どういう訳か小金井駅の南口に河津桜が3本あります。花が満開になったので写真を撮りに行きました。
今日は朝から静かな美術作品を思い出しています。茨城県の板谷波山記念館 と笠間日動画廊美術館も思い出しました。
茨城県には幾つかの良い美術館があるのです。水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。
笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。そして水戸の県立美術館での中村彜の特別展は印象深いものでした。そんなことを想っています。
そこで今日は板谷波山記念館の陶芸作品と笠間日動画廊美術館の展示の絵画をご紹介したいと思います。まず心静まる板谷波山の白磁の壺から始めます。
1番目の写真は板谷波山の白磁壺です。
2番目の写真は青磁袴腰香炉です。
3番目の写真は彩磁花弁紋香炉です
4番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。
5番目の写真は笠間日動画廊美術館の「泉のそばの少女 」 オーギュスト・ルノワール (1841-1919)です。
6番目の写真は笠間日動画廊美術館の「ヴェトゥイユ、水びたしの草原 」クロード・モネ (1840-1926)です。
7番目の写真は笠間日動画廊美術館の「パリ裏街 」 佐伯 祐三 (1898-1928)です。
これらの数少ない写真だけでは板谷波山記念館や笠間日動画廊美術館から受ける感動はお伝え出来ません。ここでは展示作品の片鱗をご紹介したに過ぎません。
板谷波山は明治5年(1872)に茨城県に生まれ昭和38年(1963)に亡くなりました。
明治27年東京美術学校彫刻科卒業後、明治36年に田端に居を構え、「波山」と号し、陶芸家としての道を歩み始めました。貧窮の生活の中で窯を築き、明治39年初窯に成功し、翌年には東京勧業博覧会で三等賞を受賞。以後様々な展覧会・博覧会で入選・受賞を重ね、陶芸界での地位を不動のものとしていったのです。
板谷波山の作品は静謐な美です。眺めていると心が安らかになります。そしてその上品な美の世界へ吸い込まれていくのです。宗教とはまったく別な崇高なものを感じさせます。嗚呼、そういうのが陶芸芸術なのだと納得するのです。茨城県の筑波山の北の山麓にある筑西市に生まれ育ったので筑波山の筑を消して波山と号したそうです。
波山の精神性に溢れた陶磁器が沢山あるのが板谷波山記念館です。そして笠間日動画廊美術館の近所にある茨城県立陶芸美術館にも波山の作品が沢山展示してあります。
一方、日動画廊の展示絵画は豊富です。どれも身近に置きたくなるような楽しい油絵が並んでいます。その上、有名な絵描きさん達と親交が深かったので、美しいパレットが蒐集展示してあるのです。アトリエの中の画家の息吹が感じられるのです。
日動画廊は銀座や名古屋など各地にあります。お店は出入り自由の美術館のようです。その上、その店で時々、個展を開いているのです。
単なる画商ではなく絵画芸術の普及に努力し、画家達を応援しているのです。その精神は尊敬に値しますので以下に創業者の長谷川仁さんをご紹介します。
彼は1928年に友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し横浜貿易会館で洋画大展覧を開催したのです。
1931年1には、日本動産火災保険の当時の社長の粟津清亮の好意で京橋区銀座5丁目に「東京画廊」を開きます。それをすぐ「日動画廊」と改称して、洋画だけの画商として現在に至っています。長谷川仁氏は1897年に生まれ 1976に亡くなりました。そして1965年には、出身地の茨城県笠間市に笠間日動美術館を作ったのです。
今日は板谷波山記念館 と笠間日動画廊美術館をご紹介いたしました。皆さまも機会があったら是非訪れてみて下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
川合玉堂は明治6年に愛知県に生まれ昭和32年に84歳で没しました。
玉堂美術館は奥多摩のJR御岳駅の向かいの多摩川の畔にあります。私は何度もこの美術館を訪れ川合玉堂の数々の大作に感動してきました。
玉堂はJR御岳駅のそばに昭和19年から32年まで住んでいました。奥多摩の自然を愛し、数々の傑作を世に送り出したのです。それで奥多摩の人々は郷土の誇りのように思っています。今日は巨匠、川合玉堂の日本画をご紹介いたします。
1番目の写真は紅梅白梅図の一部です。大きな六曲一双のニ面です。琳派風の絢爛たる力作です。絵画の出典は川合玉堂美術館のHP(http://www.gyokudo.jp/ )からです。
川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。
初め京都、円山四条派に学び、のち橋本雅邦に師事します。雅邦に学びながら次第に独自の境地を切り開いて行きましいた。
2番目の写真は「行く春」という絵画です。玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。 出典は、川合玉堂名画集(http://www.u-canshop.jp/gyokudo/ )です。これも六曲一双で細長いので残念ながら左6面だけを示しています。
