幸運にも老境まで健康に生きてきました。長い人生には嬉しいこと、悲しいこと、苦しいことなどいろいろありました。しかし我が人生で一番感動したことは若い頃のアメリカ留学でした。
今日は私のアメリカ留学のことを書きたいと思います。
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。初めての外国体験でした。
その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。今でも感謝しています。
例えば博士過程で実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属した機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
1番目の写真はオハイオ州立大学のロードホールという建物ですが、その一階の右の部屋にその実験装置を作りました。2階には講義室がありました。インターンットからお借りした写真です。
そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。そしてフォンタナ教授の秘書のヘレンさんもいつも親切にしてくれました。
同級生もノートを見せてくれたり、英語のできない私を助けてくれました。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。 妻を日本から呼び寄せ、オハイオで結婚式を挙げたのです。 それは1961年のことでした。
セント・ピエール教授夫妻が結婚式や披露宴の会場などを手配してくれたのです。その上地元の新聞に私共の結婚の記事や写真が大きく掲載されるように手配してくれたのです。地元の新聞はコロンバス・ヂスパッチといいました。
アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。
例えばオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ家内と生後6か月の娘と行ったとき車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。途方に暮れていると、一台の車が止まってくれました。
2番目の写真はその時乗っていた車と妻です。自分で撮った写真です。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?
老境にいたった今、それらを静かに思い返しています。
懐かしのでオハイオ州の写真もっと出します。
3番目の写真は夏のオハイオ州の平原です。インターンットからお借りした写真です。
4番目の写真はよく走った道路の風景です。インターンットからお借りした写真です。
5番目の写真は大学の正門前のオハイオ州立大学の看板の写真です。
大学は中心街からノース・ハイ・ストリートを北に行った所にありました。
6番目の写真はオハイオ州立大学の全体の航空写真です。インターンットからお借りした写真です。
中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。
7番目の写真は大学の近くのノース・ハイ・ストリートに面した店です。よくアメリカ人の同級生とコーヒーを飲みに行ったものです。インターンットからお借りした写真です。
私が妻と娘と一緒に帰国したのは1962年の秋でした。帰路にパリやロンドンを回りました。
茫々、あれから60余年です。親切に接してくれた全ての人に感謝しています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)