後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ブログを書いているとこんな楽しいことが起きる」

2009年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを書いていると長い間、コメントやメールの交換をするようになって、親しい友人の様になる人も居ます。それとは別に、思いがけない方から一回だけ素晴らしいコメントを頂くこともあります。どちらも忘れられない大きな喜びです。

そこで実例を少しだけご紹介したいと思います。他に沢山素晴らしいコメントを頂きましたが、あまり深く考えずにたまたま見附けたものだけを少しご紹介いたします。

それぞれのブログも素晴らしいブログです。それぞれのURLをご案内しましたのでクリックしてお楽しみ下さい。

山梨の甲斐駒山麓の山荘に住んでいる鬼家雅夫さんからクリンソウを貰ってきました。自宅の庭で咲いたので写真を出しました。そのあとで貰ったコメントです。

藤山さん:おはようございます。綺麗に咲いていますね。夏場地上部が枯れても根は生きていますので水遣りに気をつけてください。

日当りの良いところより半日影に置いてくださいね。種を採り庭に蒔いとけば自然に増えると思います。鬼家雅雄:http://sizen068.blog95.fc2.com/ 

水戸にお住まいで感性豊かな写真を次々に掲載している玲さんからのコメントです。

藤山さん、こんばんは‥とても解りやすくうんうんと頷きながら拝読いたしました。

同年ですから~疎開生活も、思い出して辛いことが多かったですね。

今でもどこか精神は浸み込んでいるかもです。食のほうはあまり頂けなくなりました。

いつでも何でも不自由なく頂けるのに、残念と思えないでもない(笑)

脳と身体がその様にしているのでしょうね。有難うございました。玲:http://blog.goo.ne.jp/koiredawa

ちひろさんは琵琶湖のほとりにお住まいで日本舞踊を本格的にしていらっしゃいます。写真の構図が感動的で、その映す瞬間の緊張が伝わってきます。先日、私のブログへ吉野山に桜が咲いている風景写真を数枚掲載しました。その時に頂いたコメントです。

藤山杜人さま、良いお天気が続いておりますね。

吉野山の桜見事ですね!霊験新たかな雰囲気と、墨絵のような情景に感動いたしております。自然の美を楽しませていただきました~

今の時期のご旅行、さぞ快適な事と存じます。

 有難うございました。ちひろ 拝:http://blog.goo.ne.jp/hanamusasi

Hootaさんは東京ベイヨットクラブのヨットの先生です。この連休に伊豆大島へ

Bambino号で会員のお客さんとともにセイリングしました。新島に着いたあと海が荒れ4日間島から帰れなくなりました。

お客は皆、大型客船で東京へ帰ってしまいました。Hootaさんともう一人が残り、荒れる港でヨットを守りました。しかし4日後には、最後に10人の会員が応援に島まで行きました。4日遅れで、11日の夜遅く帰宅した後でくれたコメントです。

藤山さん、応援・激励ありがとうございました。私はただやるべきことをしたに過ぎませんが(それも結構楽しんで!)。10日の朝に10人の回航メンバーがそろう一日前の便で、残った私の応援にと東海汽船で東京から神津まで来て新島に着岸できず再び東京の竹芝に帰る羽目になったメンバーが1名いたことをご報告します。(結局11人がHootaさんを助けに行った訳です)

楽しくも頼りになるメンバーがいることを誇りに思うと共に、このようなメンバーとヨットに乗れることに幸せを感じております。

と言う訳で、本日、前後の回航を含めた14日間のGWクルージングを終え無事帰宅いたしました。今度はぜひ奥様とご一緒に「Bambino」に遊びにいらして下さい。

Hoota:http://hoota.blog.so-net.ne.jp/

一回だけコメントを頂きましたが大変勇気づけられた例を2つご紹介します。

アメリカにあるキリスト教の一派のアーミッシュの人々の村の訪問記へ対するコメントです。

藤山さん、毎回藤山様のブログを楽しみにしていますが、なかなか毎日見れないので時間がある時にまとめてみています。

私もアメリカにいたころアーミッシュに出会ったことがあります。

その時は、なんて不思議な人達なんだろう、映画かなんかのロケ?それ以来ずっと不思議に思っていました。アーミッシュと判明するまで時間がかかりました。この間アメリカの田舎でアーミッシュの家具屋さんの看板を目にしました。ドイツ人の友達はアーミッシュの住む所を訪ねたことがあると言っていました。彼らの作るジャムはとても美味しいとか。私たちが忘れてしまった沢山のことがそこにはあるようです。

しかし子供たちが成長して一度文明社会の存在を知ると二度とそこへは戻ってこないという話も聞きました。もう仕事をしなくていい年になったらアーミッシュ風な生活をするのもいいかも・・・。藤山様、いつも有難うございます。次回も楽しみにしています。めい(ブログのURLは頂いていません)

最後に昨日、逗子にお住まいのメイさんという方から頂いたコメントです。

(藤山さんへ)初めて、コメントを投稿します。すごく、勇気がいりました。

私の夫が藤山さんのブログの記事を見つけて、とても素敵な事を書く人だからと教えてくれました。私の夫もヨットマンです。私の亡くなった義父もヨットマンでした。

実は私も最近ブログを書き始めました。

まだ半年足らずですが、どういう訳か、アクセスランキングが上がってきていて私自身も驚いています。藤山さんのアクセス数アップのためのいくつかの法則にも当てはまっていない気がします。が、どうでしょうか?

