後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

黄葉した樹々を眺めている、それが老境の幸せ

2018年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
11月11日に「何も考えずに淡々と生きると幸せになれる」という記事を掲載しました。
その趣旨は次のようなものでした。
人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。
ですから不幸の原因を考えることは無駄なことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。
そんな暇があったら山里の秋の風景写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。
風景写真を見ている間は無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。
流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

このような趣旨の記事を掲載しました。幾つかのコメントを頂きました。
この記事のように淡々と生きることは意外に難しいという内容のコメントです。
もっともなコメントです。私も毎日淡々と生きてはいません。この世の煩悩に悩みながら生きています。
しかし若い頃とは決定的に違う生き方を発見したのです。
一日、24時間の中の10分でも20分でも無我の境地になれる方法を発見したのです。
10分や20分は短い時間ですが、その影響は長い時間のこります。深山の木霊のように残るのです。
無我の境地になる方法は幾つかあります。座禅も良いでしょう。仏像へ祈っても良いでしょう。
しかし私の無我の境地になる方法は大きな樹々の姿をじっと眺めていることです。

高い梢を風が静かに渡っていきます。秋の黄葉が秋の陽に輝いています。
樹々の足元の水場には住み着いているカモたちが泳いでいます。
ススキの穂が白くなって黄葉の中に見え隠れしています。
私は車から持ち出した椅子に座ってこのような風景を飽ずに眺めています。

このようにして流れゆく日々を淡々と生きています。
この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きています。

昨日、国立市の青柳北緑地で大きな樹々の姿をじっと眺めて、淡々と時間を過ごしてきました。
ここに示す写真は妻が撮りました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










八王子いちょう祭りの3日前のイチョウの黄葉の写真と韓国の徴用工の問題

2018年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
八王子市のJR中央線の西八王子駅近くから高尾駅入口まで、ほぼ4Kmにわたる甲州街道(国道20号)の両側に、約770本のいちょう並木が続きます。
11月中旬になると一斉に美しく黄葉します。今週の週末の17日(土)と18日(日)には「八王子いちょう祭り」があります。
その3日前の昨日、黄葉の進行状態を見にいきました。雑に言うと約770本のいちょうの3割ほどは美しく黄葉していましたが、残りは緑のままでした。
以下の写真では黄葉が見事な樹の写真を示します。









5番目の写真は甲州街道を曲がって多摩御陵、武蔵野御陵へ行く参道のケヤキ並木です。

6番目の写真は多摩御陵、武蔵野御陵への「車止め」を入ると直ぐにある池の上の紅葉です。

7番目の写真も同じ池の上の紅葉です。ここは毎年紅葉が美しくなる場所なのでよく写真を撮りにきます。
さて「八王子いちょう祭り」この欄の2018年11月04日掲載の「イチョウの黄葉が圧巻、 八王子いちょう祭り」で詳しくご紹介してありますので詳細は省略します。
今週の週末の11月17日(土)と18日(日)です。

さて昨日、写真を撮りながら最近の韓国の徴用工裁判の判決のことを考えていました。
昔日本が朝鮮を領有していた時代に新日鉄系の会社で徴用工として働いていた高齢の韓国人へ、新日鉄が慰謝料を払うべしと韓国最高裁判所が最終判決を下したのです。
例によって日本政府は怒りました。何せ1965年の日韓条約で、日本は多額の賠償金を韓国へ支払い、韓国は全ての請求権を放棄したのです。
新日鉄が慰謝料を払うべきという韓国最高裁判所の最終判決をどのように考えるかは人それぞれです。
いろいろな感じ方を次に示します。
(1)また日本への無法な韓国側の嫌がらせが始まった。断固、拒否すべきである。
(2)原告は自分が応募して新日鉄系の会社で働いて給料を貰っていたので徴用工ではない。裁判そのものが無効です。
(3)朝鮮を併合した恨みは理解出来るので、日韓政府が話合い、妥協点を見つけるようにした方が良い。日米韓の団結は徴用工裁判よりも重要なのです。
(4)日本と韓国の国家間の日韓条約は個人の人権問題とは別です。従って韓国の請求権の放棄は韓国人の人権保護を要求する裁判は含まれません。裁判は自由で良いのです。しかし新日鉄は日本の会社なので韓国の法律に従う必要はありません。賠償金は払う必要はありません。

皆様は徴用工裁判の結果をどのように感じていますか?

私自身は日本人ですから上記の(1)から(4)まで全て理解出来ます。
特に(4)の人権と国家の権利の関係には強い関心があります。
韓国人の人権は日本人の人権と同じように重要なのです。
しかし韓国最高裁判所の最終判決は倫理的なものなので日本側に強制するのは大間違いです。
しかるに韓国政府は新日鉄側が判決に従わない場合は報復処置を取ると発表しているのです。
このような韓国の嫌がらせは永遠に続きます。それだけ朝鮮併合に対する怨念が深いのです。
韓国の憲法の前文に、朝鮮併合の後、李承晩らが上海に作った亡命政府が現在の韓国政府の始まりだと明記してあるのです。この憲法は韓国の学校でみんなが習うのです。
この前文を削除しない限り朝鮮併合に対する怨念が消えないのです。
実に悩ましい問題なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事

2018年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
中華人民共和国は1949年の建国以来、現在まで共産党の独裁国家です。怖い国です。
この怖い国へ私は1981年に初めて行きました。
下手なことを喋ると即逮捕され日本へ帰って来られないと言う人もいた時代でした。
私は緊張して北京空港に降りました。
この訪問にいたる経緯です。
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、彼が私を北京へ招待してくれたのです。
周氏は共産軍とともに天津市を占領し、天津市の行政に参加した人でした。彼は正真正銘の共産党員でした。
親しくなって一緒にビールを飲んだ時こんな話をしてくれました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になるというような事を言います。
私は酔った勢いで共産主義の間違いを鋭く批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。そしてついでに西洋の植民地主義の残酷さも批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。
周さんはたった一つだけ言います。貴方は外国人だから共産主義の悪口をいくら言っても良いです。発言は自由です。
そんな会話の数日後、彼は私を大学の地下室へ連れて行ったのです。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。

ここで何が起きていたのでしょうか?
ちょっとだけ説明させて下さい。
1976年4月5日に第一次天安門事件が起きたのです。
北京市の天安門広場で、1月6日に死んだ周恩来追悼の為に大規模なデモがありました。
それを北京市当局が武力を使って鎮圧したのです。日本で有名なのは1989年の天安門事件ですが、それは中国では第二次天安門事件と呼ばれています。

