後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今年は中止になった潮来のあやめ祭りの思い出」

2020年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年6月に茨城県の潮来では『潮来あやめ祭り』を開催していましたが、残念ながら今年はコロナ感染防止のため中止です。
そこで以前に行った「潮来のあやめ祭り」の思い出を書いてみたいと思います。
それは色とりどりのアヤメが一面に咲く華やかな花まつりでした。
花菖蒲もアヤメもカキツバタも見分けがつきません。でも潮来では昔から「あやめ祭り」と言っています。
この『潮来あやめ祭り』は以前から関東地方では有名でした。そして昭和30年3月に美空ひばりさんの映画「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的にも知られるようになったのです。
観光客が小舟に乗り、水郷を巡りながらアヤメの花を楽しむのです。
私も長い間、潮来につながる霞ヶ浦でヨットをしていたので2,3度行って見ました。
2008年の6月17日に撮った写真に従ってお話を進めて行きたいと思います。

1番目の写真は先程庭で撮った我が家の潮来から移住してきたアヤメです。まだ葉だけですが蕾が数個ついているので今年も咲くでしょう。もう12年間も我が家の庭に咲いています。

2番目の写真は2008年6月10日頃に妻が土浦港の岸壁の上から私とヨットを取った写真です。
私がジブ・シートを手放してしまい、ヨットが傾いて怖い思いをしている場面です。こんな見っともない写真は珍しい光景なので忘れられません。

3番目の写真は妻をヨットに乗せ、霞ヶ浦の沖に出た時の風景です。はるか沖の東端の潮来までヨットで行けないかどうか調べるために沖へ沖へと走りました。湖の中央まで行くと東端の岸辺が見えます。なんとそこには低い橋がかかっているのです。
帆柱の高いヨットは到底通過出来ません。仕方がないので、その日はそのまま帰って来ました。
そして一週間後、今度は私が独りで土浦港から高速ジェットホイル船に乗って、霞ヶ浦を横断して潮来まで行きました。この観光船は何時もは霞ヶ浦を一周している遊覧船です。しかし『潮来あやめ祭り』の期間中だけ潮来と土浦港を直行で往復しているのです。

4番目の写真とそれ以下の写真はこうして潮来に行って撮った写真です。





お祭りなので、あやめの咲いている周囲の路地には露天が沢山出ています。根のついたいろいろな色彩のアヤメの株も売っています。
数株買って来ました。それ以来、12年になりますが、毎年、毎年、我が家の庭に潮来のアヤメが咲いています。

このように花のある場所を訪れたら、根の着いた花の株を買うようににしています。
伊豆半島の下田の爪木岬では野生の日本水仙を買いました。それも毎年、春に花を咲かせています。
潮来のアヤメの写真を撮ってから12年になります。月日の流れは早いですね。
年老いて体力も無くなり9年前にヨットも止めました。
皆様には花にまつわる楽しい思い出はおありでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
潮来市の観光の歴史;http://www.city.itako.lg.jp/index.php?code=1175

潮来市は、古くから水運陸路の要所として栄え、大化の改新のころ国府(現在の石岡市)から鹿島神宮ヘ通じる駅路「板来の駅」を設けたのがまちの始まりだと伝えられています。その昔は、地名を「伊多古」「伊多久」と称し、また常陸風土記には「板来」と書かれていたのを、元禄年間に徳川光圀公が「鹿島の潮宮」にあやかって「潮来」と書き改め、今日に至っていると云われています。
近世になると、奥州諸藩の物産を集めて江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川にて潮来に至り、潮来で1~2反帆の高瀬舟に積み荷の積み替えを行い、前川は行き交う大小の船で賑わい、荷の揚げ降ろしの船付場(河岸)が続き中継港として大いに繁栄をしました。
しかし、潮来が大いに繁栄したのは、この江戸時代中期ころまでであり、元文年代(1736~1740年)の大洪水で利根川の本流が佐原地方に移ると、中継港としての機能を失ってしまいました。

