後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「イグナチオ教会の今日の 『第17日ミサ 』 の動画配信」

2022年07月24日 | 日記
2022年7月24(日) の朝10時からの年間第17主日のミサの動画配信をご案内致します。
朝10時以後でしたらミサの動画配信で何時でもミサにあずかることが出来ます。
イグナチオ教会の今日の 『第17主日のミサ 』 の動画配信は以下にあります。
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

なお関口教会からも動画配信があります。

写真は長崎の26聖人像です。
写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/ushi3730/archives/49388895.html です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)






「元気なヒマワリの花を見て暑さを吹き飛ばそう」

2022年07月23日 | 写真
暑いですね。こんな時は元気なヒマワリの花を見て暑さを吹き飛ばしましょう!
写真と文の出典は、https://gogen-yurai.jp/himawari/ です。

・・・ひまわりは、太陽の移動につれて花の向きが回ることからの名である。
しかし、実際はそれほど動かず、ひまわりが太陽の動きに合わせて回るのは成長が盛んな若い時期で、花が咲く頃には動かなくなる。
他にも同じような動きをする植物は多く存在するため、動きだけでなく、太陽を連想させる花の色や形、咲く季節も影響したと思われる。
ひまわりの漢字は、漢名の「向日葵(こうじつき)」に由来する。・・・



「今日は土用の丑の日なので蒲焼きの写真をお送り致します」

2022年07月23日 | 写真
暑い、暑いと思っていましたら今日は土用の丑の日です。鰻の蒲焼きが食べたくなる日です。
そこで今日は鰻の蒲焼きの写真をお送り致します。写真は、「土用の丑の日に関連したの写真」を検索して、インターネットの写真から選びました。

ウナギの蒲焼は江戸時代以前から存在していました。昔は現在の蒲焼とは異なりウナギをぶつ切りにし、串刺しにして焼き味噌や塩をかけて食べていたのです。その形がガマの穂に似ているため、「蒲(ガマ)焼き」と呼ばれるようになります。次第に訛り、「蒲焼」と呼ばれるようになったのです。
1670年代に書かれた「東海道名所記」には、原宿と吉原宿の間にあった新田という場所がウナギの蒲焼の名所として挿絵入りで紹介されています。
ウナギは皮が厚く味がなかなか染みこまないので、江戸中期に関西ではウナギを腹から割き骨を取り串を打ち、焼いて醤油と酒のたれをつける方法が出来ます。それが江戸にも伝わり江戸中期には現在の蒲焼が出来たのです。
 






「ダリアの花の写真をお楽しみ下さい」

2022年07月22日 | 写真
今朝、「東京が焼野原になる前の戦前の街の風景」という記事を書いていたらダリアの花をしきりに思い出しました。
戦前に住んでいた家の庭にダリアの花とマーガレット花がたくさん咲いていたのです。
そこでダリアの花の写真をお送り致します。

写真は、「ダリアの花の写真」を検索して、インターネットの写真から選びました。



 

