今日の連載記事の前の掲載記事は次の通りです。
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」、2017年04月22日
平峰 盛敏 著、「ブラジル生活あれこれ(2) ブラジルは左傾反米思想」、2017年04月29日
あわせてお楽しみ下さい。
=============================================
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(3)19歳で日本からコチア産業組合の契約移民になる」
(1) コチア産業組合の歴史
ブラジルに日本移民が1929 年に創立したコチア産業組合 と言うマンモス組合がありました。最盛期には、南米で 一番大きい産業組合でした。 その組合が、後継者不足を解決する目的で考えたのが、『コチア農業組合単独青年移民企画』だったのです。
19歳だった私は、1962年その組合と雇用契約をしたのです。そしてブラジルに渡ったのです。
コチア産業組合は、1929 年、サンパウロ市 から 27 kmの場所で創立しました。
83人の ジャガイモ栽培者が日本総領事館の後押しで作った農業組合でした。
その年は笠戸丸で、781人の 第一回日本集団移民が始まってから、21年経っていました。
日本国立図書館が掲載している "移民100年の 歩み" と言うコラムに、次ような 説明文が、載っています。
『日本人集団地に続々と農協が誕生したのは1920年代後半から1930年代にかけてで、在サンパウロ総領事館が日本の産業組合をモデルにして補助金を交付して設立を奨励したことによるものである。』
コチア産組の創立から数えて67年後、1996年に毎月物価が倍加する厳しいインフレと、それが 原因で現れた深刻な不景気に、ブラジル国民は、喘いでいました。加えて、全盛期に培われた楽観的で大雑把な運営方針が不幸な相乗効果を出してコチア農協はつぶれてしまいした。本当に惜しんでも惜しみ切れない心残りのある経緯でした。残念でたまりません。
(2)コチア産業組合の仕事は徒弟制度
日本史で、徒弟制度と言うものを教わりました。 その良いところは、少年、青年に、誠実勤勉にあらゆることを修得しようと思わせることです。
親方の言う通り熱心に仕事をすれば必ず親方のように一軒構えられる日が来ると云う夢があるのです。
それは修行に励み自主啓発させる制度なのです。
この徒弟制度にも悪い側面がいろいろありますが、私はそれを考えないことにしました。
私がブラジルへ行ける手段としたコチア青年移民は僅か四年間の就労でした。
それはプランテーション方式の大型農家になれるという夢を与えてくれました。
徒弟制度に似ている運営だったのです。
(3)深慮が足りなかった私の若さと農作業の体験
10才で 父を失いましたが、私の学校の成績は良かったのです。
教えられる事を誰よりも早く習得して、よく誉められました。
ですから私は自分の描いた夢は容易に実現すると信じていました。
今思うと、かわいそうな先の見えない馬鹿者だったらしいのです。
移民の実態と自分の将来をじっくり考えるべきでした。それは深慮が足りなかった私の若さでした。
ブラジルの情勢を検討して、そこで何をするかを慎重に決めてから来た人もいました。
そういう人は大陸国ブラジルに相応しい、ビックリするような大型な成功者になっています。
四年間の契約就労後、親方のやり方を踏襲して成功した人もいます。そして、他の特技を発揮した人もいます。
太平洋を渡る旅の間はブラジルでの成功を夢見て、45日間、船の上で過ごしました。
それほどの長い期間、なんの仕事もせず過ごしたことはその後一回もありません。 良い思い出です。
乗組員が、運動会とか 、盆躍りとか、色々退屈しない工夫をしてくれました。 パナマ運河通過時熱帯樹林の異様さを目の当たりにして、こんな処で生きていけるかなと少々不安になりました。
でもサンパウロの高原に来た時、そこの草木の風情が、祖国で、見慣れた通りだったので、不安が消えました。
私の配属された組合員の親方の処には既に三人のコチア青年移民がおりました。
受け入れ先は、皆私たちより30年程前にブラジルに来て、大きな借地耕作をしておりました。彼等は『成功者』とよばれるジャガイモ栽培専門家達でした。
私達、青年の仕事はジャガイモの栽培でした。その収穫期には重労働になります。
(4)親方の末娘の優しさに淡い恋心を感じる
今思うと、親方の 末娘さんは美しい人でした。私が同じ家に先輩達と一緒に住むことになってから何時も、ニコニコ、親切に、話し掛けてくれました。
当時、特に気に掛けてくれた事があった事を思い出して、今、その真心に感謝を捧げます。私は馬鹿者であっても青年としての魅力があったのでしょうか。
一週間もしないうちに親方はそれに気がついたのです。
彼は私が 日本に 新妻を置いて来ていることを皆に言ったのです。
そしてそのお嬢さんの淡い恋はかげろうの様に終わりました。
