後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の日記、昔の学生さんが栽培した野菜を送ってくれた

2017年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
T君と知り合ったのは茫々45年以上の前のことです。その昔の学生さんが採れたてのソラマメやスナックエンドウや玉ねぎを沢山送ってくれたのです。T君は野菜の栽培が趣味なのです。毎年頂くたびに幸せな気分になります。

1番目の写真が今日頂いた野菜の写真です。
T君は私が研究指導をして工学博士になった大学院の学生さんでした。そのような大学院の学生さんは数人いましたが、T君は気性の良い優しい人柄だったので印象が特に深いのです。
私のもとに5、6年いましたのでよく一緒に遊んだものです。
冬は家内や子供達と奥多摩のスケート場に何度も行きました。
甲斐駒の麓の山小屋にも泊まりがけで遊びにいきました。その折、釜無川でハヤ釣りを教えて貰ったのも楽しい思い出です。
T君の家は多摩川沿いの立川市にあったのでハヤ釣りの名人でした。
そんなこともあって私の山小屋の薪ストーブも作ってくれました。

2番目の写真の小川の手前の右側にある黒い鉄製の箱がその薪ストーブです。T君のお父さんが自分の経営していた工場で作ってくれたストーブです。
このストーブは毎冬やく30年間ほど使いました。その後、他の薪ストーブを買ったので不要になりました。
しかしT君との楽しい思い出を捨てることが出来ず、写真のように小屋の庭に安置したのです。この写真は今年の4月に撮ったものです。
それはさておき、T君は工学博士になって大きな製鉄会社に就職し、そこの研究所に勤務します。
結婚式にもよばれましたので可愛い美人の奥さんにもお会いしたことがあります。
T君の勤務していた研究所は千葉市と瀬戸内海の水島市にありました。水島市の研究所にいた間は毎年、イカナゴの笹漬けを送ってくれました。T君の研究所での評判は抜群でした。人柄が良く周囲の人と協調して大きな研究成果を上げていたのです。
T君は定年後には千葉の自宅に住み、大学で研究をして悠々と趣味の畑の仕事も楽しんでいます。奥さんもお子さんも孫達も皆健康だそうです。
私の一生は文字通り恥多い一生でしたが、T君やその他数人の工学博士になった学生君や多くの学生君と知り合ったことが実に楽しい思い出になりました。
あれから茫々40年余、T君も70歳前後になったはずです。
今日はT君が野菜を送ってくれたお陰で昔の楽しい思い出を次から次へと想い浮かべています。こうして老境の今日も感謝の念とともに流れ行きます。五月晴れの良い一日です。

天皇、皇后も訪れた日本一の長寿村・山梨県の棡原村に遊ぶ

2017年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は山梨県の棡原村(ゆずりはらむら)という名前をご存じでしょうか?ここはかつて日本一の長寿村として名を馳せていました。
この村は1950年に上野原町に合併されてしまいますが、棡原地区には現在でも『ふるさと長寿館』があり観光客で賑わっています。
この『ふるさと長寿館』へは今上天皇と美智子皇后が平成8年4月25日にご訪問されました。
そのこともあって多くの人々が長寿を願って、『ふるさと長寿館』の健康的な山の農作物を中心にした食事をしに訪れています。
昨日は皐月晴れです。上野原町の中心地から山道を根気良く車で走り訪れました。

1番目の写真は平成8年4月25日に訪問なさった天皇さまと皇后さまのお写真です。
この『ふるさと長寿館』には山ウドやタラノ芽、セリや山菜を売っているので時々行きます。
山の斜面にわずかの畑があり主食にする小麦やジャガイモを栽培しています。山菜や野菜類も作っています。
水田が無いので昔は米を食べなかったのです。それでも長寿の老人が多かったので「長寿村」と言い出す学者や医者がいました。
菜食主義者が熱心にこの『ふるさと長寿館』を支援したようです。
私は特に菜食主義者でもありませんが棡原地区の自然が美しいので時々行きます。山梨県の上野原町から山道を登り、『ふるさと長寿館』で一休みします。その後は山道をさらに登って「甲武トンネル」をくぐって東京都の檜原村に抜けます。
このドライブコースは美しい緑の森が続き、その森には草花やアヤメが咲き、見上げると野生の桐の花や朴木の花が咲いています。

2番目の写真は休耕の畑に咲いていた花です。

3番目の写真は同じような休耕の畑に咲いていたアヤメです。

4番目の写真は山の中にあった桐の大木の花です。

5番目の写真はかなり登ったところに咲いていた朴(ホウ)の木に咲いていた花です。

さて何故、山梨県の棡原村(ゆずりはらむら)は日本一の長寿の村と言われたのでしょうか?
平成29年5月1日現在の棡原地区には65歳以上の高齢者が460人住んでいます。これは棡原地区の人口の46.4%にあたります。
従って棡原地区の平均年齢は60歳以上になります。ですから長寿村と言うのです。
しかし若者が皆都会に出ていった過疎村は全国に沢山あります。
過疎村の平均年齢は高いのは当然です。
それなのに何故、日本一の長寿村と言われたのでしょうか?
理由は過疎とか高齢者とか平均年齢などという概念がまだ普及してなかった時代に「日本一の長寿村」と言い出したからです。独創的な発想でした。
かつての日本一の長寿村・山梨県棡原村で医師をしていた古守豊甫先生が言い出したようです。
その言葉は、『 人の寿命は 食べた野菜の量に比例する! 』という情緒的なスロ-ガンでした。科学的根拠などありません。
棡原地区の人々は山の畑で採れるイモ類、主にジャガイモと里芋や 雑穀類、野菜類、豆腐、納豆、味噌などばかり食べ、 時々川魚を食べていました。
このような食生活で本当に長生き出来るのでしょうか?
まあ科学的な詮索は止めましょう。
兎に角、野菜をたくさん食べましょう。野菜は間違いなく健康に良いのです。その上野菜をたくさん食べると人は優しい気分になるようです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

老人ボケとはこのような状態でしょうか?

2017年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
広い大きな青い海の沖の方をしばし眺め、それから浜辺に寄せている白波のつくる模様に見とれていました。
何も考えずに数分見入っていました。頭がボーッとした状態になります。
最近、自然の風景を見ていると頭の動きが止まってしまい10分近くもぼんやりするようになりました。
その後て、嗚呼、これが老人ボケなのだと思い、何故か嬉しくなります。
現在、81歳です。これで全ては空(くう)だということが理解できたような気分になります。
最近、箱根と伊豆に小さな旅をしたときに大磯の海岸で撮った写真をお送りいたします。









浜辺に打ち寄せる白波の模様に見とれていましたが、数分後何か考えようとしました。
思い付くことは幼少の頃よく行った海水浴場の白波でした。
戦前生まれ、戦後育ちの幼少のころは夏の娯楽といえば海水浴だけでした。当時は仙台に住んでいましたので近場の荒浜や菖蒲田浜へバスで行きました。戦争でガソリンが無くなり木炭を燃料にした「木炭バス」に乗って行ったのです。
バスの後ろに鉄製の大きな窯が積んであります。その窯の中で木炭を威勢よく燃やして一酸化炭素ガス、すなはちCOガスを多量に作ります。このCOガスを前部のエンジンへ送りガソリンの代わりにするのです。
木炭バスは力が無くて坂道が登れません。海水浴に行く途中に丘がある度に乗客が降りて、バスの後ろを押します。そんなことをしながら海水浴に行ったものです。
戦後、少し落ち着いてからは電車で塩釜まで行き、港からポンポン蒸気船に乗って馬放島や桂島の海水浴にも何度も行きました。
そして仙石線の電車に乗って塩釜よりも遠方の野蒜海岸や宮戸島の海岸にも海水浴に行ったものです。
大磯の浜辺の風景を見ながらそんなことを考えていました。
隣にいる妻に、「何を考えている?」と聞くと「何も考えていない」と答えます。
これは老人ボケではなく妻は若い時から風景を見ている時は何も考えないのです。
そこで彼女の海水浴の様子を代わりに思い浮かべてみました。その場所は鎌倉の由比ヶ浜でした。
家から水着の上にケープを掛けただけの姿で松林の中を歩くと由比ヶ浜に出たそうです。家は現在は鎌倉文学館になっている加賀様の別荘の下の方にあったそうです。
当時は海水浴が皆の楽しみでした。夏になると親類が泊りに来て由比ヶ浜で海水浴を楽しんだそうです。
大磯の海岸を見ながら妻の思い出まで考えて「老人ボケ」から脱出したのです。

