後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「茫々60年、あのアメリカ留学は一朝邯鄲の夢」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

1961年に私どもはオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たち、みんな消えてしまいました。

茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。しかし間もなくあの世で会えるのです。

われわれ人間の本当の家は天国なのです。わたしも其処へ帰る日がまもなくやって来ます。お世話になったアメリカ人たちへ感謝するために60年前の写真を掲載します。0044
1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。008_21
2番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。0076
3番目の写真はマックリーン牧師とフォンタナ教授です。
左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。右端は一生お付き合いをした故ジョージ・オートンさんです。以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。

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1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。

セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。

激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友ののような感じでした。

その中でジム・バテル夫妻ととジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジムはまだ健在で、アラスカ州に釣りを楽しみながら悠々自適です。ジョージは数年前に亡くなりましいた。

恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。同級生とも一別以来会っていません。皆ちりじりになってしまいました。

ジェリー・ワースだけがアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。

人生は夢のようにはかないものです。最近、高齢のせいかよくそんな感じがします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「戦後の焼野原と現在の全国にある花園の風景」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
これは戦後の焼野原をこの目で見た私の感慨です。現在の全国の花園の風景を見て隔世の感です。日本がこんなにも変わったことに驚いています。この驚きは若い人には理解出来ないかも知れませんが書いて置きたいと思います。
写真に従って説明いたします。
1番目の写真はB29の編隊が焼夷弾で東京を焼きつくしている光景です。
当時住んでいた仙台でも同じような光景を私は見ました。
1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。当時9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。
2番目の写真は空襲があった翌日の東京の風景です。
仙台の空襲の翌日、私は鹿落坂をくだって中心街の焼け跡を見に行きました。この写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。
1番目の写真と2番目の写真の光景は全国にあったのです。全国の200以上の市町村がB29で焼け野原になったのです。
3番目の写真は兵庫県の「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
写真の出典は、https://www.hyogo-tourism.jp/review/101 です。
焼け野原になった日本には現在この写真のような広い花園が沢山あるのです。
終戦の頃は花園はありませんでした。皆無でした。現在花園になっている畑にはジャガイモやサツマイモやカボチャが植えられてきたのです。食糧難でお米のご飯が無くてジャガイモやサツマイモやカボチャで命をつないでいたのです。
4番目の写真も「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
場所は、舞鶴若狭道「福知山」ICまたは播但自動車道「和田山」ICのどちらからも40kmほど。たんとう花公園は、4月のチューリップと8月ひまわりの見ごろの時期だけオープンする公園です。
5番目の写真も「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
のどなか里山の一角に咲き競う300品種・100万本のチューリップ。赤、黄、ピンク、紫と濃淡を交えた鮮やかな色であたり一面を染め上げる様は、春の日差しの下で波打つ花の海を思わせ、まさに圧巻の光景です。
終戦の頃、こんな綺麗な花園が日本に出来るとは想像も出来ませんでした。
全く隔世の感です。日本が復興してこんなんにも豊かな国にになったのです。
人々の心も豊かになったのです。幸福感につつまれます。

それにつけてもウクライナの苦難に心が乱れます。ロシアの暴虐に衝撃を受けています。ウクライナの歴史に無い最大の悲劇です。ウクライナは何もしなかったのにロシアが突然一方的に武力侵攻したのです。
ウクライナのために祈らざる得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)