後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「関 健造 作の油彩画、『奥入瀬』など」

2024年10月21日 | アート・文化
懐かしい日本の原風景を描いた関健造の油彩画をみて今日も秋の日が過ぎて行きます。
今日は関健造の油彩画をお送り致します。
関健造は1948年岐阜に生まれました。そして岐阜県で活躍しました。県展入選、行動展出品、岐阜にてグループ展、岐阜にて個展、以後数回、などです。関健造の油彩画は静かな秋の秘に見ると感慨が深いと思います。関健造の油彩画の写真をお送り致します。

1番目の写真は関健造の『秋の奥入瀬渓流』です。

2番目の写真は上高地です。

3番目の写真は晩秋の風景画です。

4番目の写真は晩秋の岐阜の風景画です。

その他の関健三の油彩画の一覧は下記に出ています。
https://auctions.yahoo.co.jp/search/search/%E9%96%A2%20%E5%81%A5%E9%80%A0/0/

関健三の風景画は日本人にとって心にしみる風景です。美しい静かな風景です。見ていて和やかな気分になります。こうして静かに秋の日を過ごします。

れはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「2024年10月20日 年間第29主日ミサ」

2024年10月20日 | ブログ
2024年10月20日 年間第29主日ミサです。
今日はインターネットを通うして東京の「カトリック松原教会」のミサにあずかります。

写真は今日のミサの風景です。

ミサの動画配信は下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=x2oyG-iw6oE...

〒156-0043
東京都世田谷区松原2丁目28番5号
TEL. 03-3321-0941
FAX. 03-3321-0009
matsubara-church@gray.plala.or.jp

「秋になると思い出す北海道、松浦武四郎のこと」

2024年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
秋の北海道は素晴らしい景観を見せてくれます。ヨーロッパのようなエキゾチックな風景が魅力的です。ロマンチックです。自然には太古のままのような雰囲気もがあります。特に秋の北海道は、やがて来る厳しい冬の予感も与えています。もう15回くらいも家内と二人で訪れました。
今日は朝から秋の晴天です。つい北海道の風景を思い出しました。そこで2015年に知床のウトロに泊まり羅臼や道東に旅した時の写真をお送りします。

1番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から高く作った立派な木道があり、一湖を見下ろす展望台まで歩いて行けるのです。背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。

2番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも数多くいました。

3目の写真は新得町狩勝高原の釧路湿原に続く畑作地帯にいた鶴の一家です。

4番目の写真は知床五湖の近くにいたヒグマです。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのを車窓から撮りました。

5番目の写真はウトロの漁港です。写真の中央の岩山に一度だけ登ったことがあります。観光客が登れるように道がついているのです。

この地に「北海道」の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。それまでは北海道は蝦夷地と呼ばれ、北海道という名前は無かったのです。その蝦夷地にはアイヌ人が住んでいました。アイヌは縄文人が弥生人と混血しないで残った原日本人なのです。
北海道は本州の北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
このアイヌ民族を愛し北海道の各地の名前にアイヌ語を残したのが松浦武四郎でした。
松前武四郎の生涯をご紹介します。
文化15年(1818年)、伊勢国の一志郡須川村に生まれました。
父親は庄屋を営んでおり比較的恵まれた家で教養を身に付けます。13歳から3年間、漢学者・平松楽斎のもとで学び、山本亡羊からは本草学を学びました。16歳から諸国をめぐったようです。
弘化元年(1844年)に蝦夷地探検に出発します。26歳の時です。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、松前武四郎の探査は択捉島や樺太にまで及びます。
安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版したのです。
明治2年(1869年)、51歳の時には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定したのです。北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺しました。
明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描きました。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。享年70歳でした。
以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。

以上のように松浦武四郎はアイヌの伝統文化を尊重し、北海道の各地の地名にアイヌ語の地名をそのまま残したのです。サッポロも漢字表記にして札幌と書いたのも彼です。
松前武四郎のおかげで北海道にアイヌ語の地名が多数残ったのです。何故か感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===北海道のアイヌ語の地名==========~=
赤平(あかびら) 旭川(あさひかわ) 芦別(あしべつ) 足寄(あしょろ) 厚岸(あっけし) 厚沢部(あっさぶ) 厚田(あつた) 厚別(あつべつ) 厚真(あつま) 網走(あばしり) 虻田(あぶた) 硫黄山 伊香牛(いかうし) 幾春別(いくしゅんべつ) 生田原(いくたはら) 石狩(いしかり)などなど多数。以下省略。
http://www1.plala.or.jp/kanakikaku/ainutimei.htm