皆さまは、「嗚呼、私は老人ボケだ」と自覚されたことがあるでしょうか?
つまらいことを書いて失礼しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(3)19歳で日本からコチア産業組合の契約移民になる」

2017年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の連載記事の前の掲載記事は次の通りです。
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」、2017年04月22日 
平峰 盛敏 著、「ブラジル生活あれこれ(2) ブラジルは左傾反米思想」、2017年04月29日
あわせてお楽しみ下さい。
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平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(3)19歳で日本からコチア産業組合の契約移民になる」

(1) コチア産業組合の歴史

ブラジルに日本移民が1929 年に創立したコチア産業組合 と言うマンモス組合がありました。最盛期には、南米で 一番大きい産業組合でした。 その組合が、後継者不足を解決する目的で考えたのが、『コチア農業組合単独青年移民企画』だったのです。
19歳だった私は、1962年その組合と雇用契約をしたのです。そしてブラジルに渡ったのです。
コチア産業組合は、1929 年、サンパウロ市 から 27 kmの場所で創立しました。
83人の ジャガイモ栽培者が日本総領事館の後押しで作った農業組合でした。
その年は笠戸丸で、781人の 第一回日本集団移民が始まってから、21年経っていました。
日本国立図書館が掲載している "移民100年の 歩み" と言うコラムに、次ような 説明文が、載っています。
『日本人集団地に続々と農協が誕生したのは1920年代後半から1930年代にかけてで、在サンパウロ総領事館が日本の産業組合をモデルにして補助金を交付して設立を奨励したことによるものである。』
コチア産組の創立から数えて67年後、1996年に毎月物価が倍加する厳しいインフレと、それが 原因で現れた深刻な不景気に、ブラジル国民は、喘いでいました。加えて、全盛期に培われた楽観的で大雑把な運営方針が不幸な相乗効果を出してコチア農協はつぶれてしまいした。本当に惜しんでも惜しみ切れない心残りのある経緯でした。残念でたまりません。

(2)コチア産業組合の仕事は徒弟制度
日本史で、徒弟制度と言うものを教わりました。 その良いところは、少年、青年に、誠実勤勉にあらゆることを修得しようと思わせることです。
親方の言う通り熱心に仕事をすれば必ず親方のように一軒構えられる日が来ると云う夢があるのです。
それは修行に励み自主啓発させる制度なのです。
この徒弟制度にも悪い側面がいろいろありますが、私はそれを考えないことにしました。
私がブラジルへ行ける手段としたコチア青年移民は僅か四年間の就労でした。
それはプランテーション方式の大型農家になれるという夢を与えてくれました。
徒弟制度に似ている運営だったのです。

(3)深慮が足りなかった私の若さと農作業の体験
10才で 父を失いましたが、私の学校の成績は良かったのです。
教えられる事を誰よりも早く習得して、よく誉められました。
ですから私は自分の描いた夢は容易に実現すると信じていました。
今思うと、かわいそうな先の見えない馬鹿者だったらしいのです。
移民の実態と自分の将来をじっくり考えるべきでした。それは深慮が足りなかった私の若さでした。
ブラジルの情勢を検討して、そこで何をするかを慎重に決めてから来た人もいました。
そういう人は大陸国ブラジルに相応しい、ビックリするような大型な成功者になっています。
四年間の契約就労後、親方のやり方を踏襲して成功した人もいます。そして、他の特技を発揮した人もいます。
太平洋を渡る旅の間はブラジルでの成功を夢見て、45日間、船の上で過ごしました。
それほどの長い期間、なんの仕事もせず過ごしたことはその後一回もありません。 良い思い出です。
乗組員が、運動会とか 、盆躍りとか、色々退屈しない工夫をしてくれました。 パナマ運河通過時熱帯樹林の異様さを目の当たりにして、こんな処で生きていけるかなと少々不安になりました。
でもサンパウロの高原に来た時、そこの草木の風情が、祖国で、見慣れた通りだったので、不安が消えました。
私の配属された組合員の親方の処には既に三人のコチア青年移民がおりました。
受け入れ先は、皆私たちより30年程前にブラジルに来て、大きな借地耕作をしておりました。彼等は『成功者』とよばれるジャガイモ栽培専門家達でした。
私達、青年の仕事はジャガイモの栽培でした。その収穫期には重労働になります。

(4)親方の末娘の優しさに淡い恋心を感じる
今思うと、親方の 末娘さんは美しい人でした。私が同じ家に先輩達と一緒に住むことになってから何時も、ニコニコ、親切に、話し掛けてくれました。
当時、特に気に掛けてくれた事があった事を思い出して、今、その真心に感謝を捧げます。私は馬鹿者であっても青年としての魅力があったのでしょうか。
一週間もしないうちに親方はそれに気がついたのです。
彼は私が 日本に 新妻を置いて来ていることを皆に言ったのです。
そしてそのお嬢さんの淡い恋はかげろうの様に終わりました。
親方はすぐに私の妻と母親を、呼び寄せる手続きをするように言ったのです。
そして日本から来た母と妻と私の三人は親方の下で働くことになりました。
今思い返してみると、それは有難い親方の大きな親心でした。

(5)ジャガイモの収穫と販売の難しさ

ジャガイモは、ブラジルの食卓に欠かせない食べ物ですが、収穫してからあまり長く保管出来ません。
自分達が植え付けた時期に、他の沢山の農家も植え付けると、生産過剰で値段が下落します。
折角万全の注意を払って肥やしを施し、害虫を駆除し日照りには灌水して育てたつやつやした美しい美味しいジャガイモが酷く安くなってしまうのです。経費が出ません。 首が回りません。私の就業後、三年未満で、私共の親方は経営が行き詰まりました。
それで、少しのお金をいただいて私共は失業したのです。
今思えばあの時、大農家になる夢を追うなら、親方と話し合って組合に交渉すべき筋合いだったのです。 しかし私たちは異国の空でも何とかなるだろうという楽観主義者ばかりでした。

(6)ブラジルにあった日本企業に就職、そして生涯の友人
その頃、私は、ホンダオートバイの ブラジル支社に部品を納める製作会社で通訳として就職しました。
組合の親方が破産しても何も残らなかった訳ではありません。生涯の友人が出来たのです。
あの時、別々の道に進んだ同僚の中の一人で、家族同士で一生付き合っている友人が出来たのです。
その友人は少し年上の先輩でした。
その親友が最近三千キロの距離を飛んで遊びに来てくれたのです。それは18年振りの会合でした。
私は近所の名勝地を紹介をしながら三日間歓談しました。
彼の一言一句から、移民の苦労から生まれた意地の強さ、相互尊敬、深い思いやり等々が感じられるのです。
それと自分の子供達が、現地人と色々な違いが有るので、批判されたり苛めに会いながら育ったことも話し合いました。
それでも子供達は割り切ってこだわりの無い大人に成長しました。彼等が『国際人』である事に誇りを感じます。
日本とブラジルの両方の良い面を生かせる方向へ進んでいるようすを確認し合ったのです。
それこそが最高の宝であると結論し合いました。
あの親方のお嬢さんは後に大きな牧場主と結婚し、裕福に暮らしているという事もこの親友から聞きました。

(7)昔の組合のメンバーが花栽培で大成功
サンパウロ市に、サンパウロ新聞という日本語新聞があります。そのコラムにコチア青年移民 60年記念の事を載せています。
コチア青年移民の一人が、ブラジル一番の大都市、サンパウロの近郊で花の栽培を専門的本格的に始めました。それが花だけの専門企業のブラジルでの草分けだったのです。 今、それが素晴らしく大きな産業に育っています。 輝かしい業績です。
先日、会った親友は、その現場を数回訪れており、感慨深く話していました。
コチア青年の一人が大々的に花栽培を進めて活気溢れる町が出来た場所さえ有って、そこを見学した時の話も、快適な音楽でも聞くような気持ちで聞きました。
そしてジャガイモの栽培も、鶏卵、鶏肉の産業も8割強が日系移民とその子孫によって賄われていることを話していました。 それは日本移民皆様の偉大な業績です。