さて第一次天安門事件はまだ存命中だった毛沢東一派によって鎮圧されましたが一般の人々はその後、何年間も周恩来追悼の為の行事を秘かに行っていたのです。
1981年に私が連れて行かれた大学の地下の部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていたのは秘密の追悼行事だったのです。

私は確信しました。中国人は人情が篤く中央政府が何と命令しようと人間らしさを失わなない人々だと確信したのです。彼等が心の中で感謝している政治家は劉 少奇、周恩来、胡耀邦などです。大衆の生活を少しでも良くしようとして失脚した政治家です。
このような事が分かった私は共産党独裁の中国は怖くなくなりました。
さて表題の・・・中国の人との付き合いで注意すべき事についてです。
それは満州国の建国について弁護しないことです。
宴席などで満州国の建国は中國人にとっても良かったと演説する日本人がいます。
満州の工業が近代化して重工業が発達したのは満州のお陰だと言うのです。
宴席につらなる中国人はにこにこして聞いています。
宴会の後で周栄章教授が私に耳打ちしました。「満州のことは言うな。中国人は他国に支配されるより飢え死にした方が幸せなのです」

日本人が言わなくても中国人が言ってくれるのです。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。
さて大変親しく付き合ってくれた周栄章教授は2004年に亡くなりました。
共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事は満州建国だけでなく日本の中国侵略を正当化する意見は言わない方が良いのです。なにせ2000万人以上の中国人が犠牲になったのです。日本人には語る言葉が無い筈です。

今日も挿し絵代わりの写真は昨年の11月に甲府の昇仙峡で撮ってきた紅葉の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
四五天安門事件(第一次天安門事件)
https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/
1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件(第二次天安門事件)と区別するため、第一次天安門事件ともいう。

事件発生後、四人組のひとり姚文元は『人民日報』に「反革命政治事件」として民衆の反乱とごまかして報道したが、かえって国民の怒りを買い、4月12日には人民日報本社に、「ある現場労働者民兵」の名で、編集長を「ゲッベルス」と揶揄し「驚愕すべきことだ!党の機関紙は堕落した!ファシズムのメガホンになり下がった」と書いた抗議文が送りつけられてきた。一方、四人組の江青は事件の報告を受けたのち興奮して、ピーナツと焼き豚とで祝杯をあげ、「わたしはいつでも棍棒で、反対する奴ばらをぶちのめしてやるわ。」と高言し周囲の顰蹙を買った。
事件後、鄧小平が責任を問われ全ての党職務を解かれ失脚。四人組が事実を曲げて毛沢東に報告したために、毛沢東は本当に反革命が起こったと勘違いし、その後の弾圧に結びついた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がり、毛がこの年9月に亡くなったこともあって四人組は失脚することとなる。









山の別荘の庭でのクリスマスリース作りへのご招待

2018年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある別荘の持ち主が庭でのクリスマスリース作りへのご招待しています。
お子様連れや、どなたでもお気軽にいらっしゃって下さい。勿論無料です。材料は用意してあります。

この別荘の庭は「陽賜里工房ガーデン」と称していまして毎年、春と秋にオープンガーデンが開催されています。

リース作りの指導は原田聖也さんと彼の母上です。


日時:11月23日(金)午後1時30分から3時30分までの間です。

ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里(ひだまり)工房ガーデンです。

    焼き芋も用意してあります。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail: t-taraku@t-net.ne.jp

尚この賜里工房ガーデンは開けた明るい別荘地にありますが、その近所にある私の小屋は深い森の中にあります。その森の去年の黄葉の写真を3枚添付します。





何も考えずに淡々と生きると幸せになれる

2018年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。
自分で発見した原因は多くの場合、いや全ての場合、その原因を取り除くことが出来ないのです。その事実に気がついてますます不幸になるのです。
例えば仲の悪い夫婦がいたとします。夫婦仲の悪くなった原因をあれこれ深く考えます。すると相手の性格が悪いのが原因だと気がつきます。その悪い性格を直してやろうと自分が手を尽くします。土台、人間の性格など簡単には変わりません。自分の努力で相手を傷つけ、ますます夫婦仲が悪くなります。しかし離婚する勇気もありません。このような夫婦が世の中には多いものです。
この地獄のような状態を避ける方法は2つだけあります。
一つは結婚しないで一生独身でいることです。
もう一つは不幸の原因を絶対に考えないことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。
そんな暇があったらここに示した昨日撮って来た檜原村の秋の風景写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。秋の山里で写真を撮っていると、人生の流れる日々を無欲に生きている気分にります。
自分が見て、写真に撮っておきたい風景に会ったら撮るだけです。無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。

流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











八千穂高原の日本一の白樺林の紅葉と旅の思い出

2018年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
東京から軽井沢や小諸の懐古園を車で訪れる時は関越高速と信越高速を使うと便利です。
何度も行きましたが、帰路は八ヶ岳の東の国道141号線を走り清春を経て須玉から中央高速に乗ります。
雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。

その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
その八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっているのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。

そんなことを思い出しました。紅葉の頃はさぞ美しいと思い白樺の紅葉の風景写真を検索して、いろいろ比較して一番美しいHPを選びました。それは「秋の白樺林」、http://widewallpapers.xii.jp/archives/1028 です。その中から5枚の写真をお借りしお送りします。









白樺林を見ると何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出します。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩は「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
白樺林を見ると高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想います。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
白樺林を見ると私はそんなことを想うのです。

人の想いはそれぞれです。皆様は白樺林の風景がお好きでしょうか? 何を想いますか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。

清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。

白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。

高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。

万葉集時代の多摩の横山の黄葉と出征する防人の悲しみ

2018年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
現在、我々が日常的に使っている武蔵野という地名が初めて記載されたのは万葉集です。第14巻「東歌」に出て来ます。
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。現在の多摩市の南部の尾根筋を東西に走る古い道です。
それでは多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌をご紹介します。

「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女

山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
巻20には数多くの防人にちなんだ歌がありますが、上の歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻が作った歌です。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は現在の多摩市の南部に連なる尾根の上の見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道は遊歩道として10Kmも整備されています。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
この道は雑木林の中にあります。
「多摩の横山の道」に平行して現在は「多摩尾根幹線自動車道路」が東西に出来ています。
昨日はこの自動車道路から見える多摩の横山の黄葉の写真を撮って来ました。