「秋の山並みの写真」

2024年10月20日 | 写真
山梨県にある私の山林の中の小屋に近い山並みの写真をお送り致しす。
写真は甲斐駒ケ岳、八ヶ岳、最下段は私の山林の中の小屋の庭のを流れる小川です。
撮影場所:山梨県北杜市武川町柳沢より、撮影日時:2008年10月28日午前11時頃

「ドイツの草原にはススキもパンパスグラスも無かった」

2024年10月19日 | 写真
植物は国によって違うようです。ドイツの草原にはススキもパンパスグラスも見ませんでした。その代わり大麦畑が広がっています。その写真をお送り致します。

出典は、https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%BA%A6%E7%95%91%E3%81%AE%E5%AF%AB%E7%9C%9E です。

「欧米にはススキは無い、その代わりパンパスグラスがある」

2024年10月19日 | 写真
ススキはアジアの植物でアメリカにはありませんでした。その代わりパンパスグラスがあります。
パンパスグラスの原産地はブラジル、アルゼンチン、チリなどの南米大陸の草原(パンパス)です。各国で観賞用に栽培され、日本には明治時代に入ってきました。
パンパスグラスは神代植物公園にあります。神代植物公園にあるパンパスグラスの写真をお送り致します。写真の出典は、https://newscast.jp/news/9910906 です。

「秋深く、いろいろなススキの思い出」

2024年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
秋が深まってきました。涼しくなり、夜に澄んだ虫の声を聞くと昔のことがいろいろ想い出されます。
昔の野原で見た秋の七草の花々を想う人もいるでしょう。
中秋の名月の折りに家族で縁側から月見をしたことを思い出す人もいるでしょう。ススキを沢山花瓶に入れ、団子などを供えた光景を思い浮かべる人も多いと思います。
そして昔は野原がいっぱいありました。その原っぱには必ずのようにススキの穂が秋風に揺れていました。
月見の縁側で使うススキを野原から採ってくるのは子供の仕事でした。
ススキは鎌がないと採れません。茎に筋が入っていて手で折っただけでは取れないのです。刃物で筋を切らないと取れません。その上葉の縁が鋭くてうっかりすると指の皮膚を傷付けてしまいます。子供にとってはススキ採りは危険なだけにかえって面白く、印象深い仕事だったのです。
そんな事を思い出しながら以前にススキの写真を撮りに行きました。
この界隈でススキが群生している所は都立武蔵野公園だけです。撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は武蔵野公園のススキです。この公園の真ん中を野川が流ていてその岸のあちこちにススキが群生しています。

2番目の写真は11月末頃のススキの穂波です。武蔵野公園のあちこちにススキの白い穂が輝くのです。
ススキの写真を撮りながら、もっと広大なススキの原が無いか考えました。そうしたら何度も家内と一緒に行った箱根の仙石原のススキの群生の光景を思い出したのです。

3番目の写真は仙石原のススキの群生地の全体の風景です。
写真の出典は、http://jere.blog1.fc2.com/blog-entry-628.html です。

4番目の写真も仙石原のススキの群生地の光景です。写真の出典は3番目の写真と同じです。尚この出典には美しい花の写真が沢山掲載されている楽しいブログです。花のお好きな方へお薦めのブログです。

貴方はススキにどのような思い出をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「富士五湖の紅葉の風景」

2024年10月18日 | 写真
富士五湖とは富士山のカルデラ湖で東から順に山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と富士山を囲んでいます。標高が高い所なので紅葉が鮮明に色づきます。
ここに示した5枚の写真は山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の紅葉の写真をそれぞれに検索してインターネットからお借りいたしました。

1番目の写真は山中湖の紅葉風景です。

2番目の写真は河口湖の紅葉風景です。

3番目の写真は西湖の紅葉風景です。西湖だけ湖畔から富士山が見えないので「西湖いやしの里」の紅葉の写真をお送り致します。

4番目の写真は精進湖の紅葉風景です。

5番目の写真は本栖湖の紅葉風景です。

「我が第二の故郷の甲斐駒岳山麓の紅葉」

2024年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の北杜市は我が第二の故郷です。甲斐駒岳と八ヶ岳の麓に広がる高原の村々が合併して北杜市になりました。
その山林の中に1974年に小屋を作り45年間も通っています。現地の人々とも仲良くなり故郷へ里帰りするように足繁く行ってます。
小屋の周囲には猿や鹿や猪が沢山棲んでいます。毎年11月になると紅葉が美しくなります。
今日は甲斐駒岳とその麓の紅葉の写真をお送りします。