さらに、明治に入って常磐線が開通し、陸運が盛んになってからは、水運は一挙に衰退し、それに歩調を合わせるかのようにして潮来も寂れてしまいました。
それ以来、この地方では、産業らしき産業もなかったことから、地元の若い娘の収入源として、観光客の案内を兼ねてサッパを操ったところ観光客に好評を博したことから“娘船頭さん”として知られるようになりました。
昭和30年3月には、美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的に知られるようになりました。
この地方は、周囲を水に囲まれた水郷地帯であったことから、この地域一体には水路(江間)が縦横に張りめぐらされ、嫁入りする際に花嫁や嫁入り道具を運搬するときにもサッパ舟が使われており、昭和30年前半ごろまでは日常的に行われていました。
この嫁入舟が、全国的に知られるようになったのは、昭和31年10月に松竹映画「花嫁募集中」とタイアップし“ミス花嫁”を募集したことがきっかけとなり、花村菊江さんが歌った「潮来花嫁さん」の大ヒットによりさらに全国的に知られるようになりました。

「黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのか?」

2020年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領が黒人差別反対デモの鎮圧に軍隊を使うと言ったことで黒人を支持するデモが全米とヨーロッパの主要な都市で行われています。まさしく欧米社会は広汎な黒人差別反対運動で揺れ動いているのです。
しかし日本では黒人差別反対デモなど気配もありません。

そこで今日は黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのかという問題を考えてみたいと思います。
その前に次の2つの短い記事をご覧ください。

(1)黒人差別反対のデモが全米50都市に拡大
「全米25都市で夜間外出禁止 黒人暴行死、デモ広がる」、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59803160R30C20A5I00000/
【シリコンバレー=佐藤浩実】米白人警官の暴行による黒人死亡事件で30日、米メディアによると抗議活動が50都市に拡大し、25都市以上が夜間外出禁止令を出した。軍による治安維持に乗り出す州もある。ただ人種問題に根ざす抗議活動を抑え込むと火に油を注ぎかねず、当局は難しい対応を迫られている。
30日もニューヨークなど全米各地で大規模なデモが続いた。ロサンゼルスやシカゴなど25都市以上が夜間の外出禁止令を出した。ミネソタ州のワルツ知事は最大で1万3千人強の州兵をミネアポリスの監視に充てると表明。国防総省も陸軍を動員する準備に入った。
発端はミネソタ州ミネアポリスで5月25日に黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官の暴行を受け、その後死亡した事件だ。「息ができない」と助けを求めるフロイドさんの姿を現場に居合わせた市民がSNS(交流サイト)に投稿した。警官は29日に殺人容疑で逮捕されたが、抗議活動は収まる気配がない。・・・以下省略します。

1番目の写真は警察署の建物も放火された光景です。写真の出典は、https://news.yahoo.co.jp/byline/inosehijiri/20200529-00180916/ です。

2番目の写真は米国の一部で抗議活動が過激化している光景です。(5月30日、ミネソタ州)
写真の出典は、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59803160R30C20A5I00000/ です。

3番目の写真はシカゴでデモ参加者が市営バスの屋根に上り、「正義がない限り、平和はない」と訴えた光景です。
写真の出典は、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59803160R30C20A5I00000/ です。