「多摩尾根幹線自動車道路」は調布市の甲州街道から西にある町田市の町田街道をつなぐ約17Kmの立派な自動車道路ですが、多摩の横山道に平行している部分が稲城市の光陽台から八王子市の南大沢までの10Kmです。
昨日はこの10Kmを往復して多摩の横山の黄葉の風景写真を撮って来ました。
ここで疑問を感じます。1200年以上も前の武蔵野の雑木林の樹種は現在と同じだったのでしょうか?
いろいろ調べたら奈良時代から中世までの武蔵野の平野や丘陵には「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」などの混淆林が広がっていたそうです。
人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林でした。やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれています。

現在の武蔵野の雑木林にはクヌギ、コナラ、シデなどに加えてケヤキ、エゴノキ、サクラなどの樹種が加わり多様になりましたが広葉の照葉樹林であるという事では現在も昔も同じだったのです。
従って秋の黄葉の風景は同じです。
もしこの黄葉の綺麗な秋に防人達がこの多摩の横山を歩いて行ったとしたらどんな気持ちで眺めていたのでしょうか?
防人として出征すれば二度と故郷に帰れぬ人も多いのです。悲しい気持ちで黄葉の風景を眺めたに違いありません。それを見送る妻も悲しかったのです。
「多摩尾根幹線自動車道路」は景色が良いのでよくドライブに行くところです。行けば「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌を思い出します。

兵士として出征する悲しみは古今東西変わらない深い悲しみなのです。

多摩の横山のルートマップは、https://www.ur-net.go.jp/syutoken/nt/yokoyama.html に御座います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


東京の高尾山の紅葉と神仏習合が理解出来る薬王院

2018年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は東京の高尾山の紅葉をご紹介します。そしてその後で神仏習合が明快に分かる高尾山薬王院の説明をしたいと思います。高尾山、城山、小仏峠、景信山、陣馬山の尾根歩きのハイキングもご案内したいと存じます。
高尾山は、東京の西の郊外にある山です。標高は599mあります。
山頂付近に神仏混淆の薬王院というお寺があり、お寺の本堂の背後に飯綱権現神社があります。古くから修験道の聖地でした。
11月の中旬になるとイロハカエデ、ブナ、オオモミジの木々が美しく色づき山全体が紅葉になり素晴らしい所です。
ミシュランの3つ星に認定されたこともあり、海外からの観光客も多く訪れます。
それでは早速、昨年11月16日に自分で撮って来た写真と、https://yamahack.com/1945 からお借りした写真をまじえて高尾山の紅葉の風景写真を7枚お送り致します。

1番目の写真は高尾山に上げるケーブルカーの出発駅周辺の紅葉です。
7枚の写真のうち2番目、3番目、と7番目の写真は自分で撮りました。残りはお借りした写真です。

2番目の写真はケーブルカーの出発駅の右手にある高尾山登山道の入り口周辺の紅葉です。

3番目の写真はケーブルの線路下から見上げた高尾山の南面の紅葉です。

4番目の写真はケーブルの山頂駅から少し登った所にある展望台から見下ろした八王子の街の風景です。

5番目の写真は山頂の薬王院の周囲の紅葉です。

6番目の写真は薬王院を通過して高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。

7番目の写真も同じく高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。
高尾山は都心から電車で約1時間と便利な位置にある自然の宝庫です。1967(昭和42)年に明治の森高尾国定公園に指定されました。
山内には、約1200種の植物、約100種の野鳥、約5000種の昆虫が生息していると言われています。

さてこの高尾山には神仏習合が明快に理解出来る薬王院があります。
正式には真言宗智山派のお寺ですが、本堂のご本尊様が神道の飯綱権現という神様なのです。
この本堂のすぐ上に立派な飯綱権現神社の本社が建っているのいです。
この本堂のご本尊様と飯綱権現神社の本社の両方に真言宗のお経をあげているのが僧侶なのです。
この神道の飯綱権現の本部は長野県の飯綱山を神様と信仰する飯綱権現神社なのです。
さてそれでは高尾山薬王院はお寺なのでしょうか?それとも神社なのでしょうか?
皆様はどちらだと思いますか?
例えばアメリカ人と日本人の間の子供はアメリカ人でしょうか?日本人でしょうか?
答はどちらとも言えません。
このように高尾山薬王院はどちらとも言えません。
むしろこれを日本独自の一つの宗教と言ったほうが明快に理解出来るのではないでしょうか?
これが神仏習合の実態なのです。このような神仏習合のお寺や神社は日本各地に沢山あります。有名な豊川稲荷もその例です。宗教に興味のある人にとっては高尾山薬王院は面白い存在なのです。
最後に高尾山の後ろに続くハイキングコースについてご紹介します。
高尾山の最高地点を過ぎて西の方にハイキングコースを行くと、尾根ずたいに城山、小仏峠、景信山、陣馬山へと楽しい山道があります。
小仏峠は旧甲州街道の峠で、それを東に3Km位下るとバス停がありJR高尾駅に出ます。
西に下ると10Km位歩くと相模湖駅に行けます。遠方すぎますので東に下る旧甲州街道がお薦めです。
このハイキングコースは紅葉の時期も良いですが、新緑の頃もウグイスが鳴いていて良いものです。高尾山は四季折々楽しい素晴らしい山です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

経済制裁で激怒のイランとアメリカの立場を分かり易く書く

2018年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ米政権はイランの核合意離脱を受けて、イランへの経済制裁を再開しました。
その前日の11月4日には、イラン人達が激怒して1979年11月に起きた在イラン米大使館人質事件を記念したデモで経済制裁を厳しく非難しアメリカへ反発したのです。

分かり難いニュースですが、簡単に言うとイランが核兵器開発を再開するというのでアメリカが怒って経済制裁を再び始めたのです。
これだけを見ると何が何んだか一向に判然としないニュースです。
これを理解するためには親米のパーレビ国王の追放とホメイニ師のイラン革命とそれに続くアメリカ大使館の占拠と大使館員の人質事件などの歴史を考える必要があります。

1941年から1979年までのパーレビ国王時代のイランはアメリカを手本にして近代化を進めた非常に親米的な国だったのです。
それが1979年のホメイニ師のイラン革命後は手のひらを返したようにアメリカの敵国になったのです。
1979年以来いろいろな抗争がありましたが、今回の経済制裁の再開もその一つに過ぎないのです。