「戦後の日本を変えたもの(2)憲法で保障された男女同権とその結果」

2022年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の日本は 男女平等 でなかったのです。男女同権でありませんでした。
敗戦の結果としてアメリカ占領軍が日本へ男女同権をを持ち込んで来のです。そして1947年に男女平等を保障した日本国憲法が施行さたのです。同じ年に労働省に婦人少年局が新設されました。女性に選挙権が与えられたのです。
戦後の男女同権は江戸時代からの日本人の男女差別思想を根本的に変え行ったのです。
今日は江戸時代からの男女差別を振り返り、戦後の男女同権の思想が日本をどのように変えて来たかを書きます。そして最後に料理を作ったり子守をする現在の夫の写真を示します。この写真こそが戦後の男女同権の思想の具体的な効果なのです。戦後、77年経過して日本の男は写真のように変わったのです。
さて江戸時代からの流れを下記の資料から抜します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%90%8C%E6%A8%A9
江戸時代の日本では儒教による支配層の統治が強まった結果として男尊女卑も強くなりました。幼きは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従えという教えでした。結婚は家と家とによる婚姻制度だったのです。男女の個人的な恋慕の情は無視される傾向でした。江戸時代はそんな時代だったのです。
しかし明治近代期以降も儒教的道徳が残り女性の参政権は認められず投票権は無かったのです。家庭にあっても忍従が美徳とされていました。
ところが第二次世界大戦の敗戦後、アメリカ占領軍による五大改革が実行されたのです。その日本の戦後改革の第一項目に「婦人解放」が盛り込まれ女性の参政権が認められたのです。
しかし国際的にみて現在のでもの男女間の差異の大きさは深刻な問題です。男女差別が今なお続いている要因はどこにあるのでしょうか?
その要因の一つに戸籍という仕組みの存在が考えられます。戸籍のもとを辿れば律令制度で徴税や徴兵のために戸籍を作成されました。女は「戸」のなかで「売(め)」、つまり女であるという記号をつけて男女を差別して記載したのが始まりです。やがて「家」という単位ができて、男系で継承されるようになっていきます。さまざまな社会の仕組みが「戸」単位で考えられ、その代表者である戸主は常に男性でした。
江戸時代の家系図などでは、男性の名だけが代々書かれ、女性の場合は個人名もなく、ただ「女子」「女」と書かれているのです。家を継ぐ男性が優先されていたのです。
この男女差別の考えは現在でも強く残っています。例えば一般に会社の部長や課長は男性が多く女性社員は結婚・子供が出来ると辞めるという暗黙の習慣があります。
他の例では日本では政治家は圧倒的に男性が多いです。日本では女性が総理大臣になった例がありません。
社会はそんな風潮ですが家庭では女性の権利が強くなりました。これが、戦後の男女同権の思想の産物です。
最後に料理を作ったり子守をする現在の夫の写真を示します。写真の出典は、
https://domani.shogakukan.co.jp/421619 です。
1番目の写真は現在の主婦が料理を作っている場面です。この写真を見ると時代の変化を感じます。私の母は真面目に貧しい材料で料理を作っていました。厳しい顔でした。現在は食材も豊富で主婦は楽しみながら料理を作っています。
2番目の写真は夫が料理を作っている場面です。私も料理を手伝いますが材料は妻が切ります。私の分担は煮たり、焼いたり、揚げたりと火を使うことです。エプロンなぞは絶対につけません。男の沽券かかわります。
3番目の写真も夫が料理を作っている場面です。何時もしているようで手つきです。料理が趣味なのでしょう。エプロンなぞつけてない姿が良いです。
4番目の写真は夫が子供と遊んでいる場面です。昔の父親は厳しく怖い存在でした。私は父親とこんな風に遊んだ記憶がありません。時代の変化に感無量です。

5番目の写真は父親が子供を肩車している場面です。昔の父親はしませんでした。私は父親より若い叔父に肩車をしてもらい大変楽しかったことを記憶しています。

今日は江戸時代からの男女差別を振り返り、戦後の男女同権の思想が日本をどのように変えて来たかを書きました。そして最後に料理を作ったり子守をする現在の夫の写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

 「8月15日終戦の日に咲いていたキョウチクトウの花」

2022年07月20日 | 写真
8月15日終戦の日に咲いていたキョウチクトウの花です。
キョウチクトウ(夾竹桃)は常録高木で、樹高1~4mいなります。
開花期は7月~9月です。
キョウチクトウは花が美しく、竹の葉のような細長い葉が冬にも濃い緑を保ちます。排気ガスにも強いことから街路樹に用いられています。

しかしキョウチクトウは猛毒です。口に入れなように注意しましょう。
地中海沿岸からヨーロッパ、アフリカ大陸の西に浮かぶケープベルデ島が原産で、日本には江戸時代に渡来しました。 




「戦後の日本を変えたもの(1)1964年東京オリンピックと新幹線」

2022年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の高度成長のきっかけになったのは1964年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通でした。
今日は写真に従ってこの歴史を振り返ってみましょう。

1番目の写真は仙台市の焼け野原の光景です。1945年の終戦当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っています。 
全国200市町村が空襲によって焼け野原になったのです。

2番目の写真は1945年9月27日、連合国軍総司令部のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇と マッカーサー元帥です。
1945年、昭和20年の敗戦により日本人は自信を失い暗い社会になりました。食糧難と相まって人心が荒れ犯罪が多い時代が続きました。
そんな暗い日本へ明るい希望を与えたのが古橋広之進の自由形400m、800m、1500mの泳ぎで世界新記録を連発したことでした。そしてプロ野球や大相撲も復活し次第に社会の雰囲気が明るくなったのです。その後、日本は経済の高度成長をとげ現在の豊さを手中におさめたのです。
この高度成長のきっかけになったのが1964年の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通でした。