(8)不毛のセラードの開発をしている日系移民たち
前出の国立図書館のコラム、移民100年の歩みに 次の様な記事があります。
"1973年(昭和48)、コチアは、ミナスジェイラス州、ゴヤス州、マットグロッソ州などにわたって分布する熱帯サバンナ気候のセラードに組合員を入植させ、セラード開発に進出した。"
セラードとは幕が降りた状態を表現した単語です。 草木ボウボウと生い茂り、先が見えない情況です。
乾燥期と雨期が毎年繰り返され、高い樹は繁りません。幹や枝も伸びられず、水分を失わないために、カサカサの表皮が幾重にもなったり、うぶ毛で覆われたり、曲がりくねって堅い木になってやっと生き延びている木々の森が何処までも続いています。
20メートルの深さまで根が届いているそうです。日本全面積の5.5倍が、その様な不毛の地でおおわれています。
その開発に、コチア産組は新しい夢を託したという事だったのです。
日本ではアメリカのニクソン大統領が大豆輸出を制限すると言った事を心配していたそうです。 あの不毛のセラードが現在は大々的な機械耕作地になっています。大豆を栽培するための土地改良が出来たのです。灌水方式の成功したのです。
前記のように、残念でたまらないけれどコチア産組は潰れました。にも関わらず日本移民は世界中に大豆をブラジルから輸出しています。
大豆は日本から移民が持ち込んだのです。 大豆 だけでは無く何百種もの野菜や花やが持ち込まれ植えられています。 その話を思い出す度に元気が出ます。

では この辺で、今日は終わりにして、皆様のご健康と御幸福を おいのりいたします。

添付の1枚目の写真は、セラード開発の記事からおかりしました。
以下2枚は、普段健診に通っている、州立公務員病院です。白い建物は、その病院運営のカソリック 礼拝堂です。







アメリカ空母打撃隊は現在北朝鮮沖の何処にいるか?

2017年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は不思議に感じませんか?ここ数週間、日本のマスコミには、日本海に入ったアメリカの空母、カールビンソンに関する報道が一切無いのです。皆無です。
数週間前に日本の新聞社が飛ばした取材機が対馬海峡を通過しているカールビンソン空母艦隊の写真を撮り、その写真が報道されていました。
ところが、その後は一切の報道がありません。インターネットにも空母群に関する情報が皆無なのです。
これはアメリカの要請を受けて日本政府が厳重に報道を禁止しているからだと、小生は個人的に想像しています。
カールビンソン空母打撃艦隊は空母を護衛する駆逐艦2隻、ミサイル防衛用のフリゲート艦2隻とその他の補助艦から編成された艦隊です。
その艦隊を護衛するために日本の複数の基地からアメリカの戦闘機が常時飛び立って空母艦隊の上空の制空権を守っていると考えられます。
日本のマスコミの取材機が日本海に展開している空母艦隊に近づくのは出来ないでしょう。しかし普天間基地や岩国基地や三沢基地からのアメリカ戦闘機の離陸回数は簡単に取材出来る筈です。その情報も一切ありません。
当然のことながら日本の航空自衛隊も日本海の情報収集のために飛行機を常時より多く発進させている筈です。
同じことを韓国の空軍と海軍が行っていると想像できます。

その上、中国もロシアも情報収集艦を出していたという報道が4月にあったと記憶しています。
これに対して北朝鮮が何もしていないとは考えにくいことです。
戦闘機を発進させて遠方から恐る恐るカールビンソン空母打撃艦隊を監視しているのではないでしょうか?
このような私の想像が真実であったなら、日本海は危険な状態にあると理解するのが自然ではないでしょうか?
報道が皆無だという状態が私にはどうしても分からないのです。何故、報道が無いのでしょうか?

もう少し振り返ってみると北朝鮮が金正恩体制になってから弾道ミサイルの発射は33回、合計51発もあるのです。
今回発射された「火星12」の射程距離は4500Kmと推定されています。
これは北朝鮮が西太平洋最大の米軍基地、アンダーセン基地があるアメリカ領グアムを直接攻撃出来ることを示すものです。
北朝鮮は着実にミサイル技術を進歩させています。いずれアメリカ本土を射程内に入れるミサイルの開発がなされるでしょう。
核弾頭の開発も行っているでしょう。
このような状態でも、アメリカが軍事攻撃をしない限り日本は戦争に巻き込まれないでしょう。
この戦争回避の鍵を握っているのが北朝鮮に原油輸送管を持っている中国ではないでしょうか?
ですかこそトランプ政権は中国の習近平政権との友好関係を作ろうとしています。これに平行して日本の自民党の幹部が中国を訪問して習主席と会っています。そのうち安倍総理と習主席の会談もあり北朝鮮の問題も話し合うことになるでしょう。
一方の韓国でも新しい文在寅大統領が誕生し、北朝鮮対策を硬軟両様で積極的に取り組むと言っています。
このように日本海の周囲が俄かに風雲急を告げ出したのです。
戦争回避の為に日本が出来ることは限られています。
日本の国内では相撲の夏場所が始まり、プロ野球やサッカーのJリーグも多数の観客を集めて平和です。この平和が何時までも続くようにと祈るだけです。

今日の記事の挿し絵代わりの写真は平和のシンボルのように感じられるバラの花の写真です。近所のバラ栽培の上手な家で撮らせて頂きました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









水碧き芦ノ湖の写真と芦ノ湖の歴史

2017年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
箱根は東京の人が良く行く観光地です。新宿駅から小田急のロマンスカーで麓の湯本温泉へ行き、そこで登山電車に乗ります。終点の強羅で下りると目の前に大涌谷を経由して芦ノ湖の湖尻まで行くロープウェイがあります。湖尻からは芦ノ湖名物の海賊船に乗り湖を渡り箱根町で下船します。箱根町では「箱根駅伝マラソン・ミュージアム」や「箱根関所の建物群」を見た後、江戸時代そのままの杉並木を歩いて元箱根の船着場まで散策します。
レストランやお土産屋が沢山あります。
そこから少し足を伸ばし箱根神社を参拝し、その先の山のホテルのツツジの庭園を見ます。
帰りは元箱根から頻繁にバスが麓の湯本まで出ています。
仙石原の湿性花園や「ガラスの森」や「ルネ・ラリックミュージアム」へ行くには湯本からバスが便利です。
このように箱根は交通の便が良く整備されています。楽しい彫刻の森という美術館やポーラ美術館や成川美術館もあります。日帰りでも良く、一泊するとゆったりした気分になれます。

さてこのように風光明媚な箱根は何時頃出来たのでしょうか?
何度も噴火を繰り返していましたが現在の風景は大体16万年前に出来上がったのです。
隣の富士山は約2万年前に出来た新しいい山です。箱根火山の古い溶岩の上に富士山の新しい溶岩が重なっているそうです。
そして箱根の魅力になっている芦ノ湖はどのようにして出来たのでしょうか?
簡単に言えば現在の芦ノ湖と仙石原はつながった大きな仙石原湖だったのです。湿性花園の広大な湿原に立って駒ヶ岳山系を見上げると、嗚呼、ここは大きな湖の底だったと納得します。
それが小さくなって現在の芦ノ湖が出来たのです。

約3000年前、神山北西斜面で山体の多くを崩壊させる大きな水蒸気爆発が発生します。これにより大涌谷が生まれ、水蒸気噴火によって引き起こされた土石流により仙石原湖の半分以上が埋没して仙石原となったそうです。その時、早川の上流部の現在の湖尻付近がせき止められて芦ノ湖が誕生したそうです。
それでは今回撮って来た芦ノ湖の風景写真をお送りいたします。

1番目写真は元箱根の湖岸から見た芦ノ湖です。向こう側に雪を戴いた富士山が見えるのですがこの日は雲の中で見えませんでした。

2番目の写真は箱根町の湖岸から撮った湖と箱根最高峰の駒ヶ岳です。

3番目の写真は元箱根の湖岸の近くにある箱根神社の鳥居です。この神社は古いものです。奈良朝の初期、天平宝字元年(757年)に万巻上人により現在の地に建てられたと言います。箱根三所権現と称えられ仏教系の修験道と習合していました。

4番目の写真は箱根町の湖岸から撮った観光船です。観光船は湖尻と箱根町、元箱根町を往復しています。

5番目の写真は観光船の海賊船です。箱根観光船の運行は1950年に始まります。すぐに海賊船風の遊覧船を導入し、人気を博します。この箱根海賊船は乗ってみるとかなり昔の帆船の構造を真似していて楽しい遊覧船です。子供達や孫たちが幼かった頃よく乗ったものです。人気があるので1950年代から現在に至るまで芦ノ湖を巡航しています。