親方はすぐに私の妻と母親を、呼び寄せる手続きをするように言ったのです。
そして日本から来た母と妻と私の三人は親方の下で働くことになりました。
今思い返してみると、それは有難い親方の大きな親心でした。
(5)ジャガイモの収穫と販売の難しさ
ジャガイモは、ブラジルの食卓に欠かせない食べ物ですが、収穫してからあまり長く保管出来ません。
自分達が植え付けた時期に、他の沢山の農家も植え付けると、生産過剰で値段が下落します。
折角万全の注意を払って肥やしを施し、害虫を駆除し日照りには灌水して育てたつやつやした美しい美味しいジャガイモが酷く安くなってしまうのです。経費が出ません。 首が回りません。私の就業後、三年未満で、私共の親方は経営が行き詰まりました。
それで、少しのお金をいただいて私共は失業したのです。
今思えばあの時、大農家になる夢を追うなら、親方と話し合って組合に交渉すべき筋合いだったのです。 しかし私たちは異国の空でも何とかなるだろうという楽観主義者ばかりでした。
(6)ブラジルにあった日本企業に就職、そして生涯の友人
その頃、私は、ホンダオートバイの ブラジル支社に部品を納める製作会社で通訳として就職しました。
組合の親方が破産しても何も残らなかった訳ではありません。生涯の友人が出来たのです。
あの時、別々の道に進んだ同僚の中の一人で、家族同士で一生付き合っている友人が出来たのです。
その友人は少し年上の先輩でした。
その親友が最近三千キロの距離を飛んで遊びに来てくれたのです。それは18年振りの会合でした。
私は近所の名勝地を紹介をしながら三日間歓談しました。
彼の一言一句から、移民の苦労から生まれた意地の強さ、相互尊敬、深い思いやり等々が感じられるのです。
それと自分の子供達が、現地人と色々な違いが有るので、批判されたり苛めに会いながら育ったことも話し合いました。
それでも子供達は割り切ってこだわりの無い大人に成長しました。彼等が『国際人』である事に誇りを感じます。
日本とブラジルの両方の良い面を生かせる方向へ進んでいるようすを確認し合ったのです。
それこそが最高の宝であると結論し合いました。
あの親方のお嬢さんは後に大きな牧場主と結婚し、裕福に暮らしているという事もこの親友から聞きました。
(7)昔の組合のメンバーが花栽培で大成功
サンパウロ市に、サンパウロ新聞という日本語新聞があります。そのコラムにコチア青年移民 60年記念の事を載せています。
コチア青年移民の一人が、ブラジル一番の大都市、サンパウロの近郊で花の栽培を専門的本格的に始めました。それが花だけの専門企業のブラジルでの草分けだったのです。 今、それが素晴らしく大きな産業に育っています。 輝かしい業績です。
先日、会った親友は、その現場を数回訪れており、感慨深く話していました。
コチア青年の一人が大々的に花栽培を進めて活気溢れる町が出来た場所さえ有って、そこを見学した時の話も、快適な音楽でも聞くような気持ちで聞きました。
そしてジャガイモの栽培も、鶏卵、鶏肉の産業も8割強が日系移民とその子孫によって賄われていることを話していました。 それは日本移民皆様の偉大な業績です。
(8)不毛のセラードの開発をしている日系移民たち
前出の国立図書館のコラム、移民100年の歩みに 次の様な記事があります。
"1973年(昭和48)、コチアは、ミナスジェイラス州、ゴヤス州、マットグロッソ州などにわたって分布する熱帯サバンナ気候のセラードに組合員を入植させ、セラード開発に進出した。"
セラードとは幕が降りた状態を表現した単語です。 草木ボウボウと生い茂り、先が見えない情況です。
乾燥期と雨期が毎年繰り返され、高い樹は繁りません。幹や枝も伸びられず、水分を失わないために、カサカサの表皮が幾重にもなったり、うぶ毛で覆われたり、曲がりくねって堅い木になってやっと生き延びている木々の森が何処までも続いています。
20メートルの深さまで根が届いているそうです。日本全面積の5.5倍が、その様な不毛の地でおおわれています。
その開発に、コチア産組は新しい夢を託したという事だったのです。
日本ではアメリカのニクソン大統領が大豆輸出を制限すると言った事を心配していたそうです。 あの不毛のセラードが現在は大々的な機械耕作地になっています。大豆を栽培するための土地改良が出来たのです。灌水方式の成功したのです。
前記のように、残念でたまらないけれどコチア産組は潰れました。にも関わらず日本移民は世界中に大豆をブラジルから輸出しています。
大豆は日本から移民が持ち込んだのです。 大豆 だけでは無く何百種もの野菜や花やが持ち込まれ植えられています。 その話を思い出す度に元気が出ます。
では この辺で、今日は終わりにして、皆様のご健康と御幸福を おいのりいたします。
添付の1枚目の写真は、セラード開発の記事からおかりしました。
以下2枚は、普段健診に通っている、州立公務員病院です。白い建物は、その病院運営のカソリック 礼拝堂です。