(2)ヨーロッパでも黒人差別反対のデモが広がっている様子
「 欧州でも抗議デモ 数千人参加、差別に怒り―米黒人拘束死」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020060100650&g=int
以下の記事は、5月31日、ベルリンの米大使館前で、黒人死亡事件をめぐりプラカードを掲げて抗議する人(EPA時事)の写真の下の記事です。
 【ベルリン時事】米ミネソタ州で黒人男性が白人警官に拘束されて死亡した事件をめぐり、ドイツや英国など欧州でも、数千人規模の抗議デモが続発している。米国同様に移民が多い欧州にも、人種差別への怒りが波及している形だ。
「白人優位を扇動」 米歌手のT・スウィフトさん、トランプ米大統領を批判
 ベルリンでは新型コロナウイルスによるデモの人数制限が撤廃された5月30日、米国大使館前に約2000人が集結。「(事件被害者の)ジョージ・フロイドに正義を」「警察の差別的暴力に反対」などのスローガンを掲げて抗議した。31日にも、ブランデンブルク門など中心部で約1500人が行進。参加者の多くがマスクを着け、距離を取りつつ抗議した。
 英BBCによると、ロンドンでも31日、米大使館前やトラファルガー広場などで、数千人が「黒人の命は重要だ」などと書かれたプラカードを掲げて練り歩いた。デンマークのメディアによると、コペンハーゲンでも同日、米大使館前などで抗議デモが起きた。

(3)黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのか?
日本には日本の事情があるのです。黒人差別反対のデモが日本で起きない理由は次のように考えられます。

1 白人と黒人の対立は19世紀の黒人奴隷制度の確立以来の歴史があるので、差別反対のデモなどでは解消しない。何もしないのが正しい態度だ。
2 アメリカやヨーロッパは日本とは異質の世界だから日本は黒人差別反対の騒ぎに巻きまれる必要はない。
以上のようなものが日本人の心情ではないでしょうか?

しかしこのままで良いものでしょうか?日本人も人類のメンバーとしてアメリカの黒人差別には反対すべきではないでしょうか?
日本にそんな気配も無いことに私は危惧しています。日本人には人種を超えたヒューマニズムは無いのでしょうか?
皆さまのご意見を頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


「今日の日記、色鮮やかになったアジサイの花の写真を撮りに行く」

2020年06月03日 | 日記
小金井公園の南に五日市街道が玉川上水に沿ってあります。玉川上水の土手が緑地になっていて、一週間くらい前から紫陽花が咲き出しました。毎日、色が少しずつ鮮やかになって来ます。今日、もう見頃だと思い写真を撮りに行きました。
五日市街道は車の往来が激しいので車を駐車場に入れ、家内が車を降りて道路を渡り丁寧に写真を撮ってくれました。
お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









「四国の遍路さんとスペインの巡礼者の写真」

2020年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
四国には88ケ所の遍路があります。ヨーロッパにもそれと似た道があります。フランスの各地からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に続く長い道です。
今日は四国のお遍路さんとスペインの道を歩いている巡礼者の写真を示します。
始めの3枚の写真は四国のお遍路さんで後の2枚は巡礼者の写真です。









四国のお遍路さんは同行二人と言って弘法大師様と一緒に歩いています。ヨーロッパの巡礼者はイエス・キリストさまと一緒に歩いています。それだけです。それだけで歩いている人は幸せなのです。
私も歩きたいとは思いつつ老人になってしまいました。こうして写真を見て歩いた気分になっています。
皆様のなかで、お遍路さんになったことのある方は幸せです。巡礼者になったことのある方は幸せです。

四国に住む人はお遍路が過酷な旅であることを知っています。そのため、お遍路さんを応援する気持ちを込めてお接待をします。「お接待」という文化です。お接待とはお遍路さんにお菓子や飲み物などを無償で施すことを言います。

遍路地は四国八十八箇所だけではありません。江戸時代より小豆島には小豆島八十八箇所霊場、江戸には御府内八十八箇所霊場、九州には篠栗八十八箇所霊場、また奈良県大和郡山市には八十八ケ所霊場巡もあります。全国各地に大小様々な巡礼地があるのです。

一方スペインの巡礼道は 1000年以上の歴史を持つ聖地への道です。今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えます。スペインに入ると、巡礼の拠点の街があります。巡礼事務所があり、名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取ります。
巡礼者のために無料の宿泊所もあります。こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」もあります。食事も用意されます。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っているそうです。四国のお接待の文化と同じです。