今日の記事はこれでお終いですが、参考資料として以下を補足してあります。、
(1)芦ノ湖の歴史
(2)箱根神社の歴史
(3)箱根町の歴史
おわせて、ご一読しお楽しみ下さい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料================
(1)芦ノ湖の歴史;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E3%83%8E%E6%B9%96
箱根火山のカルデラ内にある中央火口丘の一つで、成層火山である神山が、約3000年前に水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が発生。カルデラ内にあった早川を堰き止めて芦ノ湖が生まれた。
天平宝字元年(757年)、万巻は箱根神社を建立した後、伝承によると、人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、現在の九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされる。
江戸時代、駿河国駿東郡深良村(現裾野市)の名主・大庭源之丞は灌漑用に芦ノ湖から箱根山の外輪山(湖尻峠下)を貫通するトンネルを掘ることを考えた。芦ノ湖の水利権を持つ箱根権現社の許可を得て、江戸商人・友野与右衛門の資金協力を受けて、1670年(寛文10年)に用水路を完成させた。この用水は「深良用水」と呼ばれ、現在は狩野川水系黄瀬川支流の深良川となっている。また、日本を代表する用水のひとつとして、農林水産省の疏水百選に選定されている。

1911年、後に西武傘下になる芦ノ湖遊覧船の運行が始まった。
1925年、赤星鉄馬によってブラックバスが日本で初めて放流された。
1950年、箱根観光船の運行が始まった。箱根観光船は海賊船風の遊覧船を導入して人気を博し、箱根海賊船の愛称で営業されている。

魚貝類
ニジマス、ブラウントラウト、ヒメマス、オオクチバス、コイ、フナ、ウグイ、オイカワ、ワカサギ、ヤマメ、イワナ

(2)箱根神社の歴史:http://blog.goo.ne.jp/hakone-jinja
箱根神社は、古来、関東総鎮守箱根大権現と尊崇されてきた名社で、交通安全・心願成就・開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
 当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
 奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。
 平安朝初期に箱根路が開通しますと、往来の旅人は当神社に道中安全を祈りました。
 鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えました。
 近世、官道としての東海道が整備され箱根宿や関所が設けられますと、東西交通の要(交通安全祈願所)として当神社の崇敬は益々盛んになり、庶民信仰の聖地へと変貌しました。
 こうして天下の険、箱根山を駕籠で往来する時代から、やがて自動車に変わる近代日本へと移行しますが、その明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称されました。
 爾来、明治6年明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、大正・昭和の現代に至るまで各皇族方の参拝は相次いで行われました。最近では、昭和55年、昭和天皇・皇后両陛下の御参拝につづいて翌56年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。また、民間も政財界人の参拝や年間2千万人を越える内外の観光客を迎えて、御社頭は益々殷賑を加えているの箱根大神の御神威によるものであります。

(3)箱根町の歴史:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%94%BA#.E5.9C.B0.E7.90.86
律令時代 - 東海道相模国足柄下郡に属す。
1180年8月 - 源頼朝が挙兵して序盤の戦いを石橋山で戦った。
「石橋山の戦い」を参照
江戸時代 - 徳川家康が江戸幕府を開くと、東海道を足柄峠経由から箱根峠経由に変更させ、現在の箱根町に当たる芦ノ湖畔に箱根関所を設置し、「入鉄砲に出女(武家の妻女)」を厳重に監視した。箱根宿三島町・芦川町は韮山代官所直轄の天領、箱根宿小田原町・新町・新谷町およびそれ以外の箱根町域のほとんどは、小田原藩領となる[1]。
1868年8月17日(慶応4年6月29日) - 箱根宿三島町・芦川町の民政一般が神奈川府の管轄となる。ただし一部事務などは韮山県が扱った。
明治初年 - 箱根宿が箱根駅に改称。
1869年7月25日(明治2年6月17日) - 版籍奉還により、明治政府の行政区画としての小田原藩が成立する。
1871年8月29日(明治4年7月14日) - 廃藩置県により、小田原藩が廃止され、小田原県となる。
1871年(明治4年9月) - 韮山県廃止により、箱根駅が全面的に神奈川県の管轄となる。
1871年12月25日(明治4年11月14日) - 小田原県は廃止され、神奈川県管轄地域を含めた足柄下郡の全域が足柄県に属す[2]。
1876年(明治9年)4月18日 - 足柄県を分割し、これ以降は神奈川県に属する[3]。
1884年(明治17年) - 箱根駅、元箱根村および芦之湯村が「箱根駅外二ケ村」連合戸長制を敷く。
1886年(明治19年)7月 - 函根離宮(現在の恩賜箱根公園)が竣工する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行で箱根駅、湯本村、温泉村、宮城野村、仙石原村、元箱根村、芦之湯村の1駅6村が発足する。箱根駅、元箱根村および芦之湯村は、「箱根駅外二ヶ村組合」にて行政を行う。
1892年(明治25年)10月29日 - 県治局長による内翰により、箱根駅が箱根町に改称する[4]。箱根駅外二ヶ村組合は、箱根町外二ヶ村組合となる。
1904年(明治37年) - 七湯経由の人力車道が足ノ湖畔まで開通する。
1927年(昭和2年)10月1日 - 湯本村が町制施行し、湯本町となる。
このころ、箱根山戦争が起きる。

1954年(昭和29年)1月1日 - 箱根町外二ヶ村組合の箱根町、元箱根村および芦之湯村が合併して、新たに箱根町となる。

湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町を廃し、箱根町を置く件の総務省告示文があります。
1956年(昭和31年)9月30日 - 湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町が合併して、新たに箱根町となる。

「四季折々、静かに樹や花が美しい箱根湿性花園」、続き

2017年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。これから教会のミサに行きます。
その前に、昨日の記事の「四季折々、静かに樹や花が美しい箱根湿性花園」の続きとして撮ってきた花の写真をお送りします。
どうぞお楽しみ下さい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はイリスクリスタータです。

2番目の写真はシャクナゲです。

3番目の写真は苧環 (オダマキ)です。東京近辺に咲いています。

4番目の写真はサワオグルマです。

5番目の写真はアケビの花です。

6番目の写真はサクラソウです。

7番目の写真は園芸種のいろいろなサクラソウです。丁度展覧会をしていました。

四季折々、静かに樹や花が美しい箱根湿性花園

2017年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
箱根では必ず行くところがあります。今回も訪れた仙石原の箱根町湿生花園です。
新緑の樹々の間を薫風が吹いています。足元の湿原には小さな可憐な花々が咲いています。ウグイスがしきりに鳴いています。
この箱根湿生花園は湿原や湖沼などに生育している植物を中心にした植物園です。人工的なものはありません。
 園内には、低地から高山まで日本の各地に点在している湿地帯の植物200種のほか、草原や林、高山植物1100種が集められ、その他珍しい外国の山草を含め約1700種の植物が四季折々に花を咲かせています。
静かで広い植物園です。今回はそのすぐ近くの箱根パレスホテルに泊まったのでゆっくりした気分で歩いて来ました。
この箱根湿性花園で撮ってきた風景写真をまずお送りします。そして続編では花々の写真をお送り致します。









人間到る処青山あり・・・外国に骨を埋める人々

2017年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカ生まれのSNSのFace Book に加入して毎日、国内は勿論、外国に方々と楽しく交流してます。
それで気が付いたことですが、いろいろな外国に住み着いていて、そこに骨を埋めるような日本人の方が沢山いるのです。外国はイギリス、スペイン、フランス、ドイツ、イタリア、などは勿論、南米のブラジルなどの諸国です。そしてインド、タイ、マレーシア、インドネシア,台湾、韓国、中国にも日本人が沢山住んでいます。
その上、日本に住みついているいろいろな外国の方々もいます。
こういう方々は何となく達観の境地にいるような雰囲気です。地球上の人間はみな同じと信じ、死んだらその国の土になるのです。
立派な人生だと思います。尊敬しています。
このような方々と交流していると、私は『人間(ジンカン)到る処青山あり』という句を思い出します。
その上、この句は Face Book で交流している時だけ思い出すのではありません。
私の長い人生の折々に必ず思い出す言葉でもあります。
仕事がうまく行かなくて屈折しているとき。残雪の連山を見ながら亡くなった親や恩人のことを思い出しているとき。海の上でヨットに乗っているとき。フッと思い出して残雪の連山や青い海原に眠る人々のことを思うこともあります。
この一節は幕末の長州の月性という僧侶が作った漢詩の最後の一節です。
言葉の響きが良い上に蒼く光る山々を連想されるので広く人々に使われる一節です。もっとも青山とは墳墓のことですが、蒼く光る山々を連想されるのです。

その七言絶句の漢詩と訳は以下の通りです。          

『將東遊題壁』

男兒立志出郷關,
學若無成不復還。
埋骨何期墳墓地,
人間到處有青山。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