3番目の写真はこのオリンピックの開会式で行進する日本選手団です。

4番目の写真は聖火リレーの最後の走者の坂井義則選手が競技場の聖火台に登る場面です。
このオリンピックでの日本のメダル獲得数はアメリカとソ連についで第3位でした。
1位、 アメリカ合衆国 金36 銀 26 銅28 合計90
2位、ソビエト連邦 金30 銀31 銅35 合計96
3位、日本     金16 銀5 銅8   合計29
4位、ドイツ  以下省略。
印象に残った場面は沢山ありますが例として女子バレーの日紡貝塚チームの活躍がありました。

5番目の写真は「東洋の魔女」と言われた日紡貝塚チームの競技中の様子です。
活躍は日紡貝塚チームだけではありませんでした。日本は金16 銀5 銅8、合計29個のメダルを取ったのです。
この他に男子陸上マラソンで3位になった円谷幸吉選手のひたむきな走りが忘れられません。

6番目の写真は男子陸上マラソンの表彰式の様子です。表彰台の上の3人の右が円谷幸吉選手です。
東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれました。競技や施設を見る旅行が増えカラー放送のテレビ受像機購入が飛躍的に増加しました。
このため日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらしたのです。
特に開催地の東京では競技施設だけでなく東京モノレール羽田空港線や首都高速道路やホテルなど様々なインフラストラクチャーの整備が行なわました。
東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業したのです。
特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ羽田空港から国立競技場までつながり、その先まで次々に完成しました。そして首都高速都心環状線ルートは大会前に完成したのです。
また「ゴミ都市」と呼ばれていた東京にゴミ収集車が250台導入されました。
東京オリンピックで初めてコンピューターによる記録管理が行なわれたことも重要な出来事でした。
そして東海道新幹線の世界に影響を与えたのです。

7番目の写真は1964年(昭和39年)10月1日に東京駅 - 新大阪駅間に走ったコダマ号です。

8番目の写真は現在の新幹線の車両です。
世界初の210 km/h運転を達成した新幹線の成功は欧米各国に大きな影響を及ぼしました。
鉄道先進国のフランスは1967年5月28日よりパリ - トゥールーズ間の列車「ル・キャピトール」を欧州において初めて200 km/hで運転します。
その他、ドイツ (ICE) やイタリア(ディレッティシマ)でも高速列車が計画され実現に移されました。
このように東海道新幹線は世界の鉄道の高速化をして、その技術輸出と車両輸出は日本の高度成長の大きく貢献したのです。

以上のように日本は経済の高度成長をもたらしたのは1964年の東京オリンピックと東海道新幹線の開通でした。
今日はこの東京オリンピックと東海道新幹線の開通を簡単のご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 


「マーガレットの花の写真です」

2022年07月19日 | 写真
今朝、「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」の記事を書きながらマーガレットの花を思い出していました。戦前、戦後の当時住んでいた仙台の家の庭にはマーガレットの花がいっぱい咲いていました。父が好きな花でした。
そこで、マーガレットの花の写真をお送り致します。
写真の出典は、「マーガレットの花の写真」を検索して、インターネットに出て来る写真をお借りしました。






「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」

2022年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。
しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。
1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。
2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。
3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線が東北本線を走るようになったのは最近のことです。しかし兵庫に行く東海道本線は戦前から特急「つばめ号」は電気機関車でした。
4番目の写真は仙台を走っていた市電です。高度成長の頃に撤去され姿を消しました。24歳でアメリカ留学で仙台を離れるまでよく乗ったものです。
5番目の写真は塩釜の連絡船の乗り場です。連絡船は松島、桂島や宮戸島へ行きます。連絡船に乗って松島、桂島や宮戸島へよく遊びに行きました。

6番目の写真は函館行きの最終便です。青函連絡船「八甲田丸」の工藤民雄船長ら乗組員が最終便の儀式の場面です。(1988年03月13日)