「行く春」を何年も前に東京の国立美術館で見たときの感動を忘れられません。
ここに示した写真は小さすぎますので少々説明いたします。左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。
3番目の写真は「彩雨」という傑作で、「行く春」と並んで玉堂の二大傑作と言われている感動的な日本画です。
絵は原画を見るに限ります。この写真の画質が粗いので少し説明いたします。この絵の下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。
勿論、傘の2人を見なくても雨の日だと分かります。何か懐かしい風景がのびやかに描いてあります。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。
4番目の写真は「山雨一過」で、 山種美術館に収蔵されています。出典は、 http://www.yamatane-museum.jp/exh/2017/kawaigyokudo.html です。
5番目の写真は「渓山秋趣」です。 山種美術館に収蔵されています。出典は4番目の写真と同じです。
6番目の写真「鵜飼」です。 玉堂美術館で展示してありました。(http://www.gyokudo.jp/01now/index.html )
玉堂は郷里の鵜飼の絵を500枚ほど描いていますが、これはその中の一枚です。この絵はアメリカの雑誌ホリデー社主催の世界美術展に日本代表として展示されました。世界美術展の後アメリカ各地で巡回展示され大好評だったそうです。
天才的な画家でも画風を変えようと苦悶する時期が一生の間に何度かあるものです。しかし玉堂にはその苦しみがなかったように見えるのです。自由に楽しみながら描いて一生を終えたのです。毎日、奥多摩を散歩してはスケッチし、画室に戻り絵筆をとり、楽しみながら描きました。その様子は美術館のロビーにある紹介ビデオで見ることができます。
是非一度、川合玉堂美術館へお出で下さい。新宿駅から御岳駅までJRで1時間30分です。
7番目の写真は川合玉堂美術館です。
美術館はJR御岳駅前の多摩川の上の大きな橋を渡って、左へ曲がり、美術館への遊歩道を谷へ下りるとあります。御岳駅から徒歩5分です。車の方のためには広い有料駐車場もあります。美術館の隣には風情のある和風レストランもあります。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
心が静かになる川瀬巴水の版画の写真をお送りいたします。静謐な世界です。詩的で美しい版画です。
川瀬巴水は大正・昭和期の浮世絵師、版画家です。江戸時代の葛飾北斎や歌川広重のように力強くありませんが胸を打つ静かな美しさがあるのです。
1番目の写真は明治期の東京湾の風景です。まだ帆船が運搬船として使われいました。
2番目の写真は芝の増上寺の前の雪の風景です。和服姿の女性が傘を斜めにして歩いている様子に詩情が感じられます。
3番目の写真は雪晴れの富士山の静かな風景です。忍野八海付近から見た風景でしょうか。
4番目の写真は雪晴れの農村風景です。除雪した道を一人の人間が歩いています。それだけの絵ですが郷愁を感じます。
5番目の写真は深川付近の木場の夕暮れ風景です。水に浸けた材木が波の無い水面に横たわっています。
一般に油彩画は見ていると疲れます。観賞するためにエネルギーが要るのです。
それに比較すると日本画は何の抵抗もなく心に自然に溶け込みます。心が寛ぐのです。そこで続けて吉田博の日本画をご紹介致します。
吉田 博は1876年(明治9年)生まれ、 1950年(昭和25年)に亡くなりました。画家で版画家でもありました。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した人です。
6番目の写真は吉田博 「瀬戸内海集」の「帆船、夕」です。
7番目の写真は吉田博の「 瀬戸内海集 」の「光る海 」です。大正15年(1926)の作です。
8番目の写真は「瀬戸内海集」の「倉」です。1930年作です。
9番目の写真は「富士拾景 船津」です。 1928年(昭和3年)作です。
吉田博は旧久留米藩士の上田束秀之の次男として久留米市に生まれました。1888年、福岡県立修猷館に入学します。1891年、修猷館の教師の洋画家、吉田嘉三郎に画才を見込まれ吉田家の養子となります。
1893年、修猷館を卒業し、京都で洋画家田村宗立に師事します。上京して小山正太郎が主催する不同舎に入門し、後に明治美術会の会員となりました。
1899年、中川八郎と共に渡米、ボストン美術館で2人展を開催し成功します。その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴しパリ万博において、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けました。
今日は川瀬巴水の版画と吉田博の日本画の静謐な美しい世界をご紹介致しました。何の抵抗もなく心に自然に溶け込み心が寛ぐ版画と日本画です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)