(「人間(じんかん)」は世の中を指し、「青山」は墳墓を表しています。)
その大意は、人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきであるとの意です。

幕末の長州で月性は尊皇攘夷の運動を活発にしていて吉田松陰とも交友があったそうです。
現在は日本人は多くの国々に行って住み着いています。そこで家族を持ち、活躍し、やがて没し、その国の土になるのです。
「人間到る処青山あり」という一句は何となく現在の様子に合致しているように感じられます。
私が戦後に入学した新制高校は旧制中学校のままの漢文の先生が教えていました。
勿論、この漢詩の重要な一節は、「学若し成る無くんば復た還らず」です。学問をきわめるために故郷を出るのです。しかし最後の一節だけが有名になり、広くいろいろな分野で活躍するために故郷を出ると拡大解釈されるようになりました。

最近、Face Book の上で交流している方々は日本の故郷を遠く離れて何年も異国に住んでいらっしゃいます。
そのような方々が故郷の日本のことを懐かしく思うのは大変有難いことです。そして現在住んでいるところを愛しお墓も作ろうと決心していることに感動します。私はそのような人を尊敬します。
外国に住む日本人はそれぞれの理由があるのでしょう。しかし住んでいる土地を愛し、その国の土になるという決心は崇高なものと思います。
勿論、その逆も場合もあります。日本に帰化して日本の土になった外国人も数人知っています。時々そのような方の墓参りに行きます。何故か感動します。理由は分かりません。
今日の挿絵の写真はフランスとインドとオランダの風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目のアルプス地方の風景写真の出典は、http://www.v3wall.com/ja/html/pic_down/1680_1050/pic_down_33070_1680_1050.html です。

2番目のインドの農村の風景写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/samberasam51/23670410.html です。

3番目のオランダの風景写真の出典は、http://sayaka007.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html です。
=====参考資料================
月性:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%80%A7
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。
安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。 安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。

発達障害は精神病でなく脳の機能障害、間違った対応が不幸を作る

2017年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「見えない障害のために転職を繰り返す人とその周りの方に贈る書」という記事を掲載しました。
この記事では子供達の脳の種々の機能の発達障害を知らないで、精神の問題と間違ってしまう場合が多いと指摘しました。その結果、間違った対応をして不幸を招くことが多いのです。すなはち脳の発達にハンディキャップがあるのに精神の問題だと間違うのです。
昨日の記事の目的は脳の機能の発達障害としての自閉症スペクトグラムの症状を正しく理解して貰い、不必要な不幸を絶対に避けることを目的にしていました。
昨日の記事は非常に重要な問題を取り上げているので、再び考えてみたいと思います。

昨日の記事では以下のような文章があります。
・・・この障害は精神の障害と思われがちですが、実際には脳の機能障害だそうです。障害という言葉を使うことには迷いがありますが、持って生まれた特質や、傾向が社会の中で生きていくのに困難となる場合(社会参加ができない場合)、障害と呼ばれます。発達障害の種類については現在の分類は私にはよく分かりません。20年前に広汎性発達障害とか、アスペルガー症候群と呼ばれていたものを最近は自閉症スペクトラムと呼ぶようです。これらが自閉症の連続の中にあると分かってきたからでしょう。・・・

・・・症状ですが、集団になじめないことこそが端的にアスペルガー症候群の特徴のようでした。アスペルガー症候群または自閉症スペクトラムとひとくくりに言っても、ひとりひとりは実に様々な人間像を持っていて、共通項は何かというと、はっきりしているのは、人間関係の困難を抱えていること、こだわりが強い(こだわりの対象は個々違うのですが)ことの2つのような気がします。体力も、能力も、性格も様々で、その辺に共通項はないように思いますが、ただこだわりが強い分、神経質で、好みの許容範囲が狭い気がしますし、神経が耐えない場面では疲れやすく苛立ちやすいように見えます。2つの特徴以外にもこの障害の特徴とされることはいくつもありますが、現れ方に違いや差があって分かりづらいこともあるので専門家でない私が説明をすることはできません。・・・

簡単に言ってしまえば家族以外の他人と良い関係が作れない。知的に優れている場合には「こだわり」が強いので仕事を任せれば立派な成果を上げることがある。

こんな人を見つけたらつい説教したくなるものです。
「もっと社交的に振る舞え!」とか「この世では協調性が重要なのだよ。協調性は相手の考えを想像すれば自然に生まれるものだ! 努力が足りなのだ!」とか「努力が出来ないのは意志薄弱なのだ」というような説教をする人が多いのです。特に学校の先生や職場の上司はこのような指導をします。
このような説教を、自閉症スペクトラムの生徒や部下にしても、それを行う脳の機能が無いので絶対無理なのです。無理なことを強要する先生や上司は悪魔のように見えます。人間関係が最悪になります。その結果、不登校や転職をすることになります。本人も周囲の人もみんな不幸になるのです。

説教は禁物だとしたらどのような対応が良いのでしょうか?
昨日の記事の以下の分部がその答えです。
・・・・息子に「この障害を持つ子供に対して親や家族は何ができるかしら」と聞いてみたことがあります。返ってきた言葉は「愛すること」でした。親や家族の愛情が伝わって、安心して子供が育つことの大切さを親は強く自覚しなければと思います。障害のあるなしにかかわらずですが… 発達障害などを抱えている子どもは、独特の生理的感覚、感じ方や考え方を持っていて、悪意はないのですが、振舞いが普通とは違い、他の人との距離感が分からずに行動することが多いので、子どもの頃から叱られたり、非難されたり、苛められることが多くなりがちです。そういう状況が長く続くと、自分は不出来な人間だと思い込み、追い詰められ、意欲を失うことにつながります。そのまま成人すると社会参加が難しくなります。
息子にさらに「愛するってどういうこと?」と聞くと「信じて待つこと」という答えでした。社会性の発達の遅い彼等ですが、彼等はゆっくり考え、学び、成長しているのです。その成長を信じて待つことが大切だと思いました。息子は、「当人の基準と普通と言われる基準との差があるために、違いを理解するのに時間が必要になる。普通との違いから人間関係が不通になり、人間関係を学ぶ機会が少なくなる。結果として社会における在り方、社会性の習得が遅くなる。」と分析しています。
私は愛され、信頼された人間が、愛され、信頼される人間に、そして人を愛し、信じる人間になるのだと思っています。どの親も成人する前に、社会に出ていく最低限の力をつけてやりたいと思うのですが、思い通りになるとは限りません。そんな時も、親は世間の常識の方を向くのでなく、子どもが自分らしく生きることを時間をかけて応援してやりたいものです。

職場の対処はどうでしょうか。対処の仕方によって、社会参加の成否が決まることは確かです。今では受け入れ態勢の整った会社ではジョブコーチを置いて、発達障害の特徴をわかったうえで指導しているところもあるようです。ただ、皆が恵まれた環境で働けるわけではないし、どんなに善意で指導しても、うまく行く場合と、そうでない場合はあるでしょう。障害者の指導をするのも大事ですが、一般の人達にこのような障害があること、どのような弱点があり、どのような長所があるという説明(職場教育)をすること、そして許容性のある職場づくりをすることが効果的ではないかと私は思います。障害者がいるいないにかかわらず、日本の社会は学校も職場も許容性という意味では狭い社会のような気がします。・・・

以上を要約します。
家族は発達障害の子供を強く気長に愛することです。母親の愛情が状況を良い方向へ変えるのです。
職場ではその人の才能を信じ、仕事をまかせ、仕事の仕方に干渉しないことです。職場での団結や協調性の強要は絶対に禁物なのです。

昨日の記事にはもっと他にも重要な点がありますが、今日はこの位にしておきます。
今日のさしえ代わりの写真は近所のナンジャモンジャの並木の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









見えない障害のために転職を繰り返す人とその周りの方に贈る書

2017年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
Esu Keiさんの息子さんはフランスの小学校で飛び級をするほど優秀な子でした。
帰国し、日本の学校に転校したら協調性が無いとの理由でうまくいきませんでした。成人してからも社会になじめなくて苦悩します。
ところがよく診断して貰うと生まれつきの隠れた障害を持っていたのです。自閉症スペクトラムという一種の発達障害だったのです。
学校を卒業して就職する人の一部には転職を繰り返す人がいます。転職をしても上司や周りの人と適切な人間関係がどうしても出来ないのです。
このような人々の一部には、本人も周囲の人も気がついていない隠れた発達障害を持っている可能性があるのです。
そのことを自覚し、周囲の人がそれを知ればその弊害が軽くなり、みんなが幸せになれるのです。

