はロマとも呼ばれます。日本ではジプシーと呼ばれています。
移動型民族としてのジプシーは、北インドのロマニ系民族が発祥であり、14世紀にヨーロッパに現れたと言いまさす。とても複雑で分かり難い民族です。
ジプシー民族はインド北方から中近東を通り、ヨーロッパ、そして19世紀から20世紀にかけてはアメリカ大陸まで広がったのです。
初めのうちは珍しがられましたが、そのうちに、特に東欧諸国のルーマニアやブルガリアなどでは奴隷のように使われたとも言われます。
第二次世界大戦中にはナチスや、ナチスに協力したフランスのヴィシー政府などによって強制収容所に入れられ、殺された人たちも多いのです。
ロマという全体の名称が1971年の世界ロマ会議で決まる以前のヨーロッパ各国での呼び方はいろいろでした。
ジプシーは移動型民族ですが、現在は定住して定職を持ち、企業主になっている人たちの数の方が多く移動する人たちは少なくなったのです。
フランスでは今でもキャンピングカーなどで移動し、移動遊園地などのアトラクションを経営する人もいます。
ジプシーはスリもします。手口に可愛げがあったのです。
私の知人がパリでジプシーの可愛らしいティーンエイジャーに囲まれて、そのうち一人の子がパッと自分のスカートをめくりあげたのだそうだそれに気を取られているうちに財布を掏られてしまったのです。
盗難事件が多発するようになったのはEU内を自由に行き来できるようになってからです。
特に日本からの旅行者にはジプシーとフランス人の区別はつきません。

そこでフランス政府はロマのキャンプを閉鎖し、何回もロマをルーマニアやブルガリアに送り返す政策をとってきました。それでもフランス人はジプシーをあまり差別していません。

今日はインド発祥のジプシー民族のことを書いてご紹介致しました。それしてもジプシー民族にはロマンがあり不思議な民族です。

今日の挿し絵の写真はロマ(ジプシー)の人々の写真です。写真は「ロマ・ジプシーの画像」を検索して出て来た多くの写真から最も実態に近いものを選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






===参考資料=========================
ドイツによる絶滅政策;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E
ドイツにおいては、ナチス党が自由選挙で国民の支持を受けて政権を獲得した後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。当時のドイツ政府は、ロマがアーリア系であることは知っていた。「アーリア主義」を掲げるナチス党政権がロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」と考えたためである。
第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ドイツは再び多数のロマを抱えこむことになった。当時のドイツ政府が「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスと呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ドイツ政府による被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。