(夫のヨット仲間もたくさん見ていてくれていることもあると思います)が、まだ初めてばかりなのにと、感謝の気持ちでいっぱいですが、不思議だなあ、と思っているところです。今日も348人の方が閲覧して下さっています。

どうぞ、私のブログを先ずはご覧になってください。

goo  Googeで「父とヨット」で検索してみてください。そして是非、感想をお聞かせ願えれば、嬉しいです。どうぞ、宜しくお願い致します。メイ:尚、メイさんのブログは2つ御座います。現在のは、http://blog.goo.ne.jp/naominoyume_1955/で、この写真を引用した古いほうのURLは以下の通りです:http://c11z5vlw.securesites.net/prime/naominoyume/

このブログはとても楽しいブログなので下に、写真を2枚転載させて頂きました。

左はヨットの係留してある下田港の風景です。右はハリスの小道の写真で、メイさんの実家はこの道の向こうにあるそうです。

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金持ちになるとこんな素晴らしいことが出来ます

2009年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

金持ちになると、高級な外車を乗り回し、豪華な家に住み、毎日美味しいレストランで食事ができる。しかしそんなことが素晴らしいという話ではありません。お金持ちになれば貧しい人々を助けたり、芸術家を支援したりすることが出来ます。今日は芸術家を支援する金持ちの話を少し書いて見たいと思います。

@画家や彫刻家を支援する日本人の素晴らしさ

芸術家を支援するパトロンシップはヨーロッパの輝かしい伝統です。パトロン達の支援が無ければ数多くの作品は生まれなかったことでしょう。

我が国には西欧流のパトロンシップの伝統が明確には存在しないので、その重要性を見落としがちです。しかし、日本にも少しは素晴らしいお金持ちが居ました。水戸出身の中村彝画伯を支援した新宿中村屋初代当主相馬氏はその例です。傑作「エロシェンコ像」が生まれたのは中村屋のおかげです。水戸市の千波湖のほとり、茨城県立美術館の一隅に中村彝画伯のアトリエが移設展示されています。結核で夭折した画家とパトロン中村屋との関係が生き生きと見えるようです。中村屋と中村画伯は同姓ながら血縁関係はありません。

また、日本の近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)を支えたのも相馬夫妻でした。彼の作品は、299100余人の寄付によって建てられた安曇野の 碌山美術館に見ることができます。北アルプスの連山の麓に美しい碌山美術館が静かに建っています。訪問された方も多いことと思います。

 @良心的な画商が貧乏な画家を支えます

日本では画家を個人的に支援する人が少ないといいます。その代わり画商が重要な役割を担って来ました。

例えば茨城県の笠間市にある笠間日動画廊美術館の五階には画家三百三十人のパレット展示があります。パレットには安井曽太郎、梅原龍三郎、熊谷守一、中村研一、岡本太郎、藤田嗣治らそうそうたる画伯が網羅されています。しかし、圧巻は無名の画家のパレットが多数展示してあることです。東京、銀座にある日動画廊の初代当主・長谷川仁氏夫妻が若い画家を勇気づけ、支援しようとして無名の若い画家から買ったパレットのようです。画家を支援し、育てようとする長谷川仁氏夫妻の情熱が見えるようです。

パレットの収集展示は他にもあります。東京の吉井画廊の初代当主・吉井長三氏が建てた清春白樺美術館(山梨県)のレストランの壁にもあります。無名画家のパレットが、白樺派の文人・画家の手紙や出版本、絵画とともに展示してあるのです。広大な敷地には若い画家へ格安で貸しているアトリエの集合体建築物コアもあります。いつ訪問しても南アルプス連山を前に、何人もの美術を志す若者達が制作に励んでいる様子が、窓を通して見えます。

  実際に会った  画家とパトロンの思い出

1961年、河野秋邨氏の個展がアメリカ全土で開催されました。すべて畳二畳ぐらいの大作で、色彩豊かな南画が数十枚も展示されているのです。

オハイオ州のコロンバス市での展覧会の間、妻が河野秋邨氏へ毎日、日本食を供しました。その折に個展開催のパトロンであるイエーガー氏にも会えました。イエーガー氏の言葉を一生忘れることが出来ません。「京都で河野氏の南画を見て、アメリカ人にもぜひ見てもらいたいと思ったのです。コロンバスだけでなく、全米の町へも巡回展示します。その費用は私が個人的に出します。好きな画家を経済的に支援するのは楽しく、誇らしいものです」。

このような個人達が欧米のパトロンシップの輝かしい伝統を育てて来たのでしょう。

お金持ちになって贅沢な生活をする。それが素晴らしいとは思いません。他の困っている人々をそれとなく支援する人々が居るのです。その事が素晴らしいと思います。皆様はどのようにお思いでしょうか?(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。   藤山杜人

最後に清春白樺美術館の写真を4枚お送りいたします。2007年の12月に撮影しました。

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岡敬三著、「港を回れば日本が見える」 で何が見えましたか?