今日はこの自閉症スペクトラムをよく理解して貰うために簡明な説明文をお送りいたします。
転職を繰り返す人とその周囲の人々に幸多かれと願いつつ贈る書です。
自閉症スペクトラムの息子さんを育てた母、Esu Keiさんと私、Gotoとの対談形式として以下をお送りいたします。
なおEsu Keiさんは連載記事「パリの寸描、その哀歓」の著者です。今日の記事に関連したEsu Keiさんの書いた記事の題目と掲載月日を末尾につけてあります。合わせてお読み頂けたら、より一層明快にいきさつが分かると思います。

====『Esu KeiさんとGotoとの対談:発達障害について』=========
Esu 最近私が書いた文章の中で、長男の発達障害に触れたものですから、それはどんな障害なのかというご質問をいただきました。右往左往して模索した経験で、お答えできることをお話ししたいと思います。私は専門家ではありませんから、広い知識を持っているわけではありませんが、一人の子どもを長く深く見てきたという意味で母親として、また、たくさんの同じ仲間と触れ合ってきた経験者としてお答えできることがあると思っています。ただ私の主観的な考えであるということはお断りしておきます。

Gotoテレビなどでも発達障害という言葉を時々聞きますね。どんな障害なのですか?いろいろな種類があるのですか?

Esu この障害は精神の障害と思われがちですが、実際には脳の機能障害だそうです。障害という言葉を使うことには迷いがありますが、持って生まれた特質や、傾向が社会の中で生きていくのに困難となる場合(社会参加ができない場合)、障害と呼ばれます。発達障害の種類については現在の分類は私にはよく分かりません。20年前に広汎性発達障害とか、アスペルガー症候群と呼ばれていたものを最近は自閉症スペクトラムと呼ぶようです。これらが自閉症の連続の中にあると分かってきたからでしょう。

Goto 息子さんの発達障害はなんという障害ですか?症状などは?プライバシーの問題がない範囲で聞かせてください。

Esu 息子もこのインタビューを承知していますし、自分のことを知ってもらうことに意味があると思っているようです。彼は中学入学前までは、主に外国で育っていましたが、10歳で日本人学校に移って以来、集団に全くなじめず、苛めやいろいろな問題が起きて、成人するまでにすっかり意欲を失っていました。長男がアスペルガー症候群と診断されたのは26~27歳くらいの時でした。その3年前くらいに、テレビのドキュメンタリー番組を見たのがきっかけで、アメリカから平易な文体で書かれた本を取り寄せたりして、私は自閉症を疑いました。ただ幼いころから言葉の発達が非常に早かったので、そういう例外的な自閉症もあるのかもしれないと思っていました。
症状ですが、集団になじめないことこそが端的にアスペルガー症候群の特徴のようでした。アスペルガー症候群または自閉症スペクトラムとひとくくりに言っても、ひとりひとりは実に様々な人間像を持っていて、共通項は何かというと、はっきりしているのは、人間関係の困難を抱えていること、こだわりが強い(こだわりの対象は個々違うのですが)ことの2つのような気がします。体力も、能力も、性格も様々で、その辺に共通項はないように思いますが、ただこだわりが強い分、神経質で、好みの許容範囲が狭い気がしますし、神経が耐えない場面では疲れやすく苛立ちやすいように見えます。2つの特徴以外にもこの障害の特徴とされることはいくつもありますが、現れ方に違いや差があって分かりづらいこともあるので専門家でない私が説明をすることはできません。

Goto 適切な診断医はどうしたらみつかるのでしょう。

Esu 今では発達障害の専門医も増えているし、専門外の医師でも少なくともこの障害を知
らないということはありませんから、20年前に比べればずっと早く診断がつくようになっていると思います。最初は相談センターや互助組織などが窓口になってくれるのではないでしょうか。ただ、特に精神に関することですから、当人と相性のいい先生に出会えることが大事だと思います。早く障害が分かって、適切な対処ができることは、本人が無用に苦しまないためにも、将来の二次障害を防ぐためにも大変重要だと思います。息子の場合もそうでしたが、20年位前までは成人してから障害が分かる人が多かったのです。目に見えない障害で、知的障害もないと分かりにくく、今でも、成人してから障害が分かる場合もあります。以前は軽度発達障害などと呼ばれていましたが、本人の抱える困難は軽度どころではなく、積み重なった分だけ重い障害になることもあります。そういう人にも丁寧に対応できる医師やセラピストが増えることを切望します。

Goto 障害がわかったら家族は何ができるでしょうか?職場はどのように対処できるでしょうか?

Esu まず言いたいことは、障害という名前に驚いてはいけないということです。“良し悪しは抜きに、普通と違うところを持っている”と考えた方が良いと思います。実際、特別なセンスや才能を持っている人は多いものです。彼らのユニークなところが生かせるように応援するのが家族です。それはどんな障害でも同じです。息子に「この障害を持つ子供に対して親や家族は何ができるかしら」と聞いてみたことがあります。返ってきた言葉は「愛すること」でした。親や家族の愛情が伝わって、安心して子供が育つことの大切さを親は強く自覚しなければと思います。障害のあるなしにかかわらずですが… 発達障害などを抱えている子どもは、独特の生理的感覚、感じ方や考え方を持っていて、悪意はないのですが、振舞いが普通とは違い、他の人との距離感が分からずに行動することが多いので、子どもの頃から叱られたり、非難されたり、苛められることが多くなりがちです。そういう状況が長く続くと、自分は不出来な人間だと思い込み、追い詰められ、意欲を失うことにつながります。そのまま成人すると社会参加が難しくなります。
息子にさらに「愛するってどういうこと?」と聞くと「信じて待つこと」という答えでした。社会性の発達の遅い彼等ですが、彼等はゆっくり考え、学び、成長しているのです。その成長を信じて待つことが大切だと思いました。息子は、「当人の基準と普通と言われる基準との差があるために、違いを理解するのに時間が必要になる。普通との違いから人間関係が不通になり、人間関係を学ぶ機会が少なくなる。結果として社会における在り方、社会性の習得が遅くなる。」と分析しています。
私は愛され、信頼された人間が、愛され、信頼される人間に、そして人を愛し、信じる人間になるのだと思っています。どの親も成人する前に、社会に出ていく最低限の力をつけてやりたいと思うのですが、思い通りになるとは限りません。そんな時も、親は世間の常識の方を向くのでなく、子どもが自分らしく生きることを時間をかけて応援してやりたいものです。
職場の対処はどうでしょうか。対処の仕方によって、社会参加の成否が決まることは確かです。今では受け入れ態勢の整った会社ではジョブコーチを置いて、発達障害の特徴をわかったうえで指導しているところもあるようです。ただ、皆が恵まれた環境で働けるわけではないし、どんなに善意で指導しても、うまく行く場合と、そうでない場合はあるでしょう。障害者の指導をするのも大事ですが、一般の人達にこのような障害があること、どのような弱点があり、どのような長所があるという説明(職場教育)をすること、そして許容性のある職場づくりをすることが効果的ではないかと私は思います。障害者がいるいないにかかわらず、日本の社会は学校も職場も許容性という意味では狭い社会のような気がします。

Goto 治療は難しいようですが、本人の才能を生かす方法が絶対にあると思います。職業によって向き不向きはあるでしょうね?どんなことが向いていますか?