1番目の写真は甲斐駒岳の頂上の紅葉です。写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/39898/#photo6 です。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓に広がる雑木林の中の小屋へ登って行く道です。
細い砂利道を2Km位根気良く上がっていくと私の小屋に着きます。
初夏にはハルゼミが、そして盛夏にはヒグラシ蝉などの幻想的な声が林の中に響いています。

3番目の写真は小さな私の小屋です。6畳と4畳半の2部屋だけです。電気は引いてありますが水道やガスは来てません。
毎年11月になると周囲の雑木林がこのように美しく紅葉します。

4番目の写真は小屋の東側の庭先の雑木の紅葉の写真です。庭先の斜面を登ると白樺林があります。庭は谷地になっていて一年中水の涸れない小川が流ています。
水道がありませんので、この小川の水を生活用に使います。飲み水は持参して行きます。

此処に行き続けて、もう50年になりました。現在88歳の私にとっては我が人生で一番長続きした趣味になりました。
充実感のあった趣味でした。雑木林と小川に感謝しています。

今日は甲斐駒岳の紅葉と麓の小屋の周囲の紅葉の写真をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「平和な公園を散歩しながら,戦争の時代を思い出す」

2024年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日はのどかな小金井公園を散歩しました。四季折々に散歩します。その写真を示します。1番目の写真は去年の秋に撮った小金井公園です。空が秋特有のウロコ雲になっていました。
こんな風景の公園を散歩していながら私は日本の戦争の時代を思い出すのです。少年の頃の戦争の時代です。強烈な思い出です。
昭和11年に私は仙台で生まれました。日本の敗戦までは満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代でした。私が通った小学校の教室には昭和天皇と皇后のお写真が飾ってありました。
以下は日本の敗戦までいたる昭和時代に起きた種々の事件をまとめて示したものです。

(1)昭和の戦前期
1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件1928年(昭和3年)済南事件、張作霖爆殺事件。1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変。1932年(昭和7年) 血盟団事件、五・一五事件、第一次上海事変、満州国建国。1936年(昭和11年) 二・二六事件。1941年(昭和16年) 真珠湾攻撃。1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い沖縄戦。3月10日 東京大空襲。7月 ポツダム宣言。8月6日 広島市への原子爆弾投下。8月8日 ソ連対日参戦。8月9日 長崎市への原子爆弾投下。8月15日 玉音放送。
(2)昭和の戦後期戦後のアメリカなどによる占領期。1951年(昭和26年) サンフランシスコ講和条約。1952年(昭和27年) 主権回復。1954年(昭和29年)自衛隊発足。。1956年(昭和31年)国際連合に加盟。1960年(昭和35年) (新)日米安全保障条約発効、安保反対闘争、日米新安全保障条約、カラーテレビ放送開始。1964年(昭和39年) 東京オリンピック開催。1970年(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催。1972年(昭和47年)日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印。1989年(昭和64年)昭和天皇崩御、皇太子明仁親王が天皇に践祚。平成に改元。以上は以下の資料をもとに抜粋し整理したものです。「日本史の出来事」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B
昭和11年に生まれ昭和33年に大学を卒業した私にとっては上の出来事はよく新聞でも読み鮮明に覚えております。そして戦前、戦後の食糧難の苦しい経験と相まって昭和の出来事は忘れることが出来ません。昭和20年に日本が外国に完全に占領されたのは日本の歴史において初めてのことです。開闢以来の大事件でした。この米英などによる占領は日本の社会と文化を根底から変えたのです。それは正しく激動の出来事でした。
昨日はのどかな小金井公園を散歩しながら昭和という時代のことを思い出していました。いろいろなことがありました。しかし私にとって一番衝撃的なことは故郷、仙台のB29の100機による空襲でした。仙台が紅蓮の炎に包まれ焼きつくされたのです。それを小山の上に立ち尽くして眺めたのです。1945年の7月10日の夜のことでした。それにしても平和な時代になったものです。感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
添付の写真は1936年(昭和11年)に起きた、 二・二六事件の写真です。

2番目の写真は昭和11(1936)年2月26日未明の東京を占領した陸軍の約1,400人の兵士の一部です。

3番目の写真は山王ホテル前の道路に布陣した陸軍の兵士です。

4番目の写真は永田町一帯を占拠した海軍です。海軍も少数ながら参加したのです。