2009年05月11日 | 本と雑誌

ネット上の知人がこの本を紹介してくれました。さっそくインターネットで購入して読みました。著者の岡敬三さんが2003年から2007年にかけて34Feet(全長10、3メートル)、船重5トン弱のヨットで日本の全国の漁港に泊まりながら書いた旅日記です。彼方此方のさびれた漁港に何日も泊まり、荒れる海が静まるのを待っているのです。一人で暗く、狭いヨットの船室で、じっと時を過ごすのです。漁村の人々と話し込み、生活の状態を素直に描いています。沼津の重須を出発し、安乗、尾鷲、那智勝浦、田辺、阿尾、日生、庵治、琴浦と堪念に漁港を回ります。沖縄から北海道まで無数の漁港を回ります。

「港を回れば日本が見える」という題目の本ですが、著者にはどのように見えたか?、は一切書いてありません。読者にとって、どのように日本が見えましたか? ご自分でお考え下さい! そういう構成になっています。

一番先に書くべきことは、この本には真実だけが書いてあるという事実です。ドラマチックな脚色も意図的な省略もありません。漁港で会った数十人の人々と深い心の交流をしています。信頼関係にあるので真実だけを話してくれます。著者は人間が好きなのです。会ったすべての人が好きなのです。そのお陰で漁港の人々は心を許して本当の気持ちや生活の実態をーもっとはっきり言えば、「困窮した生活の様子」を淡々としゃべるのです。ですから現在の全国の漁港の人々の考え方や生活の記録として信用できる第一級の資料になっています。あるいは2003年から2007年にかけての「日本の漁村」の歴史的なドキュメントになっています。このような調査報告書は決して役人には書けません。いろいろな経済的な統計には絶対にあらわれない人々の生の考え方が根気よく拾い集めてあります。

前置きが長くなってしまいました。さて私は、この本から日本がどのように見えたでしょうか?

2つのことが理解できました。日本では、弱肉強食の残酷な自由経済が許されていて、漁村の人々がそれによって蹂躙されている風景がはっきり見えました。人々は、漁師が努力して取ってきた地魚よりも、冷凍で大量に輸入した安価な魚をスーパーで買います。輸入魚類は、冷凍技術の進歩で味も良く、日本の魚よりけた違いに安いのです。大型商社が利潤を独占します。漁師は困窮する一方です。

これに追い打ちをかけるのが消費者のブランド魚趣向です。地中海の本マグロ、インドマグロ、はては大間マグロなどはテレビでさんざん取り上げられます。煽動された人々はブランド魚だけを高価でも買います。ブランド魚は外国産に限りません。関サバ、城下カレイ、松葉カニ、馬糞ウニ、稲取のキンメダイ、鞆の浦の鯛などなどキリがありません。この消費者の軽薄なブランド趣味が真面目な漁村文化を破壊してしまったのです。東京湾のアナゴやアジ、カレイ、イカ、サバなどは活きが良い限りめっぽう美味なのです。たまにそういう魚を売っている店を見かけます。しかしそのような商売はすぐ消えてしまいます。

日本人はいつから軽薄なブランド趣味に落ちいったのでしょうか?若い女性がブランドもののハンドバックや洋服に目の色を変えるのは許せます。しかし消費生活のすべてにそれが広がったら文化破壊が起きるということが何故理解できないのでしょうか?

岡敬三著、「港を回れば日本が見える」 という本は日本文化の危機的状況を鮮明に見せてくれます。著者は決して批判的な論陣をはっていません。その事が読後感を一層、重厚にさせていると思いました。とにかくいろいろ考えさせる本です。

皆様に是非お読み頂きたい本です。(終わり)

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左の写真は、香川県の多度津港、平安時代は善通寺への門港として四国へ渡る拠点に、
また、その後は四国金比羅さんへ参詣する船の港として栄えました。
右の写真は、知床半島の突端、知床岬の袂にある小さな避難所、文吉湾です。写真は岡敬三さんのHP;http://www.geocities.jp/tiarashore/ から引用させて頂きました。


若い時の貧乏は買ってでもする方が良い、と言いますが

2009年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

貧乏は嫌だ。贅沢は素敵だ。ごく自然な人情です。しかし、「若い時の貧乏は買ってでもするが良い」と言います。これは半分嘘で、半分本当なような気もします。60才以上の多くの日本人なら若い時に貧しい生活をした筈です。1970年代の高度成長までは日本全体が貧乏だったからです。今、振り返って考えてみると、「貧乏は経験しないほうが良い!」という確信に至ります。第一、幼年から青春期まで、食物が悪いと体格が悪くなります。その後の人生の健康に問題を残します。そして貧乏をすると精神までねじけてしまう場合もあります。

私は昭和11年生まれなので終戦前後の飢餓生活を数年体験しています。大学を卒業して公務員になりましたが1974年の38歳まで月給で生活が出来ませんでした。すごい貧乏でしたが、結婚して2人の子供を育てました。どのようにして金銭のつじつまを合わせたか?忘れてしまいました。愚痴は言わず、ニコニコ笑いながら家内がやりくりしたのでしょう。

貧乏をすると「他人の気持ちが分かる」と言いますが、それも半分嘘です。貧乏しなくても優しい人は他人の心の痛みが分かるのです。貧乏しても分からない人が多いのです。

飢餓体験や貧乏生活のお陰で、一つだけ良いことがあります。それはすべての食物を美味に感じ、おのずと感謝の気持ちが湧いてくることでです。

以下の写真は最近、小金井駅の南口に出来たレストランの数々です。日本中どこにでも有るような店です。しかし飢餓体験をした小生にとっては感動的な店店です。決して金持ちではありませんが、どの店へ入っても心配なく自由に食事が出来ます。その上、清潔で、サービスも良いのです。この一帯に来るたびに昔の飢餓生活を思い出して、心に幸福感が満ちてきます。幸せを実感できるのです。これだけは飢餓体験の唯一の良い効果と思います。

皆様は、こんな気持ちをご理解出来るでしょうか?

そんな事は別にして、皆様のご健康と平和を今日もお祈りいたします。

                   藤山杜人

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ブログ仲間から頂いたクリンソウが咲きました。

2009年05月10日 | インポート

ブログが取り持つ縁で友人になった鬼家雅夫さんの山荘から5月5日に貰って来たクリンソウが小金井の自宅の庭で見事に咲きました。ブログを通して友人を数人作るようにコメントやメールを送りバーチャルなネットの世界を現実の世界にして見ましょう!