今日は錯綜するアメリカとイランの敵対関係の歴史を写真に従って説明したいと思います。
まずパーレビ国王の写真です。

1番目の写真はパーレビ国王です。
彼の名前はモハンマド・レザー・シャーと言い、在位は1941年9月16日 - 1979年2月11日でした。
出生は1919年で死去は1980年(60歳没)でした。
パーレビ国王はイランを近代化した実に傑出した国王でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/モハンマド・レザー・パフラヴィー からの抜粋です。
父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、イランの近代化を進めたが、あまりのも急進的だったためにイラン革命により失脚したのです。

1960年代より、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立します。
日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年からは石油の輸出により獲得した外国資本とアメリカ合衆国による経済援助を元手に近代化革命に着手しました
土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めました。
一方、親欧米路線のもと欧米諸国の外国資本の導入に努めたのです。
また自らも英語やフランス語を駆使して親欧米外交を進めるなど、政策の先頭に立っていました。

2番目の写真は1971年、訪米時のパーレビ国王とニクソン米大統領及びニクソン夫人の写真です。
パーレビ国王の政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカ合衆国は革命直前の1970年代に深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭のボーイング747旅客機をイラン航空に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱っていたのです。
それは現在のイラン空軍の威力の基礎になっているのです。

ニクソン大統領を会見した後の1979年にはイラン革命が起きパーレビ国王は国外へ亡命します。
1979年1月16日に皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、最初の妻の出身地でもあるエジプトに皇后や側近とともに亡命し、モロッコ、バハマ、メキシコ、アメリカへと転々としたのです。
するとホメイニ師は2月1日に15年ぶりの帰国を果たし、直ちにイスラム革命評議会を組織しバーザルガーンを首相に任命しました。
そして1879年11月にイランにあるアメリカ大使館の占拠と人質事件が起きたのです。

3番目の写真は大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループの写真です。
大使館の敷地には次々に学生たちが侵入してきたが、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することをしなかったのです。
学生たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しをアメリカへ要求したのです。
アメリカはこれを拒否し、52人を人質を救出する特殊部隊を送ります。
しかしこの人質救出作戦は失敗に終わりました。

4番目の写真は人質救出作戦のイーグルクロー作戦中に事故を起こした輸送機の残骸です。
アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パーレビ国王を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図ったのです。

その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが新大統領に就任し、カーターが大統領の座から退任する1981年1月20日に人質が444日ぶりに解放されました。

5番目の写真はアメリカ軍のボーイングVC-137輸送機で444日ぶりに帰国した人質の写真です。
このアメリカ大使館の占拠と人質事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪くしたのです。面子を潰されたアメリカは長い間イランを恨み続けることになるのです。
今度の経済制裁の発動はこの延長にある一つの出来事なのです。
イランの核兵器開発再開は一つの口実ではありますが根が深いのです。

今回のアメリカの経済制裁の発動で喜ぶのはイランと敵対関係にあるイスラエル、サウジアラビアと湾岸諸国です。イランを引き込もうとしているロシアと中国です。
国際関係は複雑です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ロシアは憎い!しかし日本人が愛したニコライさん

2018年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝の読売新聞の8ページの「時代の証言者」欄に なかにし礼さんが満州におけるソ連軍の暴虐ぶりを書いています。衝撃的な場面の連続です。
ソ連は1945年の8月9日、突如満州と南樺太に侵攻し、残虐行為を繰り広げたのです。
シベリア抑留で約6万人を殺し、満州引揚で20万人が犠牲になったのです。
ソ連軍の無法な侵攻により合計26万人の日本人が犠牲になったのです。
シベリア抑留や満州引揚の悲惨さは現在でも新聞や雑誌に出ているので若い日本人もよく知っています。
なかにし礼さんは有名な作詞家です。
朝丘雪路 、梓みちよ、アン・ルイス、石川さゆり 「風の盆恋歌」、いしだあゆみ 、石原裕次郎 などなどの唄った歌の詩を書いた方です。
従って今日の読売新聞の なかにし礼さんの書いた記事を読んだ多くの若い人はロシアが嫌いになるかも知れません。多くの高齢者はロシアを憎んでいるかも知れません。
国家としてのソ連は日本人にとっては憎むべき存在でした。
しかしロシア人を個人的にみると良い人もいるのです。

そこで今日は日本を愛し、日本人から好かれた一人のロシア人をご紹介したいと思います。それはニコライ・カサートキンという人です。
話は急に昔のことになり恐縮ですが、1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。
翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。
日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。
しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライ・カサートキンは顔色一つ変えず動揺しません。
日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。
特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。
しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライ・カサートキンはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。
しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。
日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライ・カサートキンを大切にしたのです。
これだけではありません。ロシア正教の日本人信者がロシア兵捕虜の慰問を日本軍が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。
1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。
日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。
ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。
私の手元にはかつてニコライ堂で求めた当時の写真があります。

捕虜収容所を訪問したニコライ・カサートキンと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。 などなどを見ました。
1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようです。
それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、ニコライ・カサートキンは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。葬列を見送る日本人が数十万人いました。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。私は明治時代の日本人をも誇りに思います。
そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からです。

さて日本人を愛し、愛されたニコライ・カサートキンの略歴です。
スモレンスク県のある村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれました。母は五歳のときに死にます。
サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学します。在学中、ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道を希望するようになったのです。
ニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂の司祭募集を知り、志願してその任につくことになります。
1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任したのです。
そして新島襄らから日本語を習います。函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を育てます。初の日本人司祭となる沢辺琢磨らも育てます。
中井木菟麻呂らの協力を得て祈祷書および聖書の翻訳もしました。
1869年、1879年に二度帰国しますが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂正教会本部で没します。
ニコライ堂から谷中墓地までの葬列には数十万人の人が沿道に溢れたのです。明治天皇をニコライ・カサートキンは尊敬して、礼拝の度に明治天皇の健祥を祈っていたと言われています。
そんなロシア人も居たのです。

今日の挿し絵代わりの写真は長野県茅野市の長園寺の紅葉の写真です。2015年11月3日に撮って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