Esu Gotoさんがおっしゃる治療という意味ですが… この障害を治すことは多分できないでしょうし、治してはいけないと思います。その人らしさを失わせると思うのです…
ただ、生きやすくする工夫はできると思います。二次的に鬱状態、強迫神経症、不安神経症、そのほか病的な状態が出てきたときには早く気付いて治療が必要でしょうし、精神科医はその病的状態を治す方法を持っていると思います。ただ、何よりも家庭や、学校、職場で受け入れられることによって病的な状態が起きないことが一番いいのです。良い環境がなければ医療も生きないと思います。
職業の適性ですが、こだわりの強さはこの障害の特徴ですが、それは集中の強さと持続につながります。一方で複雑な人間関係は苦手な人が多いですから、一人で、あるいは相性の合う小人数の中で働ける場があるといいと思います。障害の特性を生かして充実したジョブライフを楽しんでいる人もいます。人と同じ能率を求められるような仕事より、その人ならではのこだわりとか、正確さや綿密さなどが生きる仕事に出会えるといいと思います。親は成人する頃までの自立に目安を置きますが、難しい場合も多く、焦らずにゆっくり自分の道を探した方が良いと思います。世間体や経済的なことにこだわらず、「我が道を行く」でいいのではないかと私は考えています。
この障害は才能でもあります。学者、作家、作曲家、画家、芸人の中にもこのような障害特性を持った人達は少なくありません。こういう人達がいないと、発明、発見、創造の世界は今ほど豊かではなかったのではないでしょうか。自分の子どもは障害を持っているけれど才能はないなどと卑下することはないと思います。たまたま特異なところを世の中で認められると、天才と呼びますが、才能として気付かれなければ、障害者と呼ぶのが世の中です。みんな宝物を持っているのではないでしょうか。神様の目から見れば同じものではないでしょうか。
最後に息子達の言葉を引用させてください。
次男は20年以上料理人として働いていましたが、後輩の指導も仕事のうちでした。ある時期務めていたレストランでは障害者雇用の枠で発達障害の人たちが入ってきたことがあったそうです。「最初は本当に何もできなくて、大丈夫かと思ったけれど、できないことは時間もいとわず黙々と練習し、気が付くと思ってもみなかったような丁寧ないい仕事をしてくれるんだ。すごいことだね。」と彼等の真面目で妥協のない働きに感心しきりでした。
発達障害のある長男は知的障害のある人達のサポートの手伝いをしていますが、その支援団体の会報に、どのように当事者に向き合っているかを問われて書いた長男の文章が載っていました。「彼等に期待します。期待されてやってみて、もし失敗したら、失敗しても大丈夫と言ってあげます」期待されることで能力は伸び、失敗することも次の段階への足掛かりになることを言っているのです。そして、「彼等も僕も発展途上です」と結んでいました。

Gotoさんのご質問に十分にお答えできたかどうか自信がありませんが、発達障害に関心をお寄せくださって有難うございます。感謝しております。障害が理解されるということが、障害を持つ人達が社会参加できるようになるカギだと思うのです。どんな障害であれ、障害を持つ人が幸福な社会は、障害のない人にも幸福な社会です。息子からもう一言ありました。「社会に障害といわれる特異性を理解し、生かす力があれば、障害は障害でなくなり、社会的損失も少なくなる。」
==========================================
以下は上記の記事内容に関連のある連載記事です。あわせてお読みください。

1)「やはり日本の学校教育には問題がある」
2017年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
===「パリの寸描、その哀歓(14)外国人クラスの問題児のその後」Esu Kei著====

2)「パリの寸描、その哀歓(13)問題児の教育法と息子の飛び級」
2017年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
「パリの寸描、その哀歓(13)外国人クラスの問題児」Esu Kei著

3)「パリの寸描、その哀歓(12)規則に反して給食を申し込む」
2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

4)「パリの寸描、その哀歓(11)フランスのエリート教育の光と影」
2017年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
===「パリの寸描、その哀歓(11)進級、落第、飛び級」Esu Kei著======

今日の挿し絵代わりの写真は神奈川県の道志川上流で嬉々として遊んでいる子供達の写真です。先日、撮ってきました。この子供達も幸せに育つように祈りつつお送りいたします。





世界の戦争(4)北朝鮮のアメリカへの憎悪の原因とその戦略

2017年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載記事の前回は、『世界の戦争(3)朝鮮戦争以来の米国の北朝鮮への憎しみ』というもので、5月4日 に掲載しました。
何故、アメリカはカール・ヴィンソン航空母艦打撃艦隊を日本海へ送って、北朝鮮に武力的な威圧を行っているのでしょうか?
答は北朝鮮とアメリカは朝鮮戦争以来ずっと戦争状態が続いているからです。
アメリカは北朝鮮と1950年から1953年まで大戦争をしたのです。この朝鮮戦争以来、北朝鮮とは戦争状態を続けているのです。停戦協定はあるのですが、北朝鮮はその停戦協定を度々破り韓国を攻撃しているのです。
その上、北朝鮮はアメリカを悪の帝国主義国家と公言し、あしざまに誹謗する発言を執拗に繰り返しているのです。
前回は以下のような順序で、この戦争の概略を説明しました。
(2)開戦から休戦協定までの経緯
(3)何故、国連軍と北朝鮮・中国連合軍との大戦争になってしまったか?
(4)朝鮮戦争による双方の人的損害
そして現在、北朝鮮は敵対姿勢を崩さずに核兵器を開発し、アメリカ本土攻撃用の長距離弾道ミサイルの開発もしているのです。
これが前回の記事の概要でした。

さて、この記事を読んだ友人の、でいしゅうさんという方から次のようなコメントが来たのです。
『失礼ながら、この解説記事はあまりにもアメリカ寄りですね。歴史を一方的な視点でのみ見る事は良くありません。場合によっては強者の提灯持ちになります。』
このコメントはもっともなコメントです。日米安保体制を受け入れている日本の人間として、私は無意識のうちにアメリカの立場を擁護するような筆致になっていたのです。
そこで今日は北朝鮮の立場になってアメリカを憎む原因を考えて見たいと思います。そしてアメリカに対する北朝鮮の言い分と戦略も考えてみたいと思います。
しかし感情的な議論を避けるために、まず北朝鮮の人々の暮らしぶりの現状を写真で示したいと存じます。

(1)北朝鮮の人々の暮らしぶりの現状の写真
そのような写真をいろいろ探しました。そうしたら砂子間正貫さんが2017年2月27日に発表した、『実話、5年前「北朝鮮」に行ったときの話』という記事を見つけました。URLは、http://rocketnews24.com/2017/02/27/866783/2/ です。
以下はこの記事からお借りした平壌市の人々の日常の様子です。

1番目の写真は平壌市の地下鉄の駅の光景です。地下鉄は「核シェルター」としての役割もあるらしく深さは平均90m、ざっと大江戸線の倍以上といった感じだそうです。彼が利用した「復興駅」は、地上からホームまで1本のエスカレーターで約3分かかったそうです。
この写真には実にいろいろな人が写っています。日本とあまり変わらない様子です。

2番目の写真は地下鉄の車内風景です。人々はくつろいだ様子でボンヤリしています。

3番目の写真は街路で見た母子の写真です。サッカーの練習に行く息子と若い母が並んで歩いています。右の若い女は日焼けを防ぐ日傘をさしています。

4番目の写真は道端にしゃがんでお喋りを楽しんでいる中年のおばさん達です。このように「しゃがむ」のは古い朝鮮文化のようです。韓国の街路ではもう見かけられません。

5番目の写真はカラオケ会場で見かけた美人のようです。制服をきているので係員かもしれません。この2人の表情をよく見ると、昔の日本女性に見られた素直さ、そして美しさがあると感じました。
そして砂子間正貫さんが書いています。『北朝鮮がヤバイ国なのは知っているが、出会った彼らまでは嫌いになれない……偏った思想に違和感を覚えることはあったが「カラオケの時に必死に高音を出そうとする姿」などは、正直私たちと何も変わらないとも思った。彼らは今も元気に暮らしているのだろうか……どのような人生を送っているのだろうか? 北朝鮮の人々がもっともっと平和な生活ができることを願っている。』

(2)北朝鮮は何故アメリカを憎悪しているのか?

戦後に北朝鮮と韓国の2つが建国されましたが、南北の軍事バランスは北朝鮮が優勢だったのです。朝鮮戦争の初戦は北朝鮮が優勢で、韓国、アメリカ軍を釜山まで追い詰め、完全勝利の状況に至ります。これで朝鮮半島の全土が北朝鮮の共産党の支配下になる筈でした。
ところがアメリ軍が突然、朝鮮半島の北部にある仁川に奇襲上陸し、北朝鮮軍の補給路を完全に分断します。
その結果、北朝鮮軍は一旦、壊滅したのです。
仁川上陸で勢いのついた米韓軍は38度線を越え、中国との国境の鴨緑江まで進撃したのです。この事態を受け、中国人民義勇軍が人海戦術で米韓軍を押し返したのです。そのおかげで朝鮮半島の北半分を北朝鮮が確保できたのです。
アメリカさえ参戦しなかったら朝鮮半島の全土が北朝鮮のものになったのです。そのアメリカへ対する怨念が現在まで続いているのです。
朝鮮戦争が停戦したのが1953年です。それから64年経過してもこの怨念が消えないのは北朝鮮が金一族の世襲による独裁政治のためなのです。その考察は今日は省略します。