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ブログのお陰で出来た親友の立派な行動

2009年05月10日 | うんちく・小ネタ

ブログはバーチャルな世界だから親友なんてできない。そう思っていました。しかし色々なブログを読み、感動し、そして幾人かの人へコメントやメールを送りました。自然な成り行きで、そのうちの何人かの人と実際お会いし、お話を聞くことになりました。世田谷教会のオカブさん、ネパールに住み着いている「ひかるの」さん、甲斐駒山麓に別荘をお持ちの甲斐駒さん、その近所に山荘を作り住み込んでいる鬼家雅夫さん、などとは実際お会いし、お酒も一緒に飲んだ方もいます。下の写真は鬼家さんの山荘でビールを飲み、2階から見た雑木林の写真です。

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これらの友人との交流についてはこのブログで何度もご紹介いたしました。ところが最近、ブログで知り合ったHoota さんと新しく友人になりました。ある漁港に係留してあるヨットの上でビールを飲みあい親しくなりました。その後、5月2日に沼津港の沖でヨットに4時間だけ乗せて頂きました。下の写真で後ろ姿の方が、その時のHootaさんです。(http://hoota.blog.so-net.ne.jp/

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このHootaさんが如何にも男らしい立派な仕事をしたので、ご紹介したいのです。ちょっと良い話です。

私は沼津から新幹線で帰京しましが、その後、このヨットは東京ベイヨットクラブの会員を乗せ、西伊豆の妻良港に行きました。それから伊豆七島の新島へ航海しました。5月4日のことです。ところが次の5日から海が荒れ、帰って来られなくなります。予定では連休最後の6日に帰って来るスケジュールです。

さらに具合の悪いことに、Hootaさんが働いている東京ベイヨットクラブの他の2隻のヨットも新島に集合し、停泊していています。

海が荒れると3,4日は帰れません。7日になれば現役の人は会社に出なければなりません。その人々は潮が引くように一斉に大型客船や航空機に乗って帰京してしまったのです。3隻の船に残ったのはHoota船長ともう一人だけです。荒れる港で3隻の船が傷つかないように、ロープを張り直しながら4日の間頑張ったのです。

どうなるのか?と、心配していたら、クラブの10人もの会員が8日の金曜日の夜遅く、東海汽船の大型客船に乗り、9日の土曜日の朝に新島港に集合したのです。残ったHoota船長と、もう一人を合わせて3隻のヨットに12人集まったのです。一隻当たり4人の乗り組み員がそろったのです。9日の土曜日は快晴。3艇全て、めでたく大島、岡田港まで帰着しました。今日は10日の日曜日。天気は良く、夏のように気温が上がっています。3艇とも順調に帰ってくると信じています。

Hoota船長が困っているのを座視していないで、10人もの友人が助けに新島まで急行したのです。その友情の厚さにも感動しました。翻って、老骨に鞭打って駆けつけようと思いつつも行動に移さなかった自分が情けなく思います。

ブログの上で友人になったHootaさんとは、そのような海の男なのです。忍耐強くて、優しくて、天候の変化に従順なのです。今夜までに無事帰ってくることをお祈りしています。(終わり)


「気楽に洗礼を受ける!失うものは何もない」

2009年05月10日 | インポート

今日は日曜日、カトリック小金井教会へ行って山本量太郎神父様の説教を聞く日。そこで自分が洗礼を受けた1972年のころを思い出して洗礼のことを簡単に書いてみます。

@洗礼を受けると仏教のお葬式へ出られなくなる?

世間ではこういう人がいます。とんでもない間違いです。神社だろうがお寺だろうが自由に、もっと気楽に、もっと親しみを感じながら出入り出来るようになります。洗礼を受けると仏教の素晴らしさが理解できます。波濤万里を越えて来たザビエルの偉さが分かると、唐からインドへ旅した三蔵法師の偉さが理解できます。弘法大師の慈愛が分かります。

お葬式でお坊さんのしていることの意味が理解出来るようになります。洗礼を受けるとこのように心が豊かになります。

@洗礼を受けると戒律が多くて生活が不自由になりませんか?

戒律を強要されたことは一回もありません。洗礼を受けた後も、タバコも酒も自由に飲めます。以前の生活と何も変わりませんでした。ついでに言えば私の悪い性格も直りません。

では何が変わったか?そうです、神の愛やイエス様の愛というものを、時々、実感できるようになっただけです。時々です。四六時中ではありません。それで良いのです。一瞬でもイエス様の愛を感じることが出来ると、世界の見え方が変わります。広い世界が広がります。なにか他人へ寛大な気持ちになれます。四六時中ではありませんが、そのように他人が見えるということが自分を幸にします。それだけの話です。

@洗礼を受けるには資格が必要ですか?