イチョウの黄葉が圧巻、 八王子いちょう祭り

2018年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム
八王子市追分町から高尾駅入口まで、ほぼ4Kmにわたる甲州街道(国道20号)の両側に、約770本のいちょう並木が続きます。
特に11月中旬になると一斉に美しく黄葉し、道行く人の目を楽しませてくれます。東京界隈では 770本のイチョウは他にありません。黄葉したイチョウの景観は実に圧巻です。
以下に今年の八王子いちょう祭りのご案内をお送りいたします。
第39回八王子いちょう祭り、(https://www.ichou-festa.org/category/event/ )
本年のテーマ、『いちょう並木90年記念事業』『東日本大震災復興応援事業』
開催日時
2018年11月17日(土)9:00~17:00
2018年11月18日(日)9:00~16:30
会場
八王子市甲州街道(国道20号)追分町交差点〜小仏関跡・陵南公園本園・陵南公園分園・陵南いちょう会館跡地・旧免許更新所駐車場・長房市民センター・浅川市民センター・原児童遊園・原宿ふれあい広場・横山事務所・八王子市立中央図書館・東浅川交通公園グランド・陵南中学校体育館 ほか

同時に数多くの楽しいイベントもあります;
イベント一覧;
1、世界の屋台・全国ご当地グルメ屋台村
2 、ふるさとバザール・観光物産展
3、ふるさとバザール・むーちゃん機関車
4 、みんなの広場・木工体験・ミニSL
5、お祭り広場・自衛隊
6 、バザール・ふれあい建築体験・ファミリーランドふわふわくじら
7 、ライブ・落語・人力車・マジック

過去の風景写真をお送りいたします。
皆様、是非お出掛けになって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真の出典;https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/001/p003255.html

2番目の写真の出典;https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Ginkgo.jpg

3番目の写真の出典;https://www.ichou-festa.org/news/第%EF%BC%93%EF%BC%99回八王子いちょう祭り/

4番目の写真の出典;https://ochipapa.com/2017/11/18/ichou-festa/

5番目の写真の出典;ttp://jiromaru77.com/?p=952

品性の高い銃猟の趣味とは?北海道のエゾシカ猟

2018年11月02日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味はいろいろありますが、自分の品性を高めてくれるような趣味が最高の趣味ではないでしょうか?例えば茶道や香道や書道はやり方によっては品性を高めてくれます。
猟銃の趣味も心がけが正しければ品格の高い趣味になります。
今日はSNSの趣味人倶楽部で知り合った「でいしゅうさん」の銃猟の趣味をご紹介致します。
でいしゅうさんは若い時から「徳不孤必有隣」をモットーにして銃猟の趣味を続けている方です。
山に犬を連れて独りで入っても「徳不孤必有隣」という言葉どうり規則を守って撃つのです。他人が見ていないからと無法な猟は絶対にしないのです。
「徳不孤必有隣」という言葉は論語の言葉で、徳は孤ならず 必ず隣有りと読みます。
意味は本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無く、真に徳さえあれば必ず人はその徳をしたい教えを請う人たちが集まって来るという意味です。

でいしゅうさんが品性の高い狩猟の趣味を持てたことは、生まれつきの才能があったことですが、もう一つの理由は一番最初についた銃猟の師匠の高い品性によったと思います。
まず品性の良い猟犬を育て訓練します。
そして独りで山に入って雉を撃つときには次のことを守ります。
1、銃に弾を込めるのは、犬が鳥の隠れている場所をポイントをしてからしなさい。
2、撃つ前に周囲の安全を確かめる 。
3、偶然に歩いて居る雉や、突然飛び出した雉がいても、撃ってはダメです。
4、雉撃ちに行くのだから、鴨を撃ってはいけません。
5、犬より前を歩くつもりで、歩きなさい。

でいしゅうさんは雉猟を経て18年前から北海道の道東の釧路、別海町、標津町などのエゾシカの銃猟を続けて来ました。
秋の猟期になると道東に数週間住み着いて現地の人々と信頼関係を作ります。
現地の人々の信頼が無ければエゾシカが何処に出るか皆目分かりません。
自分の鹿猟用に改造した四輪駆動車を北海道に三重県から持って行ってエゾシカを追うのです。仕留めた鹿は現地の友人のを借りて丁寧に解体します。
撃ったエゾシカは全て友人達に送り食べます。全て食べるのが撃った鹿に対する礼儀だと思っているのです、
エゾシカは牧草を食べたいので牧場の森際に出ます。一撃で倒しても血が牧草地を汚します。でいしゅうさんはそれをティッシュペーパーで叮嚀にふき取り、汚れた紙も鹿と一緒に持ち帰ります。
湿地地帯にいるエゾシカは絶対に撃ちません。一撃で痛みも無く倒せますが、鹿の回収の為に重い四輪駆動車を湿地帯へ入れることができません。鹿を回収出来ないのです。
彼は撃った鹿は食べるという原則を持っているのです。
エゾシカを撃つためには牧場主の信頼が無ければ撃つことを許してくれません。「徳不孤必有隣」という言葉が重要なのです。
エゾシカの雄を一発で倒すためには、道東に滞在している間にも射撃場に行って射撃の練習をしているのです。

さて今年の10月31日のでいしゅうさんのエゾシカ猟の日記をご紹介しましょう。
・・・10月24日からは釧路市の狩猟ガイドさんと狩る事になった。
昨年もお願いしたとうり、釧路市から厚岸にかけて案内して頂ける。
しかし、釧路市近郊の禁猟区でも何時も沢山いる鹿は見受けられない。メスがチラホラで、立派な雄鹿は全くいないので不安もあり、そんな状態で狩りは始まった。
ガイド氏も「いない、いない」を連発していた。
理由として、(1)駆除が年中実施され、報奨金目当ての地元ハンターが絶滅させた。(2)頭のいい鹿達は山奥へ逃げ、道からは見えない。(3)気候変動で他地区へ移動してしまった。などと言う。
4時頃から朝日が昇るまでが鹿を撃つ時間帯だ。それなのに鹿を全く見かけないので撃つ事が出来ない。このような山道を行くと不安になる。
山の入り口で日の出時刻となった。そして林道、作業道を流していくが、チラリとも姿を見かけない。
10時となり鹿達は座り込み始め、なおさら発見が難しくなった。
ガイド氏の秘密の場所へ行くが、全くいない。山道には足跡が少ない。あっても小さくメスシカが多い様だ。
翌日も同様であったが、メスが3匹いた。幸い車は道路上でなく草地なので銃を固定して撃った。猟銃は道路の上では使ってはいけないのだ。
私は銃には絶対に弾を入れていないので、構えてから弾を1込める。距離は180メーター程だ。銃声は一発だけ響く。命中した。
ガイド氏は他の鹿も撃てと言う。回収作業が大変なので1匹にしていたが、猟果が少ないので撃つ事にした。
上に逃げた鹿も命中、右下に逃げた鹿は半矢となった。しかし手応えはあるので、仕留める事にした。
弾を1発持ち、ゆっくりと近づいた。少し大回りをして逃げそうな方向から近づく。
いた、私の足音からバタつくが逃げられない。約20メーターで止めを刺した。初弾は右足の根元に当たっていた。少し着弾が下がるのを計算に入れていなかったのだ。
3頭の肉を運ぶのは、参った。1頭だけ運び、残りはガイド氏が運んだ。
この後は3頭得たが小物ばかりで、記念にするようなトロフィーは得られなかった。
鹿の生息状況も変わり、小生も70歳を超え、無事故の間に引退を考えるべき、これが今回の結論である。
一番の理由は、狩猟に対する意欲が減少しているのだ。
解禁前は遠足前の様にワクワクしていたが、そんな気持ちは数年前からなくなった。
内地のハンターにとって夢の様な「蝦夷鹿猟」も18年間行った。自慢できるトロフィーも得た。多くの友人も出来た。羆も1頭得た。
引退の時期かもしれない。・・・・

