今日は午前中に家を出て築地魚市場へ一人で遊びに行きました。
今年の秋から来年にかけて築地魚市場も店仕舞いしそうです。丁度、天皇も引退し来年末には新しい年号が始まるでしょう。
築地魚市場は昭和10年に開設されました。82年の歴史があります。
その店仕舞いは昭和、平成の時代の終わりを告げているようで何か淋しい感じがします。
そんな感傷をもって魚市場の雑踏の中を歩き、寿司を食べ、マグロを少々買って来ました。
これで昭和、平成の時代も無事、終わると意味も無く納得しました。
連休中なので都心の道路は空いていました。魚市場の中の駐車場にも入れました。
築地魚市場の写真を5枚お送りします。
1番目の写真は江戸時代からある波除神社です。魚市場の中にあるこの神社の写真は今日撮りました。
2番目の写真は一般人の入れないマグロのせり場です。この写真は築地魚市場の写真集からお借りしました。
3番目の写真は一般の人々向けの市場の店先の風景です。この写真もお借りした写真です。
4番目の写真は魚市場の今日の賑わいの様子です。
5番目の写真は新しく出来た屋内販売店です。今日も多くの人で賑わっていました。
こんな光景も来年には消えてしまうのです。この世の無常を感じます。
皆様のお住まいの地域にはどのような魚市場があるのでしょうか。
そんなことを考えながら今日も平穏な一日が流れ行きます。
===参考資料===============================
(1)築地魚市場の歴史
昭和10年2月、築地に広さ約23万平方メートルの東京都中央卸売市場が開設されました。市場へ集まる生鮮食料品は旧汐留駅から引き込線を通して貨物で、また隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきました。このため扇状の建物が建てられたのです。市場は迅速、公正な取引を展開し、取引の結果を公表して価格を安定させ、市民生活を支える大きな力となったのです。
(2)波除神社のご紹介
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。
それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。
今年の秋から来年にかけて築地魚市場も店仕舞いしそうです。丁度、天皇も引退し来年末には新しい年号が始まるでしょう。
築地魚市場は昭和10年に開設されました。82年の歴史があります。
その店仕舞いは昭和、平成の時代の終わりを告げているようで何か淋しい感じがします。
そんな感傷をもって魚市場の雑踏の中を歩き、寿司を食べ、マグロを少々買って来ました。
これで昭和、平成の時代も無事、終わると意味も無く納得しました。
連休中なので都心の道路は空いていました。魚市場の中の駐車場にも入れました。
築地魚市場の写真を5枚お送りします。
1番目の写真は江戸時代からある波除神社です。魚市場の中にあるこの神社の写真は今日撮りました。
2番目の写真は一般人の入れないマグロのせり場です。この写真は築地魚市場の写真集からお借りしました。
3番目の写真は一般の人々向けの市場の店先の風景です。この写真もお借りした写真です。
4番目の写真は魚市場の今日の賑わいの様子です。
5番目の写真は新しく出来た屋内販売店です。今日も多くの人で賑わっていました。
こんな光景も来年には消えてしまうのです。この世の無常を感じます。
皆様のお住まいの地域にはどのような魚市場があるのでしょうか。
そんなことを考えながら今日も平穏な一日が流れ行きます。
===参考資料===============================
(1)築地魚市場の歴史
昭和10年2月、築地に広さ約23万平方メートルの東京都中央卸売市場が開設されました。市場へ集まる生鮮食料品は旧汐留駅から引き込線を通して貨物で、また隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきました。このため扇状の建物が建てられたのです。市場は迅速、公正な取引を展開し、取引の結果を公表して価格を安定させ、市民生活を支える大きな力となったのです。
(2)波除神社のご紹介
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。
それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。