1972年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けました。

洗礼を受ける前に聞きました、「神父さん、洗礼を気楽に受けようと思います。何か試験があって、資格を取らねばならないのですか?」と。

この質問を聞いた塚本神父様の困惑した顔を忘れられません。鳩が豆鉄砲を受けたような表情です。優しい目で私の顔を見ながら沈黙がしばし続きました。そして、「試験も資格も必要ありません。しかし今までの生活を痛悔する必要があります」と答えてくれました。

それまで失敗を何回もし、其の度に後悔や痛悔をしていました。そんなことなら簡単だ、と思って洗礼を受けることにしました。その後、数回は教理の講義を受けましたが、すぐに洗礼を受けました。 

代父なって頂いた山本大二郎先生はある有名な大学の化学の教授でした。しかし、1975年、小金井にも教会が出来て立川へは行かなくなり、お会いすることも途絶えました。

ある時、カトリック小金井教会へ新しい主任司祭様が赴任しました。驚いた事に、私のゴッドファーザーの山本大二郎先生のご子息の山本量太郎神父さんである。毎日曜、神父様の説教を聞きながら代父のことを追想しています。

洗礼を受けるとはそれだけのことであり、世間が狭くなったり、戒律で束縛されたりすることは一切ありませんでした。ですから私は他人へ洗礼を勧められるのです。気楽に洗礼をお受けください。貴方が失うものは何もありません。

今日は晴天の日曜日。皆様が健康で楽しい一日を過ごすことが出来ますようにお祈りいたします。                                                                                        藤山杜人


ブログのアクセス数アップの秘訣は?

2009年05月09日 | うんちく・小ネタ

ブログを書いていると出来るだけ多くの人々に読んで貰いたいと思う。これが人情というものです。私は2007年11月にこのブログをはじめて約一年6ケ月になります。アクセス数を教えてくれる有料のサービスを申込毎日このブログのアクセス数を見ています。始めは50件位でしたが記事を沢山掲載し始めましたところ100件、200件と次第に伸びました。1年位まえから、毎日250件から350件でこの5月12日における過去一週間の平均で、毎日350件以上です。過去3け月の平均の毎日アクセス数は275以上という数字が続いています。

総アクセス数は10万件を超えました。アクセス数を増やすために4つほどのSNSへも入会しています。いくつものトラックバックもして検索エンジンに掛かるようにもしていす。しかしそれらはほとんど効果がありません。アクセス数は毎日平均350件くらいで止まっています。

私の得た結論は、「アクセス数増加のための秘訣は無い」ということです。秘訣が無いとなれば平静な気持で、はじめから守ってきた編集方針をより一層徹底することにしました。その編集方針を列挙します。

(1)文章を読まないで、写真だけご覧になる方々のために美しい写真をなるべく多く掲載する。

(2)写真の内容は山、湖、海、などの静かな風景写真を掲載する。趣味のヨットや山小屋の四季折々の風景写真も出す。見る人の心がなごむような内容にする。

(3)文章を読んでくれる人々の為には、取り上げる話題をなるべき広くする。色々な趣味の話だけでなく政治論、社会時評、マスコミ批判、外国事情、宗教を信じることの実態などを体験にもとずいて書く。

(4)読みやすくするために、一つの文章は短くきる。はじめの文章だけ読んで止める人のために結論的なことをはじめに書いて置く。あるいは題目だけで文章の内容が想像できるように題目のつけかたを工夫する。

(5)文章は建設的に書き、読者が明るい気分になるようにする。不愉快になるような書き方は絶対にしない。

(6)話題を広くするために他の優れたブログの写真や文章を転載する。もちろん著者の転載許可を貰う。

いかがでしょうか? 皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。

最後に、山と湖と海の風景写真と趣味のヨットの写真の4枚を掲載します。皆様のお気持ちがいやされるとことお祈り申し上げます。(終わり)

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「日本のマスコミが報道しない中国の事情」

2009年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の文化は古来より中国から深い影響を受けて来た。積極的に宗教や文学、絵画を輸入して来た時代もあった。その中国人とつきあうとき忘れてはならないことがある。

中国5000年の歴史で、西洋人に侵略され植民地になったことは悲しい大事件である。その期間は清朝末期から1949年の共産国家成立までの約100年に及ぶ。植民地になった中国人の悲しみは我々の想像を絶する。そして日本も武力で台湾や満州を植民地としたのである。

1981年に北京の大学へ集中講義に行った際、親しくなったある教授から「1959年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがある。「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私は答えた。

この教授は苦笑いして「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからである。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということです」「それは知らなかった」「毛沢東は断固拒絶した。それでソ連は中国全土から引き揚げ、ほとんど絶交状態になりました。その時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収したのです。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残ったのです」

当時、日本のマスコミはこのような具体的な事情を報道しなかったのです。

親しくなった中国人の教授の顔に静かな、そして深い怒りの表情が一瞬浮かびます。

昔、上海の英国租界の公園に「中国人と犬は入るべからず」という看板があったそうです。この看板を中国人は今でも忘れない。

明治政府は日清戦争で台湾を植民地にした。満州を侵略し、上海事変を起し、やがて日本は中国へ攻め込んだ。満州という植民地を完全に日本のものにした。

礼儀正しい中国人は決して日本人へ直接、台湾や満州のことは話題にしない。ニコニコ笑って別の話題にする。

1990年代に、靖国神社参拝が問題になったことがある。それを非難する中国に理由がある。その頃、中国全土の国家重点工業特区に、欧米や日本の企業が立派な工場をつくった。工業団地は周辺の貧しい農村とあまりにも違う。特区の恩恵にあずからない貧困農民には、工業特区がかつての外国租界や植民地と同じように見えたに違いない。

1990年代に河北省の工業団地へ何度か行ったが、日本の工場進出歓迎は尋常でない。しかし、街の映画館のポスターには日本軍閥粉砕の赤い字が大きく踊っていた。「あの映画はなんです?」「あ、あれは娯楽映画ですよ。現在の日中友好に関係ないです」と、特区の幹部は軽く答える。

あれ以来10年以上になる。中国の経済発展は想像以上に躍進し、今や世界の経済へ大きな影響をおよぼしている。最近の日本人は中国との経済交流のみに興味があるようだ。しかし我々日本人は日清戦争以来、中国人へ与えた悲しみの深さを忘れるべきではないと思う。外国との真の友好関係は、その国との歴史的関係を忘れるべきではない。