人間の考えることは似ています。人生の苦しさから救われたいのです。永遠の安らぎを願っているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

湯浅由三著、「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝と混沌」

2020年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム
若い友人から自分で書いた本を送ってきました。読み始めたら大変面白く一気に読んでしまいました。何故面白かったか理由を書くのは後にしてこの本の表紙の写真を示します。

この幻冬舎の文庫本は660円で購入出来ます。「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝の渾沌」を検索するとAmazonなどのネット販売のページが出てきます。

さて本の内容ですが、茨木県の地方史では有名な黒澤止幾子が何故「勤皇の女傑」と明治時代に有名になり、昭和時代には「日本最初の女教師」として有名になったのかその理由を明快に書いた本です。そして湯浅由三の見解です。「黒澤止幾子は「勤皇の女傑」でもなく「日本最初の女教師」でもなかった。短歌や長歌を沢山作った歌人だった」という結論です。
この本の面白みはこの2つの虚像の出来た茨木県の社会情勢のありさまを克明に調べ正解を出しているところが興味津々なのです。そして全ては虚像だというドンデン返しの謎解きがあるのです。
そのために 湯浅由三は茨木県にある黒澤止幾子に関する全ての文献を根気よく蒐集し読み下しています。その態度は地方史の文献調査をする学者のようです。
そしてドンデン返しの謎解きまでの構成が推理小説のようになっていて面白いのです。

ここで一休みして黒澤止幾子の略歴をご紹介いたします。
黒沢 止幾子は文化3年(1807年)に生まれ、- 明治23年(1890年)に亡84歳で亡くなりました。
常陸国茨城郡錫高野村(現・茨城県東茨城郡城里町)出身でした。名は止幾・登幾・止幾子(ときこ)とも言います。歌人としての号は李恭でした。
若い時代から寺子屋で物書きを子供たちに教えるなどしていましたが、26歳のときに夫と死別します。以降は実家へ戻り生活していました。
1858年に安政の大獄事件が起きます。郷里の殿様であった徳川斉昭を始めとする尊皇攘夷派が弾圧されたのです。黒沢 止幾子はそれを悲しみ斉昭らの無実を訴えに京へと上り、お上への献上歌を公家を通して手渡したのです。
このことが江戸幕府に知られ京都で逮捕されます。幕府が弾圧していた水戸藩とつながりがあると疑われ、厳しい尋問を受けたのです。その裁判の結果、常陸国や江戸への立ち入りを禁止されたために、故郷に近い今の栃木県茂木へと住むことになります。
その後茨木の錫高野村へと戻った止幾子は、村長から小学校の教師をしてくれと依頼され、1873年、正式に日本初の小学校女性教師となったのです。 1890年、85歳で死去しましたが、1907年に明治政府から従五位が追贈されました。

「勤皇の女傑、」と誇張された理由は京へ上りお上への献上歌を差し出したためです。「日本最初の女教師」は1873年、正式に日本初の小学校女性教師になった偶然から有名になったに過ぎないのです。
湯浅由三は最後に書いています。
・・・黒沢 止幾子本来の姿は、歌人、俳諧人としての生涯でした。・・・84歳の生涯の間、歌集35冊、短歌だけでも404首、他に漢詩、長歌、俳句などを数多く残しています。・・・
「くちせずば いつか渡らん みちのくの あぶくま川の そこのうもれ木」

なお。「時代に創られた偉人黒澤止幾子伝の渾沌」にある渾沌は湯川秀樹博士の物理学の随筆にある渾沌のことで普通の渾沌の意味ではありません。著者の博識に頭が下がります。

とにかく 湯浅由三著のこの本は完成度の高い黒澤止幾子の実像の評伝です。ご一読をお勧めします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


「幾つもの暗いトンネルを抜けると悲しい湖が広がっている」

2020年06月01日 | インポート
山奥の湖は寂しいものです。そして悲しい物語がまつわっていることがあります。奥多摩湖もその一つです。
一昨日、暗いトンネルを幾つも抜けて奥多摩湖までドライブして来ました。
まずその折に撮った写真を5枚お送りいたします。