これらの写真で示したものはみんなこの世から消えてしまったのです。私の記憶の中だけ残っているだけです。それにしても昭和は遠くなったものです。
消えてしまいましたが今でも懐かしく思い出すものを列挙してみます。
釜戸(竈)、七輪、井戸と釣瓶(つるべ)ポンプ、炬燵にちゃぶ台、お茶の間と茶箪笥、鉱石ラジオ、真空管ラジオ、手回し蓄音機、レコードに電蓄、蒸気機関車、市電に都電、焼玉エンジンの小さな連絡船、青函連絡船、などなどです。
これが完全に消えたのは1980年代の経済の高度成長の頃だったのです。
皆様は昔のことが非常に懐かしくなりませんでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)
===追記==========================
仙台にまつわる懐かしい歴史的な5つのエピソード

(1)ベーブ・ルースが来たエピソード
昭和9年11月9日にベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが仙台に来ました。仙台の青葉城の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
ルースは日本に来て初めて一試合で2本のホームランを打ったほか、ゲーリックなどもホームランを打ちました。試合は7対0でアメリカチームの勝です。
ベーブルースがホームランを打った八木山球場があった場所は現在、仙台市立動物園になっています。

(2)仙臺味噌と四代目八木久兵衛のエピソード
仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。
江戸時代には仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県一円で製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。
そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。
明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。
この八木久兵衛のお陰で仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。

(3)仙台が見知らぬ町になってしまったエピソード
仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。
その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。賑やかな商店街でした。
しかし、大正、昭和と時が流れるに従って「東一番丁」が繁華街となったのです。「東一番丁」に三越百貨店と藤崎百貨店が出来、仙台一の商店街になりました。私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。
仙台を出て東京に暮らすようになって60余年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅に度々行きました。仙台は見知らぬ白い街になっていました。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。

(4)仙台の七夕祭りにまつわるエピソード
故郷の仙台の七夕祭りは毎年の8月6日、7日、8日と開催されます。懐かしい夏祭りで、私は夏の間折にふれ思い出します。
毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。
結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。
ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。

(5)仙台の亜炭にまつわるエピソード
私の住んでいたところは向山という地区でした。向山は仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山には亜炭を掘り出す横穴がいくつもあったのです。亜炭は仙台の家々で毎日使う燃料でした。仙台には亜炭の独特な煙の臭いが漂っていたものです。
亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台などで当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。 

「私の故郷を写真と動画 でご紹介します」

2022年07月18日 | 写真
インターネットには全ての情報があります。

そこで我が故郷の仙台の写真と風景の動画をご紹介いしたいと思います。

仙台の風景の動画は下記をクリックすると出て来ます。

https://www.youtube.com/watch?v=ofgDe5pXlzc
https://www.youtube.com/watch?v=gTekhca3fTA
https://www.youtube.com/watch?v=4M5UyqOX8_g
https://www.youtube.com/watch?v=pJPHnRCSBp8

最後の動画は私が昭和11年に生まれ昭和35年まで住んでいた向山の風景です。向山は鹿落坂を登った場所にありました。懐かしい所です。





「土用の丑の日、ライン河のウナギの蒲焼きと観光船の思い出」

2022年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の土用の丑の日は7月23日の土曜日です。毎年この頃になるとライン河の鰻の蒲焼と観光船のパーティのことを思い出します。
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を自分で作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河だそうです。流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れるとそうです。

1番目の写真は日本の鰻の写真です。ドイツで買ったウナギと同じでした。
写真の出典は、https://www.lettuceclub.net/news/article/191690/ です。
ドイツではウナギは一般には棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って蒲焼を作ることを決心しました。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。

2番目の写真はウナギを割いて作ったうな重の写真です。こんな蒲焼きをイメージしながらオーブンで焼きました。この写真の出典も、https://www.lettuceclub.net/news/article/191690/ です。

オーブンで焼いていると家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。
客の青年が泥臭いウナギを礼儀上、食べていたのです。私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。まずライン河の風景を見ましょう。

3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です。

4番目の写真は船上パーティに使った船と同じような観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っています。

あれは1978年でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろな違いを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。

6番目の写真はいろいろな民族衣装を着たドイツの娘さん達の写真です。
この写真の出典は、https://sekach.com/dirndl/ です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのような観光船でのワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)