最近、中国は経済発展を背景にして軍備予算を増大しているという。こういう時こそ隣国、中国との賢明な交流が必要となる。日本の将来の為にも中国との賢明な交流が重要になってきたと思います。

皆様は中国との交流の仕方を如何お考えでしょうか?(終わり)


「霞ヶ浦近辺と南ドイツの魚料理に関する雑談」

2009年05月08日 | インポート

@霞ヶ浦近辺の魚料理

霞ヶ浦の周りにはハス田が広がり、夏には大輪の白い花が風に揺れる。ハスの葉の波に浮かぶ向こうに鰻(ウナギ)屋の看板が見える。「山中のうなぎ」という店の看板である。天然仕立てのウナギを土浦風の濃い味で香ばしく仕上げてある。川エビのてんぷら、芝エビのかま揚げ、ドジョウの柳川鍋、10月から早春の3月までは、透明な生の白魚の刺身などが供せられる。(HPは無い。電話:0298-28-0804)

クルーザーで沖宿の港へ行き、の中を歩くと、湖の魚の佃煮を売っている古い店がある。ワカサギ、小ブナ、ハゼのような小魚、小エビなどの佃煮が種類別に、少しずつ味付けを違えて、昔風のガラスケースに並べてある。分別しない小魚、小エビ類を一緒に佃煮にしたものもある。

以前は、沖宿まで行かないと霞ヶ浦の佃煮が手に入らないものと思い込んでいた。ところが、土浦駅近くの通りに何軒も佃煮専門の店があることが分かった。

思えば、昔、肉や卵が貴重で入手できず、佃煮でご飯を何杯も食べていたものであった。その時代、佃煮の詰め合わせが贈答用としてもてはやされていたことを思い出す。最近、佃煮を買うたびにセピア色の写真を見るような郷愁を覚える。佃煮を買っては食べ残し、また買うのは郷愁を買っているのだ。感傷に過ぎないのだが。

@南ドイツの魚料理

シュツットガルトに住んでいた1969から1970年、魚をよく食べた。ニシンやマスは小麦粉をまぶしてムニエルにする。うろこがほとんどないドイツのコイは溶いた小麦粉をつけて煮え立つ油でカラリと揚げる。タラの切り身はムニエルやポアレ。ノルウエー産サケの切り身は高級な塩引きになる。ニシンは香草とともに酢づけにしてガラス瓶に密閉して売っている。

ウナギは燻製にするか、生のままぶつ切にしてアールズッペというスープにする。ある時、ライン河の生きたウナギが市場でうごめいていた。購入し、下手ながらも三枚におろして蒸し上げ、醤油、砂糖、日本酒で作ったタレをかけオーブンで焼き上げる。香ばしい匂いが家中に漂う。

大きな期待で食べたら不味い!ライン河のウナギは小骨が硬く、蛇を想像させるような野生の嫌な匂いがして食べられたものでない。用意した高級なモーゼルワインも台無し。土浦の天然仕立ての「山中のウナギ」を食べるたびに、ラインウナギのまずさを思い出して苦笑を禁じえない。

ドイツの魚文化で特筆すべき一品がある。生のニシンを琵琶湖のフナずしのように発酵させたものである。マティエステ・ヘリングという。イカの塩辛とくさやの干物をミキサーにかけたような味である。はじめは臭くて食べられない。しかし、たいていのレストランのメニューにあり、腐ったような感じのグチャグチャに身が崩れた一匹を、うやうやしく大きな皿に盛りつけて出してくる。結構高価である。はじめは辟易(へきえき)したが、二、三回食べて病みつきになってしまった。 しかし、マティエステ・ヘリングにも上出来や失敗作もある。上出来なものは臭いが高貴な味がする。出来損ないは腐ったような味がするだけである。日本では一度も見たことがない。

詰まらない雑談なのでお詫びに霞ヶ浦の漁に使用されている帆船の写真を掲載します。壮快に気分になって頂ければ嬉しく思います。(終わり)

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昭和の悲しさ(4)食糧難の体験の記録

2009年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

出来る事なら一生ひもじい体験などしないほうが良い。しかし運命がそれを体験させる場合もある。少年のころ過ごした仙台では昭和19年ころから戦後の昭和26年頃まで食糧難の時代であった。仙台だけでなく全国の都市は全て食糧難に遭遇した。餓死者も毎日出た。しかし、食糧難の時代も遥か昔になり、60年近くなると悲しいことは全て忘れてしまう。残るのは懐かしい、甘い思い出になってしまうから不思議だ。

昭和19年になると米の配給も不足し、お粥や大根の葉を刻みこんだご飯になる。サツマイモやジャガイモの蒸かしたものに塩を付けて昼食にする。庭でとれたカボチャを夜のご飯へ混ぜて炊く。肉などは何ケ月も見たことが無い。だだし、仙台は塩釜漁港に近いので腐った臭いのする激塩のタラ、ホッケ、ニシン、イワシ、が一品だけ何日か間をおいて魚屋に並ぶ。三陸沖で取れるクジラ肉も並ぶ日もある。製氷機が無いのですべて塩を多量に使った塩付けである。それでも腐るから凄い臭いだ。今書きながら臭いの酷さと塩辛さを思い出して生唾がほとばしる。そのせいで塩味の濃い料理が好きになり、今でも薄味好みの家人と意見が合わない。臭い魚は腐っているのではなく、発酵しているの場合が多いので食べられる。