(3)北朝鮮が核兵器、長距離ミサイルの開発をする理由

北朝鮮はアメリカの武力行使を恐れています。一旦アメリカが攻撃してきたら北朝鮮は壊滅する可能性があります。それを防止する唯一つの方法は核兵器を実戦配備し、長距離ミサイルでアメリカ本土を攻撃することです。
長年の盟友だったソ連が崩壊し、残る中国も最近は北朝鮮から離れようとしています。北朝鮮は孤立無援になりつつあるのです。
このような状況では核兵器、長距離ミサイルの開発を急がなければなりません。
アメリカが脅すなら核兵器の開発を秘密裡に静かに実行するだけです。
平壌市の地下鉄の駅を地下90mに作り、アメリカとの核戦争の準備は出来ています。北朝鮮は必ず核武装してアメリカに対抗します。
以上が彼等の外交方針なのです。外交交渉によらずに自国を守ろうとしているのです。

北朝鮮は勝手に日本人を拉致しました。許すわけにはいきません。
しかし彼等は日本統治時代に日本が朝鮮人を勝手に連行したという誤解を真実と信じているのかも知れません。
このようにグローバル化した地球上でこれほど孤立した国家が存在しているのです。今日は彼等の言い分を想像して書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今年もジャーマンアイリスの花が咲きました

2017年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今年もジャーマンアイリスの花が庭に咲きました。
もう何年も以前に近所の上品な老婦人に頂いた花です。

ある秋の日に近所の数寄屋風の家の前を通りかかるとナナカマドが見事に紅葉しています。庭にいたご夫婦に挨拶し写真を撮らせて頂きました。その後家内が数枚の写真をお届けしてお話を伺ったそうです。間もなくご主人が亡くなり、残ったご婦人と家内が文学の会で随分と長いお付き合いをしていました。旅に出ると、かならずお土産を届けてくれるのです。
何というか貴婦人のような方なのです。綺麗な声音で言葉が美しくて、何時も姿勢が良いのです。かなりの高齢でしたが顔が美しく輝いているのです。
音楽や絵画のご趣味が豊かで、何にでも好奇心を持っていらっしゃると家内はとても尊敬しておりました。
私は家内ととても仲の良い友人になってくれたことに感謝していました。時々会うたびに、こういう女性を貴婦人と言うのだなと思っていたのです。
その方が亡くなっててから、もう7年近くなるでしょうか。頂いたジャーマンアイリスが今年も庭に咲きました。
亡くなったあの方があの世から我々に微笑んでいるようです。

1番目の写真がそのご婦人から頂いたジャーマンアイリスです。

2番目のこのような花が年々歳々,10輪ほど咲きます。

このような色のアイリスだけでは淋しいと思われる方がいるかも知れません。そこで毎年写真を撮りに行くアイリスの畑の写真もお送りいたします。

3番目の写真は白いアイリスの花です。

4番目の濃い紫と白色が美しいアイリスの花です。

5番目の花はその花畑に初めて植えてあった珍しいクレマチスという花です。

このように庭にはいろいろな思い出に繋がった花が幾つかあります。
庭は良いものですが、一方では雑草を取ったり庭木の枝を切ったりの労働が次第に出来なくなります。
皆様の庭にはそのような花がありますでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、ミサに出る、レオナール・藤田の洗礼を想う」

2017年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので何時ものようにミサに行きました。教会では晩年に妻と一緒にカトリックの洗礼を受けた藤田嗣二のことをいろいろ考えました。
戦争画を描き、率先して大東亜戦争に協力した彼は、戦後、フランスに逃れ、帰化します。そして洗礼を受け、「平和の聖母礼拝堂」を完成したのです。キリスト教は愛の宗教です。主の平和を大切にします。勿論、戦争はいけません。

藤田嗣二は日本の戦争に協力したことを後悔していたに相違ありません。平和こそ一番重要だと悟ったのです。ですから「平和の聖母礼拝堂」という名前を付けたのでしょう。
レオナール・フジタに主の平和がありますようにお祈りしました。

今日は彼の大作、『秋田の行事』をご紹介いたします。ニックネームさんという何事にも博識な方に教えて頂いた絵画の大作です。
1936(昭和11)年7月に平野政吉が建設構想を打ち出した美術館の壁を飾るため、翌年の1937(昭和12)年に制作された作品です。
藤田は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を描くことを意図し、約半年間、頻繁に秋田を訪れ取材を重ねました。
平野邸のあった外町に視座を据え、外町から眺望した「秋田」を描き出したのです。秋田の祭りと祈り、暮らし、産業、歴史が、祝祭と日常の対比のなかに、色彩豊かに展開する壮大な壁画です。
秋田県立美術館の新美術館の狭い部屋に展示してあるそうです。









日本に絶対入らないアメリカの精神文化

2017年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
風薫る皐月になりましたね。今日は日本に絶対入らないアメリカのものについて書いてみたいと思います。
戦後72年、気がついてみたら日本はアメリカ文化に浸かってしまっています。
コンビニは全国の津々浦々にあります。その数、7万店舗以上になると言います。スーパーもマックやケンタやスタバのようなアメリカ発症の店もきめ細かく全国に普及しています。
郊外の大型量販店もアメリカ発祥の文化です。この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てアメリカ製なのです。 こうしてキーボードを叩いているパーソナル・コンピューターもアメリカ発祥のアメリカ文化の産物です。
戦争に負けた日本がアメリカに憲法を押し付けられ、民主化をして政治の分野でアメリカ文化に従ったのは随分昔の話です。
しかしその後も連綿としてアメリカ文化が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。気がついてみると生活を便利にするアメリカのものは全て日本を占領してしまっているのです。
こういう状況ではアメリカ文化が日本にすべて導入されたと考えられがちです。
しかしこの考え方には非常に大きな間違いがあるのです。
アメリカ文化のなかに日本には絶対に入らないものがあるのです。
それはアメリカ人の宗教に対する考え方です。アメリカの文化の特徴といえば進歩しつつある科学や技術の他にキリスト教に対する強い信仰があることです。日本にはアメリカの科学や技術は間髪を入れずに導入されて来ましたが、アメリカ人の80%が信じているキリスト教は日本へ全然入ってきません。まあ、厳密に言えば日本人の3%はキリスト教を信じていますから、全然入って来ませんと言えば間違いではありますが。
アメリカ社会における人間関係にはその下敷きにキリスト教への信仰があるのです。
アメリカは弱肉強食の社会で、貧富の差が大きいので人間関係は殺伐としていると誤解しがちです。しかしアメリカに暮らしてみると助け合いの精神が溢れていて、実に暖かい人間関係があるのです。殺伐とした社会というより人間的で温かい社会なのです。
ですからアメリカ文化を万遍無く公平に理解しようとしたら彼らのキリスト教への帰依を理解しなければなりません。
勿論、アメリカにはイスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も数多くいます。
しかし話を簡明にするために今日はキリスト教だけを取り上げます。
それではアメリカのキリスト教はどのようなものでしょうか?
カトリック教徒も多いのですが、アメリカの特徴はいろいろなプロテスタント宗派が乱立していることです。理解しがたいような教理論争が延々と続いているのがアメリカの特徴です。
しかしその宗派の多くは福音主義なのです。
ですからアメリカ人は以下のことを単純に信じ切っていて疑いません。
1、聖書の霊感と無謬性(旧約聖書も新約聖書も間違っていない)
2、キリストの処女降誕(キリストは処女マリア様から生まれた)
3、キリストの贖罪(キリストは全ての人間の罪の解消のために十字架につけられ死んだ)
4、体の復活(キリストも全ての死者も何時かは生き返ってくる)
5、数々の奇蹟物語(水上歩行、水を葡萄酒に変えたなど数々の奇蹟話)

さてここで皆さまにお聞きしたいのです。日本人は上にかいた5つのことを信じられますか?
まず無理でしょう。日本人の3%だけが信じているのです。
ですからこそアメリカ文化のうち、これだけが日本に導入されていないのです。彼らの精神文化のキリスト教だけは日本へ導入されていないのです。
よくアメリカには物質文明はあるが精神文化が無いといいます。これは大変な間違いです。
正しくは「日本人の理解出来ない精神文化がある」と言い直すべきです。
私自身はカトリックです。しかし般若心経や大悲心陀羅尼経が大好きです。キリスト教と仏教のバイリンガルのようなものです。ですからアメリカの精神文化もある程度理解出来ます。
アメリカ文化がこんなに溢れている日本ですが、絶対にアメリカから入って来ないものもあるのです。
日米関係を深く考えるとき、このアメリカ特有の精神文化を無視すると間違いをおかすのではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は阿片の取れない無害なヒナゲシの花の写真です。都立薬草植物園で撮りました。