2年ほど前に彼の日記を読んで何故かひどく感動しましたので私のブログ(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)へ「狩猟の趣味の深さ」と題する連載記事を寄稿して下さいませんかとお願いしました。
記事は以下のよう2016年の10月4日から10月12日にわたって掲載いたしました。
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(1)品性の良い犬の訓練」、2016-10-04
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(2)猟犬への深い愛が狩猟の決め手」、2016-10-05
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(3)山間部集落の獣害とイノシシ猟」、2016-10-06
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(4)猟銃の種類と狩猟文化」、2016-10-08
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」、2016-10-09
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(6)猪と鴨を美味しく食べるこだわりの料理法」、2016-10-10
でいしゅう著、「猟犬、ココとの別れ」、2016-10-12

でいしゅうさんには2016年、17年、今年と3回もエゾシカの肩ロースとモモ肉を冷蔵宅急便で送って貰いました。厳冬期には三重県のイノシシの肉も送って頂きました。
美味でした。柔らかくて野生の香りがほのかにして奥深い味わいです。モモ肉の方が少し野生の風味が強いようです。

今迄、山梨県の甲斐駒岳の麓にいる日本鹿は何度も食べたことがあります。しかし不味いのです。鹿肉は不味いという固定観念を持っていましたがでいしゅうさんのお陰で変わりました。
でいしゅうさんは大勢で追い出して撃つイノシシ猟でも撃ち役を務めます。撃ち場に隠れたら絶対に動きません。イノシシが来たら一発で倒します。静かな山に一発だけの銃声が木霊するのです。

趣味はなんでもそうですが、自分の品性を高めてくれるような趣味が最高の趣味ではないでしょうか?
でいしゅうさんの狩猟の趣味を見るとしみじみそのように思います。

今日の挿し絵代わりの写真はでいしゅうさんがエゾシカ猟に行く北海道の別海町の風景写真と別海町の禁猟区のエゾシカの写真です。禁猟区には例年ならエゾシカが溢れるようにいるのです。写真は「別海町の風景写真」と「別海町のエゾシカの写真」を検索してお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









外国の田舎道で受けた温情が人生の宝になった

2018年11月02日 | 日記・エッセイ・コラム
夫婦が一緒に健康で老境に入ったとしたら、それは非常に幸運なことです。
一生は邯鄲の夢と言いますが、それでも辛いことや悲しいいことなどいろいろあります。
そんな折に私ども夫婦の心の支えになって来た思い出があるのです。この思い出こそ人生の宝です。
それは遠い外国の田舎道で、通りかかった見知らぬ人から受けた温情の思い出なのです。
その思い出を私ども夫婦は時々話合います。そして私共の人生を豊かにしてくれるのです。
今日はこの思い出を書かせて下さい。

あれは1962年の春の事でした。オハイオのコロンバスで、私共は赤子を抱え、とても貧乏な生活をしていました。貧乏なだけでなく私は厳しい勉強と夜遅くまでの実験で遊ぶ暇がありません。
たった一つの贅沢は週末に中古の大きな車でオハイオの農村地帯を家族と一緒にドライブすることでした。
車はダッチ・コルネットという6年前の中古の大型車でした。クリーム色と空色のツートンカラーの乗り心地の良い車でした。
ある春の日に少し足を延ばして有名なオハイオキャバーンという鍾乳洞を見に行ったのです。
それは大規模な鍾乳洞で美しい鍾乳石が沢山垂れ下っています。
不思議なことに広大なトーモロコシ畑の地下に大きな鍾乳洞の空間が広がっているのです。地上はまったくの平野で、山も洞窟も一切無いのです。
ですからその鍾乳洞に入るには1番目の写真にあるような建物に入り、入場券を買ってから地下へと続く階段を下りて行きます。
鍾乳洞の光景は2番目、3番目、4番目の写真に示したように、いろいろな形と色合いの鍾乳石が照明に輝き、それは美しかったのです。

その帰りの田舎道で突然、車が止まってしまったのです。車は中古だったので、それまでハンドルが震えたりオイルが漏れたりしていました。そんないろいろな故障を直しながら乗っていたのです。
ところが今回はエンジンがいきなり止まってしまって、ウンともスンとも言いません。
ボンネットを上げて見ましたがエンジンにはこれといった異常が見えません。このような故障は始めてです。
静かになった広いトーモロコシ畑の上空でヒバリが鳴いています。その声が気のせいか不吉に聞こえるのです。
そこは人家が見えない場所です。車の通らない細い田舎道です。
車内には離乳食をやっと食べ始めた赤ん坊と心配そうにしている妻がいます。
私は妻にすぐ誰かが助けてくれるよと陽気に話しました。
しかし30分待っても誰も来ません、50分待っても誰も来ません。私も妻も心配で顔色が変わっています。
その時です。一台の車が来たのです。その車は迷うことなく私の車の後ろにピタリと止まります。
車から出て来たのは35歳くらいの男です。私はトラクターで畑を耕しているから車の故障はなんとか直せるよと言いながらエンジンを見てくれました。ダメだ。このエンジンは私の手では動かせないと言って、牽引用のロープを持ち出して来ました。
牽引されている間は前の車のブレーキランプが点いたら、自分もブレーキを踏むんだよと私に教えるといきなり牽引し始めました。
そこから10km位離れた村の修理屋さんまで引っ張って行ってくれたのです。
修理している間、彼は私達を見守っていてくれたのです。その時気が付いたのですが、彼の車にも奥さんと子供が乗っていたのです。