そんな食生活も敗戦の8月15日の後に一変する。社会の秩序がなくなると食料の輸送や流通経路が混乱し、店からは食料関係の商品が消えてしまった。毎日、食べるものが無い。

ひもじさの余り長屋の友達に教わったアカザ、スカンポ、ハコベ、オオバコなどの葉や茎を野山から採ってきて醤油で煮付けたり、おひたしにして食べた。でも空腹はおさまらない。米を精米するとき出る糠に少しの小麦粉を混ぜてフライパンで焼いたパンも食べた。

まずい代物で喉につかえる。赤い高粱もゆでて食べる。これも不味い。戦後しばらくして進駐軍の食糧援助で軍隊用の豆のケチャップ煮の大きな缶詰めが配給になった。まずくはないし、栄養があって元気が少し出た。それに精製していない赤っぽい砂糖が多量に配給になった。米の配給の代用品である。カルメ焼きという玉杓子のような形の銅の小鍋で砂糖を溶かし、溶けたら重曹を付けた棒でかき回し、冷やすと、フックラと膨れ上がった砂糖菓子が出来る。子供でも面白いように出来る。食べるとサクサクとして実に美味しい。しかしいくら食べても米のご飯の代わりにはならない。すぐ飽きる。人間は砂糖だけでは生きて行けないという勉強になる。

肉に餓えていたので、何処の家でも鶏やウサギを飼っていた。毎日2個の鶏卵を5人の家族が分けて食べていた。卵を産まなくなったら殺して鶏肉を食べる。ウサギも殺して食べる。大人が殺して皮を剥いで、肉を鍋にするが、美味しくない。可愛がっていた鶏やウサギを食べて美味しいはずはない。

1960年にアメリカへ留学したとき、毎日肉が好きなだけ食べられることに吃驚した。

こんな国と戦争すれば負けるのが道理だと胃袋が教えてくれた。

現在でも肉料理が出ると、その有難さに思わず頭が垂れる。そしてひもじい思いですごした仙台の日々が甘い追憶として思い出される。(続く)


潮来のあやめ祭りへ霞が浦を船で行く珍しいコース

2009年05月07日 | うんちく・小ネタ

大型連休も過ぎ、ここ数日は梅雨を連想させる雨の毎日です。5月が過ぎて6月になれば潮来のあやめも咲き始めます。毎年6月10日ころから20日前後までが見ごろです。昨年の6月17日に撮影した潮来のあやめの写真を掲載いたします。

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潮来へ行く普通のコースは東京駅から総武線に乗り、千葉などで乗り換え、JR潮来駅で下車します。しかしこのJR電車を乗り換えながら行くコースは長時間で、かなりの忍耐が必要です。そこで気の短い方々のために退屈しないコースをご案内いたします。

上野駅から常磐線の特急に乗ると45分で土浦駅に着きます。駅の東口の階段を降りるとタクシー乗り場です。タクシーで5分でラクスマリーナの観光船「ホワイトアイリス」号の桟橋へ行きます。船に乗って1時間。霞が浦を西端かた東端へ順航します。船の上からは両岸の緑豊かな農村風景を楽しめます。旧利根川へ入ればすぐに潮来の桟橋が見えてきます。そのまま1時間以上、あやめ見物をして、同じ船で帰っても良いのです。あるいは、帰りはJR潮来駅から根気よく電車で東京駅まで帰って来るのも自由です。昨年、私は船で行き、帰りはJR潮来駅から電車で帰って来ました。

「ホワイトアイリス」号の就航日は6月4日、13日、15日、27日だそうです。

詳しくはラクスマリーナ(電話:029-822-2437)へお問い合わせ下さい。

HPは、www.lacusmarina.com です。

尚、土浦駅とラクスマリーナの中間地点の岩壁には常陽観光(株)のジェットホイールつくば号の発着桟橋があり、その船もあやめの頃は潮来まで往復就航しています。詳しくは、HP:http://homepage1.nifty.com/madara/new-title.html をご覧下さい。

ご参考になれば嬉しく思います。(終わり)


夫婦愛、その新婚・中年・老年それぞれの愛

2009年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

仕事を一切止めて数年。幸い夫婦ともに健康です。近頃よく夫婦愛のことを考えることがあります。老年になって初めて自分達の夫婦というものが良く理解出来るような気分になっています。気分になっているだけで論理的に理解したわけでもなく、理路整然と皆様へご説明することも出来ません。

少し考えてみると夫婦愛の内容は、新婚時代、中年時代、老年時代になるに従って違うような気がします。新婚時代はお互いによく理解していなくて甘い夢の気分で過ごします。結婚してから子供が5、6歳になるまでが新婚時代といえそうです。子供が2、3人になり学校に上がるようになると生活費や学費に追われ、夫は残業をしながら夢中で働きます。妻は子供の世話が忙しくなるし、子供は自分の意見を勝手に言いだします。夫婦が一番忙しい時期です。夫婦愛のことなど考える暇も有りません。

それでも子供達が就職して最後の子供が結婚すると、やがて静かな老年期になります。仕事はまだ続きますが、人生の義務を果たしたようで、気持にゆとりができます。このころから夫婦愛というものを折にふれて考えるようになります。この時期の夫婦愛の特徴はお互いに感謝の気持ちが混じるようになります。単なる男女の愛からもう少し高い次元の愛へと変わります。この状態がすすむとお互いに感謝しながら死んでゆくことになるのでしょう。

夫婦愛は夫婦の経てきた日々の歴史によって変化して行くような気がします。

しかし、お互いに感謝の気持ちになって終わると言えば綺麗事すぎます。そこには男女の愛の危なさや緊張が混じっています。老人の皆様、決して油断しないようにしましょう。

つまらない話でしたので、最後に雪山を背景にした芝桜の花の写真を添えておきます。

今日も、それぞれの夫婦愛に満ちた健康な日になりますようにお祈りいたします。

                                             藤山杜人

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驚くべき官僚の心の貧しさ!

