後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「国破れて山河在り」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は1945年8月15日に敗れました。国中の都市は焼野原になりました。国民は呆然示としてなすすべを知りません。
しかし美しい山河は変わらずあったのです。

杜甫の漢詩
国、破れて山河あり
城春にして、草木深し
時に感じては、花にも涙をそそぎ
別れをうらんでは、鳥にも心を驚かす
烽火三月につらなり
家書万金にあたる
白頭掻けば、さらに短く
すべて、しんにたえざらんと欲っす

写真の出典は、
https://www.gltjp.com/ja/article/item/20321/ です。

1番目の写真は大分県中津市の「耶馬渓」です。

2番目の写真は北海道の定山渓温泉の紅葉の風景です。

3番目の写真は北海道の南西部にある支笏洞爺国立公園です。

4番目の写真は愛知県の香嵐渓の紅葉です。

「戦後の日本(3)戦後の激変の例、農地改革」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
敗戦国となった日本は、占領地から兵士を引き上げさせられ、日清戦争以降に得た植民地を失いました。また沖縄や小笠原諸島、奄美諸島はアメリカの統治下におかれ、北方領土はソ連の統治下となりました。
国内は、空襲によって住宅や工場などが壊され、物価が急激に上昇し、多くの失業者が出ました。日本本土はアメリカを主とする連合国軍の占領下となり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれ、戦後改革が行なわれました。
GHQは、日本の非軍事化を進め、軍や政府の指導者を戦争犯罪人として、極東国際軍事裁判で公職から追放しました。昭和天皇も、GHQによって1946年(昭和21年)に「人間宣言」を行ないました。
GHQは、非軍事化と同時に民主化を進めました。治安維持法が廃止され、政治活動や言論の自由を保証し、選挙権を満20歳の男女に与えました。経済面では、日本経済の実権をにぎっていた財閥を解体し、労働者を保護する労働組合法や労働基準法を制定されました。農村では農地改革が行なわれ、自作農が多くなりました。
それでは農地改革について書きます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9 )
1945年の12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示しました。
この指示にしたがい農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡されたのです。
農地の買収は1947年3月31日に開始され、1950年7月まで16回にわたって行われ、193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡されました。
日本の農地改革は、専業的家族経営を優遇しており経営規模3反未満の零細層は原則として買受け対象から除外されました。
農業諸施設の買収では、生産力の向上を基準に是非が判断され、「中農主義」「生産力主義」 が加味されていた点が日本の農地改革の特質であると言われる。
この農地改革は同時期に施行された選挙権の大幅拡大に連動されていた側面もあったのです。
従来、賃金労働者と並んで日本共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党や戦後保守に取り込まれたのです。
結果として小規模農家が主流となり、大規模化・効率化が遅れたという指摘もあります。2000年代以降の少子高齢化により、担い手が不足し耕作放棄地が増加したため、農林水産省は農地中間管理機構を組織して、農地の大規模化や農業法人での経営を促す方針に転換しています。