故障は15分位で直ってしまいました。エンジンへ電気を供給するデストリビューターにヒビが入り、割れかけていたのです。デストリビューターだけ交換して直ってしまったのです。
彼は私の車のエンジンが動き出すとすぐに帰って行きました。お礼の言葉も聞かずに帰って行きました。
幸い修理している間に妻が彼の名前と住所を書いて貰っていました。
後日、妻が御礼状と感謝の品を送りました。そうしたら彼の奥さんから丁寧なお礼の手紙が来ました。

これだけの話ですが、この温情が家内と私の一生の財産になったのです。
この一年前に私は日本から婚約者を呼びコロンバスで結婚しました。その折にはセント・ピエール先生と奥様に結婚式の準備を全てして貰いました。同級生の奥さん達も私の妻へ対してとても優しくしてくれました。その思い出はやはり家内と私の一生の財産なのです。
しかしオハイオの田舎道で助けてくれた人は全くの見ず知らずです。私共とは何の関係も無い人です。この世では一度しか会わない人です。それなのに彼は躊躇なく、当たり前のことをするように困っていた私達を助けてくれたのです。
これは善い意味で衝撃的な体験でした。
はるばる遠くに旅をしたおかげで家内と私は一生の財産を頂いたのです。
この思い出を私共は大切ににしています。時々思い出して話合いながら感謝しているのです。
考えようによっては小さな出来事ですが、感謝して生涯忘れません。

皆様にも必ず似たようなご経験があると信じています。是非、お聞かせ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



4枚の写真の出典は、https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Caverns です。





===参考資料===================
鍾乳洞、オハイオ・キャバーンが1897年に発見された時のいきさつです。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Caverns より)

1897年に Robert Noffsingerという農夫によって発見されたのです。
The tunnel system known today as the Ohio Caverns was discovered August 17, 1897 by Robert Noffsinger, a farmhand who worked on the land.

その土地の持主はAbraham William Reamsでした。
A sinkhole had been forming on land owned by Abraham William Reams over a period of about 10 years. In August 1897, this sink hole measured 50 feet across by 10 feet deep. One particular night, the sinkhole was filled completely with water during a hard rain. By morning, the water was completely gone.

持主のReamsが新聞社に報告しました。
Reams reported to the local newspaper that he lost "several hundred barrels of water." Reams had recently hired Robert Noffsinger, a young man from Virginia, to work on his farm. By Reams' orders, Noffsinger and Jordan Reams (unknown relation to William Reams) began to dig in the sinkhole.

そうしてNoffsingerたちがどんどん鍾乳洞への穴を掘ったのです。
Noffsinger dug a few feet of soil until he hit the top of the ground's limestone layer.
(limestone layerとは石灰石の層)
After finding a crack in the limestone, Noffsinger broke through this rock as well.

そしてNoffsingerがついに大きな鍾乳洞を発見したのです。鍾乳洞の中の気温は12度C でした。
Immediately feeling the caverns' 54 °F (12 °C) air, Noffsinger was even more curious. He lowered himself into the caverns and became the first living creature inside of the Ohio Caverns system.

爽快な秋空の下、老境の日々が静かに流れ行く

2018年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
最近は爽快な秋です。
今朝見上げたらサバ雲が美しく広がっていました。



そのサバ雲の下の家の軒先には赤い干し柿が吊り下がっています。

午前中はブログの記事を書いてから、車を動かしスーパーへ買い物に行きました。
家内は重要な用事がある銀行へ自転車で出掛けました。
昼食は天麩羅ウドンです。
午後からは保険屋さんが来てくれました。9月30日の台風24号の我が家の被害の修理代を保険会社が出してくれる手続きをしてくれました。有難くも45万円ほど出してくれると言うのです。
その用事が済んでから家内とシクラメンの鉢3個を買いに行きました。例年、11月になると必ず3鉢買います。
行く道は武蔵野公園に沿った細いみちです。

この写真が武蔵野公園の今日の風景です。
そこから東八道路という4車線の大きな通りに出ます。
住宅街ですが写真のように柿の実がたわわになっている木があったので写真を撮りました。

自転車に乗った主婦は買い物に行くのでしょぅか。
東八道路をさらに東に行ったところにある大型ホームセンターでシクラメンを3鉢買いました。
帰りにある園芸店でさらにパンジー20株と腐葉土を2袋買いました。大きな台車をガラガラ押して嬉しそうに家内が車に戻って来ます。

家に帰ったら3時過ぎです。秋の日は短く、もう夕方の陽射しになっています。

こうして爽快な秋空の下、老境の日々が静かに流れ行くのです。
凡々と生きている幸せをしみじみ感じる毎日です。

蚕糸試験所跡の黄葉 の風景と養蚕の歴史

2018年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム
多摩川の中流にある日野市は昔の甲州街道の宿場町でした。
家内の祖父がそこの地主でした。そんな関係で私は1960年の夏以来、日野に何度も出掛けていました。
当時は街道沿いに家々があるばかりで、家内の祖父の古い家の裏から多摩川までは一面の田圃でした。多摩川までは800メートル以上あり、水田だけが広がっていました。
その水田に浮かびように緑の雑木林に囲まれた蚕糸試験所があったのです。
それは不思議な美しい風景でした。
その後しばらくしてから蚕糸試験所が廃止になり、跡地に「蚕糸の森公園」が出来ました。
そこへ行くと若かった頃の家内の姿を思い出します。
何度も行く公園ですが、昨日の午後にも久しぶりに行きました。
撮って来た「蚕糸の森公園」の写真をお送りいたします。まだ黄葉していませんが、お楽しみ頂けたら嬉しいです。









昨日は公園を少しだけ歩きながら養蚕や絹織物の歴史を考えていました。
昔、学校で習ったことですが朦朧として断片的なことしか思い出せません。
帰宅後いろいろネットで調べました。沢山情報が出ています。
その中から、大日本蚕糸会のHPの「養蚕の歴史」を選びました。
文章がよく推敲されている上に、何と言っても養蚕や絹織り物に愛情が感じらるのです。
冷たい知識の羅列でないのです。
皆様は養蚕や絹織物の歴史はよくご存知のこととは思いますがお送りいたします。
大日本蚕糸会、http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html からの抜粋です。