湖の風景を眺めながら小鳥の声を聞いていました。梅雨が近いのか曇りですが、空気が爽やかです。平和な眺めです。
しかし突然悲しいこと思いだしました。
この大きなダムの建設工事で犠牲になった殉難者の慰霊碑を思い出したのです。ダムの南側にある87名の殉難者の慰霊碑です。
87名の半分くらいが金とか李とか朴とか朝鮮系の名前なのです。
奥多摩湖にまつわる悲しい話はこれだけではありません。
湖底に沈んだ小河内村の人々は悲しみながら故郷を離れ移住して行ったのです。移転総数は945世帯だったのです。
大正15年ダム建設予定地となってから、昭和6年絶対反対を表明した村は幾たびも国と交渉を重ねました。
昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意が出来ました。華々しく起工式が行われましたが、第二次大戦で工事は中断されました。

小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで次のように書いています。
・・・「千數百年の歴史の地、先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」・・・
この『湖底のふるさと小河内村報告書』の内容は、https://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fs/e/2fe8b1559b226d7c6422de6b1fe785c6 に出ています。
この報告書は、小河内村のダム建設に振り回され困り果てていく姿とその窮状を都議会へと訴え出て何とか解決しようという戦いの記録として残されたものです。
 直ぐに離れることの決まった耕地を耕すものはいなくなり、村は荒廃し、収入を得られなくなったことで貧窮に追い込まれていく村の様子が書かれています。そして昭和13年にようやく起工式を迎えます。
その後第二次世界大戦による中断がありましたが1957年(昭和32年)に竣工しました。そして1961年(昭和36年)には昭和天皇・香淳皇后が小河内ダムを視察します。
さて移住の苦難や悲しみは筆舌に尽くせませんが一つだけご紹介します。
八ヶ岳の麓に移転した酒井冶孝さんの手記です。(http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=411)
 白いモダンな形の魔法瓶。それがダム竣工式の記念品だった。当時は未だ珍しく、とても重宝させて貰ったものだ。顧みますと都民の水の確保と言う大儀の中で住民のそれぞれが新天地へと移動、我々の祖先は県営開墾事務所長、安池興男先生の斡旋により八ヶ岳への入植を決意。昭和13年4月大きな不安と期待を胸に2才の私と3才の姉を連れ、仲間28戸清里駅に降り立ち以来先生との深い交わりが生まれ運命を共にしたのです。足を踏み入れた八ヶ岳山麓は一面の笹の荒野で、物資の乏しい中での開墾の明け暮れ、気候的には夏青天井が我が家なりと快適だったが冬の雪と寒さは想像をはるかに絶し、誰れ彼れとなくこれでは子供が可哀想だ、学校がほしいと安池興男先生に懇願、早速国や県に交渉するも理解が得られず最終、水道局のご高配により、これが大きな力となり昭和15年7月苦心の学校が完成。その経過は筆舌に難いものがあり当時における最大のエピソードである。その後住宅をはじめ計画された総てが完了、今日の基礎になっています。・・・
新緑の美しい奥多摩湖にまつわる歴史を想う時その悲しい歴史を忘れることが出来ないのです。
日本の、そして朝鮮の労働者が87殉難したのです。その上、945世帯の小河内村の人々が悲しみながら故郷を離れ移住して行ったのです。いつの時代でも下積みの人々が犠牲になるのです。
このような悲劇は全国のダム建設にまつわっているのです。数年前に騒がれた八ツ場ダムの建設も下積みの人々が犠牲になっているのです。
美しい風景を眺めながら、湖にまつわる悲しい出来事を考えていました。新緑の山々を渡る風は何事も無かったように過ぎ去っていきます。5月も終わり今日から6月です。間もなく梅雨入り宣言もあるでしょぅ。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)