2009年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

あるネット上の知人のお陰で、岡敬三さんのHP;[きらきら丸のヨット物語」(http://www.geocities.jp/tiarashore/)を読むことが出来ました。岡さんは最近、「港を回れば日本が見える」(東京新聞社発行)という本を出されました。文筆の立つ方でいくつものHPを持っていらっしゃいます。

小生はヨットを21年間所有していて係留の問題や、漁港への寄港の問題で常に悩んで来ました。この悩みは官僚のあまりにも貧しい心に原因があります。基本的な法律では遊び船でも漁港に入港出来るそうです。それなの地方自治体の官僚がヨットやモーターボートのような遊び専門の船は漁港へは入り難くいようにする規則や条例を作ります。都道府県の役所がそのような規則、条例を作り、禁を破った者には罰則を与えようとするのです。規則や条例が厳然として存在している都道府県がいくつもあるそうです。(この事情はこの記事へ対する岡敬三さんからのコメントに正確に書いてあります。合わせてご照覧下さい)

そのことは岡さんのHPの「海国日本と鎖国日本」という一群の調査、報告記に詳しく書いてあります。

道庁や県庁の港湾局や漁業関連部署はきっとこの様に、胸を張って反論します。「ちゃんと臨時使用の許可申請書さえ事前に提出するば許可します」、と。

急に悪天候になって漁港へ避難するヨットが事前に県庁へ「漁港使用申請書」を提出できるでしょうか?まあ緊急避難の場合はまさか過料金は取られないと思いますが。

そんな事は地元の漁協と個別に話し合えば良いことで、何も道庁や県庁が関係する必要などありません。

もっと驚いた事実は外国の遊び船は日本の「開港している港」以外は原則として入港禁止です。入港希望の場合は、日本語で書いた入港許可申請書を事前に提出して許可を貰う必要があるのです。

申請書を複雑にすれば事実上締め出せます。これは遊び船の入港だけではありません。

全ての許認可事業では、申請書類を複雑にして、意図的にあるグループの人々を差別、締め出すことが出来ます。これが、国民のためになる行政指導の一部として平然として行われています。

官僚はヨットやモーターボートのような遊びは歓迎しません。仕事以外の遊びにお金を使っている人々と漁師を比較して、遊び人を無視しています。遊び人より漁師が偉いのです。そして官僚はもっともっと偉いのです。そう思いたくなる現象をたびたび経験します。

岡敬三さんの「港を回れば日本が見える」という本は注文しましたが、まだ読んでいません。しかしHPを読んで題目を見ると内容がある程度想像できます。題目だけでも、すでに大賛成なので拙文をここにお送りすることにしました。(終わり)


大型連休に遊べない人々の気持

2009年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

連休があれば旅に出る人々が増え、空港が混雑し、新幹線が満員になる。自動車道路も渋滞する。マスコミがそんな状態を取り上げて人々の心を煽ぐ。また、連休に遊んだ人々の楽しげな談話を紹介し、もっともっと遊べと言わんばかりだ。しかしこの様なマスコミの通り一遍の報道に何か軽率な感じがする。

たとえば、休日こそ忙しくなる職業についている人々。家族が居なくて独り家にいる人々。何かの理由で人と顔を合わせたくなく家で静かに読書をし、音楽を聞いている人々。病床に伏せっている人。そして、日々の糧を求めて歩き回っているホームレスの人々など。広い日本には連休と関係ない人々が多い。遊ばない人々がどのような気持ちで連休を過ごしたか?マスコミは取り上げない。人々の楽しみは皆同じようだが、悲しみは人の数だけ違う。ニュースにならない。

昨日、そのような連休に遊べない人の気持ちを思いながらも1枚の写真を公開しました。息子夫婦と3人の孫、そして家内。総数7人でヨットに乗っている風景です。このような幸福そうな写真はなるべくブログへは出さない。それが私のブログのこだわりでした。

昨日はその方針を変え、躊躇しながら掲載しました。

他人は他人。自分は自分と割り切って自分なりの過ごしかたに満足している。そして他人の歓びへ拍手を送る。

このような人から、趣味人倶楽部の中で拍手とコメントを頂きました。昨日のヨットの写真へです。夫に先立たれ、独りになった女性の方です。連休に昔の同級生とおしゃべりをし、元気になって何年も止めていた自宅のピアノを独りで弾いてみる。そして今は亡き夫の事を思い出す。そんな連休の過ごし方を日記にさりげなく書いていらっしゃいます。そして岡敬三さんの「港を回ると日本が見える」というヨットの本を紹介して下さいました。さっそく岡敬三さんのHPを見ました。このHPは素晴らしいので、別の記事としてご紹介することにしました。

連休に遊べない自分の職業に誇りを持っている人々。他人とは違う自分なりの過ごし方をする人々。病床にありながら朗らかに、健康だったころの楽しみを思い出しながら希望を持っている人々。たとえホームレスでも明るい気持ちで過ごしている人々。連休に遊べない人々でも、皆がそのようである様にと祈っています。

今日は連休の最後の日。暗い雨の日です。しかし皆様が明るいお気持ちで過ごされるようにと、お祈りいたします。    藤山杜人