養蚕や絹織物の歴史の目次;
1、古代(こだい)~江戸時代
2、明治~第二次世界大戦
3、 戦後~現在
4、 皇居で作られた繭を使って正倉院の宝物の織物を復元
5、 今にのこる風習・ことば
6、カイコからのおくりもの

1、古代~江戸時代
カイコを育てて繭(まゆ)をとることを養蚕(ようさん)といいます。
養蚕(ようさん)は、中国の黄河や揚子江流域で野生のクワコを家畜化したのがはじまりといわれます。今から5,000~6,000年も前のことです。
はじめは中国の宮廷内だけで秘密に行われていた養蚕も、紀元前1000年くらいになると、一般の農家に養蚕をさせるようになりました。でも、できた絹は、宮廷ですべて取り上げてしまいました。
紀元前200年くらい、漢の時代になると西域との貿易が始まり、異民族を支配するためのほうびとして使われました。こうして、絹の魅力は、中近東へ、そして、ローマまで広まっていきました。やがて、この交易ルートが「シルクロード」(絹の道)といわれ、東西文化の交流に多くの役割をはたしました。

卑弥呼の時代には中国に絹織物を贈っていた 日本の養蚕
日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、稲作といっしょに中国からの移住者(日本人の祖先のひとつ)が、伝えたといわれています。さらにAD195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。
奈良時代には、東北・北海道を除き全国的に養蚕が行われ、産地ごとに等級が決められていて、税として朝廷に集められました。
平安時代になると服装も日本風に変わり、日本独自の紋様の絹織物が作られるようになりました。
鎌倉時代になると質素を好む武士が中心となり、京都の織物は衰退しましたが、地方の産業振興が行われ、絹織物の技術が地方にも広がっていきました。
室町・桃山時代になると、中国から糸に撚りをかける撚糸(ねんし)の技術が伝わり、西陣織が生まれました。京ちりめん、丹後ちりめんなどがこのころから作られるようになりました。能装束や小袖飾りなど実用性を離れ権力を誇示するためのものが多くなりました。

日本の銅がなくなるくらい生糸を輸入した江戸時代;
江戸時代になると、武士以外の人びとの絹着用は禁止されましたが、能装束や小袖などの高級織物は保護され、中国から生糸が輸入され、その支払いには国産の銅があてられました。輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどでした。こうして幕府は、中国からの生糸の輸入を減らすため養蚕を奨励しました。一方、各藩でも財政の建て直しや下級武士の救済のために、西陣から技術を学び、金沢の友禅染め、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など独自の織物を生み出しました。


2、明治~第二次世界大戦
江戸時代末から勧められた製糸の機械化は、明治時代になるとさらに進み、殖産興業方針により、1872年には群馬県の富岡に官営富岡製糸場がフランス人の設計で建設され、フランス式の最新機械が導入され、フランス人指導者のもとで多くの技術者たちが育ち、各地の製糸技術の向上に貢献しました。

また、関東・中部地方を中心に近代的な製糸工場が建設されました。同時に繭を作る養蚕農家も全国に広がり、養蚕業の最盛期1930年代には、農家の40%で養蚕が行われていました。

日本の近代化を支えた生糸
明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出の70%~40%を占めていました。
1900年ころからは中国を抜いて世界一の生糸輸出国になりました。最大の輸出先はアメリカでした。つまり、生糸が稼いだお金で近代化のための機械などを買っていました。

化学せんいの登場により生糸生産量は減少
成長を続けた養蚕業にも転機がきました。1929年アメリカから広がった世界恐慌により生糸が売れなくなりました。さらに、1940年には生糸の最大の輸出先のアメリカで、生糸に代わってナイロンが使われるようになりました。その後、低価格で大量生産ができるさまざまな化学せんいが開発されるようになりました。

3、戦後~現在、

そして戦後の復興期を経て、昭和30年~40年頃に再び養蚕はピークを迎えます。
その当時の様子を聞いたことがありますので紹介しましょう。
■朝の5時から夜まで、桑畑と家をトラックで行ったり来たり
現在は桑の木の垣根で囲った畑で野菜を作る神奈川の白井さんの話です。
普通は倉庫に桑の葉を貯めておくんだけど、たくさん蚕を飼うと倉庫の分では間に合わなくなって、朝の5時にもなると畑でとった桑をトラックで運んで、そのまま蚕に与えて、また畑に桑採り、朝の5時から夜の10時まで、家中で大変だったよ。当時は新聞社なんかで、養蚕農家の表彰もやっていて、それをもらったりもしたよ。真っ黒になって一生けんめい働いたってことだね、と最後に付け足しました。
■昭和初期の養蚕農家の収繭光景
おじいちゃん、おばあちゃんから子供たちまで家族総出で繭を集めています。いそがしい養蚕を終えて、子供たちまでほっとした表情で仕事をしています。回転マブシが普及する前で、ワラで編んだマブシから繭を取っています。

その後、都市近郊の宅地化や農業人口の減少、さらに化学繊維の発達により、養蚕農家は急速に減少しました。こうして、かつては世界一位の生産量を誇った日本の繭生産量は、現在では最盛期の1%以下になっています。
しかし、衣類ばかりでなく、化粧品、食品などに繭が利用されるようになり、良質で安全な日本の繭への需要は強く、新しい養蚕業の創出が求められています。

4、皇居で作られた繭を使って正倉院の宝物の織物を復元;
皇室では古くから養蚕が行われてきました。一時中断していましたが、明治になり復活、皇后陛下が行われる養蚕ということで「皇后御親蚕(こうごうごしんさん)」といわれ、皇居の紅葉山御養蚕所でカイコが飼育されています。
皇室で飼育されているカイコのなかに「小石丸」という日本産種のカイコがいます。江戸時代から明治時代にかけて養蚕の主流でしたが、糸が細く収量が少ないので改良品種に代わってしまい、現在では飼育されているのは皇室と、特別な注文に応じて飼育する一部の養蚕家だけとなってしまいました。
この「小石丸」の糸の太さが古代の糸に近いことから、正倉院に保存されている織物の復元に使われました。
ひとつの繭(まゆ)から取れる糸の長さは小石丸の場合400~500メートルと短く、糸の太さも普通の繭糸にくらべ細いのが特徴です。

5、 今にのこる風習・ことば は省略します
6、カイコからのおくりもの  も省略します。


それにしても養蚕とか絹織物は長い歴史があるのですね。家内の和服は全て絹織物だと言うのですから驚きです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)