この農地改革は日本社会に衝撃的な影響を与えたのです。日本社会から封建的な制度を一掃し民主化に大きく貢献したのです。農地改革は日本社会の衝撃的な改革でした。

添付の写真は日本の農村地帯の風景です。写真はインターンットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「戦後の日本(2)体験した戦後の日本語の激変ぶり」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争で日本は敗れました。そうしてアメリカの軍隊が全国の津々浦々を占領しました。このアメリカ軍の占領で日本の社会が激変しました。明治維新以来の軍国主義の社会が自由と平等が徹底した民主主義の社会に急変したのです。日本語も変わりました。日本人の職業や階級による言語の違いも無くなったのです。
昭和11年生まれの私はこの激変をつぶさに見聞きし体験したのです。
今日は戦後の日本語の激変について書きたいと思います。
まず職業別の言葉の違いの一例を書きます。私の少年の頃の体験です。
終戦前に交番の前を歩いていると巡査が「おいこら!」と大声で私を呼び止めます。退屈しているので少年の私と話をしたいのです。巡査は威張って交番から出て来て私にサーベルを見せるのです。そんなことが2,3回ありました。大人に対しても巡査は「おいこら」「きさま」など威張った言葉を使っていました。しかしアメリカ軍が占領して来ると巡査は「おいこら!」などと言わなくなりました。
単に巡査だけでなく日本人の上からの威張った言葉が少なくなりました。
社会から敬語や丁寧語が急に少なくなりました。職業による話し言葉の違いもなくなりました。
その上美しい女言葉も少なくなりました。以前にNHK放送で有楽町で夜の女をしていたオトキさんの美しい女言葉を放送していました。あまりにも綺麗な日本語なのでNHKが録音して何度も放送していたのです。
現在でも美しい女言葉を話す人は沢山います。しかし英語には女言葉が無いと言って男言葉を話す女性も沢山います。困ったものです。
男と女の言葉が別なのは日本の素晴らしい文化だったのです。
それからアメリカ軍が占領して来ると日本語にやたらカタカナ語が混じるようになりました。意味不明のものもあります。困ったものでした。
戦後アメリカ軍のカービン銃を使った強盗が捕まりました。そしたら犯人が、「オー、マイミステーク!」と叫びました。このことがマスコミに出ると「オー、ミステーク!」が日本中の流行語になりました。
戦後の日本語の変化はまだまだまだありますが、長くなるので止めます。
今日は戦後の民主化による日本語の激変の数例を書きました。激変したのは言葉だけでなく職場や家庭における人間関係も変わったのです。私は民主主義というものを肌で体験しました。
今日の挿絵代わりの写真は家内が撮った甲州の桜の風景写真です。私の山小屋の付近の桜です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 
1番目の写真は韮崎の「わに塚の桜」です。古代の有力者の墓の「わに塚」に亭々と茂った桜木が満開になっている風景です。周囲には何も無い一本桜です。
2番目の写真は北杜市武川の「真原の桜並木」です。500m続く高原の桜並木です。
3番目の写真は「真原の桜並木」の西に聳えている甲斐駒岳です。残雪の甲斐駒岳が美しく輝いています。
4番目の写真は「清春美術館」の門を飾っている桜です。昔の小学校の跡地なのでぐるりと満開の桜木が囲んでいます。

「戦後の日本(1)アメリカ占領軍による日本の大改革」

2024年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代の一番大きな出来事は太平洋戦争で日本が徹底的に負け、全国がアメリカに占領されたことです。それは日本の歴史開闢以来の大事件でした。アメリカの連合国は東京にマッカーサー指揮による総司令部(GHQ)を設置して日本の根本的な改革を実行したのです。終戦後すぐに昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行きしたました。

1番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行った時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは略装です。

2番目の写真は1945年9月にミズリー号での降伏文書の調印式に出た日本側の代表です。先頭の重光外務大臣が調印しました。日本政府代表は横須賀沖に浮かぶ戦艦ミズーリの船上で、イギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダ、中華民国、ソ連ら連合国との間で降伏文書に正式に調印したのです。
ミズリー号での調印式の後でマッカーサーの総司令部(GHQ)は日本を徹底的に改革することを始めたのです。改革の柱は1945年10月に発表された「五大改革政策」でした。この「五大改革政策」で旧学校制度は廃止され、さらに小作農が解放されました。これに関して私が直接体験したことを書きます。終戦の時私は国民学校の3年生でした。しばらくして天皇陛下と皇后陛下の写真への敬礼が廃止になりました。教育勅語を祀って保管している奉安殿が取り壊されました。教科書の軍事教育的な文章が多数墨で黒々と消されてました。国民学校の看板が小学校に変わりました。小学校を卒業して出来たばかりの新制中学へ入学しました。制度が出来ましたが校舎がありません。隣町の大きな小学校の空いた教室に間借りしました。机も椅子も無くミカン箱を机にして板の床に座って授業を受けました。1年後に新校舎が完成し引っ越した時は本当に嬉しかったものです。さて次に小作農に関して直接見たことを書きます。家内の祖父は地主でした。あれは1960年代で戦後から15年も経っている頃でした。昔の小作農の人が作った野菜を持って家内の祖父のところへ農地を貰ったお礼に毎年来ます。何気無く見ていると昔の小作農の人が庭に跪いているのです。昔の地主は縁側の上に座って昔の小作農の人を見下ろしているのです。こんな光景を何度か見ました。私は地主と小作の身分の違いに衝撃をうけました。同時に優しかった地主を慕う小作の人の心の美しさに感銘を受けました。ここで終戦後の進駐軍の写真を3枚示します。

3番目の写真は当時憧れのまとだったジープと少年の姿です

4番目の写真はアメリカ兵と仲良くしている2人の女性と少年たちです。

5番目の写真は1人の女性と楽しそうに歩いているアメリカの兵士たちです。これらの写真は終戦後の日本の町でよく見られた風景でした。

今日は以上で終わりにしたいと思います。
それにしてもマッカ-サーは明治維新以来の日本の富国強兵政策を徹底的に壊滅したものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)