後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ベトナムの宗教的な建物の写真」

2024年10月17日 | 写真
ベトナムの宗教はフランス領だった歴史でカトリックが信じられています。仏教も儒教もあります。しかし宗教を信じない人が多数派です。教会、お寺、儒教寺院、夜の祠の写真を示します。写真の出典は、https://4travel.jp/overseas/area/asia/vietnam/temples です。



「ベトナムのダナンに溢れる南国の花たち」

2024年10月17日 | 写真
ベトナムのダナンの街中に溢れる南国の花たちです。
写真の出典は、https://danang.style/tourism/290 です。写真は全てインターンットからお借りしました。なお在日ベトナム人は増加傾向にあり、2020年末には44万8000人となり、日本の外国人では韓国を抜き、中国に次いで2番目に多いのです。

1番目の写真は白、オレンジ、ショッキングピンクのブーゲンビリアです。

2番目の写真は南国を代表する花、プルメリアです。色は、白、ピンク、濃いめのピンク、などがありますがダントツで写真のような白と黄色の組み合わせのプルメリアが栽培されています。

3番目の写真は寺院の鉢上や家の鉢植えに咲いている色鮮やかな綺麗なアデニウムの花です。
4番目の写真は房状に大きな紫の花をつけるオオバナサルスベリです。名前の通り大きな花をつけるサルスベリの木です。

「ベトナムの独立のため戦った残留日本兵の話など」

2024年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
現在のベトナム、カンボジア、ラオス地域には大きな戦争が2度ありました。1946年から1954年のベトナムとフランスの間のベトナム独立戦争と1964年から1973年の主にアメリカ軍と戦ったベトナム戦争です。
この2つの戦争でベトナムはインドシナ半島からフランスとアメリカを完全に駆逐したのです。
今日はベトナム独立戦争におけるホーチミンとベトナム独立軍と共にフランスと戦った残留日本兵にまつわる話を書きたいと思います。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。現在も熱烈な友好国のベトナムには数多くの日本企業が展開しています。
この友好の原因は戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。ベトナム独立運動はホーチミンが主導しました。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
1945年の終戦時にインドシナに進駐、駐留していた日本軍の総数は約9万でした。その内の800名がベトナム独立軍に参加しました。最終的に仏軍との本格的な戦闘突入後は600名がベトナム全土で戦っていると思われます。そのうえ日本軍の航空機や戦車をはじめとした兵器がベトナム独立軍に渡ったのです。
私は1990年代のはじめにフランス軍と戦った残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作ったもう一人の日本人の話も直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていて北ベトナムの銀行制度を作ったそうです。
以下は前者の2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣です。残留日本人は皆将校になっていたので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていたそうです。こんな場合、日本軍出の将校は無言で兵から飛び降りましたが、ベトナム人将校は「有難う」と言って兵に感謝するそうです。ホーチミンは将校たちへ「歩いて渡れ」と命令しません。自分は自分の考えで行動し他人へは絶対に命令しなかったそうですす。しかしホーチミンの行動は数日でベトナム全軍に広がって伝わったのです。ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏が良いとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチミンを尊敬していました。
ホーチミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチミン記念館
私が1990年頃に訪問したハノイでガイドをしてくれたベトナム人はいいかげんな若者で、ホテルに迎えに来る時間は遅刻ばかり。道案内もでたらめで、とにかくやる気がない若者でした。
こんなガイドにはほかの国でも会ったことがない。
そんな若者に、「君、ベトナム人が一番尊敬しているホーチミンの記念館に、あす案内してくれないかね?」と頼んでみました。すると翌朝いつもは汗臭いシャツ姿の彼が背広姿をビシッと決めて、ホテルのロビーで朝早くから待っていたのです。ホーチミン記念館へ私を案内するのがそんなにうれしいのか、喜びに絶えないといった様子で、私を引っ張るように連れて行くのです。締め慣れないネクタイを何度も直しながら道を急ぐのです。
記念館には、ホーチミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
1番目の写真はハノイにあるホーチミン廟です。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」。いいかげんな案内人は目を潤ませて、「ホーチミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれました。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。
それからいろいろな事がありました。
10年間にわたるベトナム戦争があり改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りまました。ベトナムは復興したのです。
◎ホンダバイクの奔流―サイゴン
 1994年、サイゴン、夏の夜のことでした。私の目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに三、四人乗せて大河の奔流のように流れて行くのです。ほかに楽しみのないベトナム人家族の夜の娯楽です。1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年。
平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出していました。
2番目の写真は現在のサイゴンの街路を走るバイクの群れです。私が見た1994年にはバイクも服装も貧し気でした。こんなに色彩豊かでなく灰色でした。ベトナムも高度成長したのです。
そして2017年03月に平成天皇と美智子皇后がベトナムを訪問なさいました。
天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。

最後にベトナムの風景写真を2枚お送り致します。今日の写真は全てインターンットからお借りしました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤<山杜人)


「大規模な戦争だったベトナム戦争」

2024年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
ベトナム戦争は1964年から1975まで続いた大規模な戦争でした。日本は直接戦争に巻き込まれませんでしたがアメリカの攻撃機が日本から飛び立ち日本社会も騒然としていました。「ベ平連」のベトナムの平和のデモが繰り返してあり社会が深い影響を受けていました。
今日はこのベトナム戦争のことを書きたいと思います。
ベトナム戦争は当時南北に分断されていたベトナムで北ベトナムと資本主義陣営の南ベトナムとの間で勃発した戦争でした。
冷戦中に起こったアメリカ合衆国とソビエト連邦の代理戦争です。
ベトナム南北両国は建国当初より対立関係にあり、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された南ベトナム解放民族戦線が活動して軍や警察などと衝突していました。
南ベトナムの同盟国であるアメリカは軍事顧問を送り込むなどして以前より南ベトナムを援助していましたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始したのです。しかしアメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んでこの戦争から撤退することとなりました。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで継続した。
この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでなかったのです。
ぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦します。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ東側諸国に属する社会主義国であり、軍事顧問を派遣したソ連や防空作戦部隊や工兵部隊を派遣した中華人民共和国でした。
北朝鮮は空軍のパイロットを派遣したのです。
また、南ベトナムに味方したのは同じく西側諸国に属する資本主義国であり、28,000人から4,5000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣した大韓民国(韓国)や3,000人の部隊を派遣したオーストラリア、それぞれ2,000人の部隊を派遣したタイ王国やフィリピン、戦車部隊や医師など200人を派遣したニュージーランドなどです。
間接的な協力では心理戦や農業部門で関与した中華民国(台湾)や医療関係で協力した日本なども挙げられます。
そして両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となりました。
その後1973年にパリ和平協定が締結されアメリカ軍などは撤退しますが、その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊したのです。
なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大しており、それぞれラオスではラオス王国とパテート・ラーオが戦い、カンボジアではクメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっています。これらはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となったのです。
この紛争は、第二次世界大戦後にフランスと共産党率いるベトミンとの間で起きた第一次インドシナ戦争に端を発したのです。1954年にフランスがディエンビエンフーの戦いで大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退した後、アメリカは南ベトナム国家への財政的・軍事的支援を開始した大戦争でした。
ここでベトナム戦争に関連した写真を示します。写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真は左上から時計回りにテト攻勢でのベトナム共和国陸軍とアメリカ海兵隊、1966年頃のベトナム人民軍兵士、掃討作戦で民家を焼き払うアメリカ軍兵士、アメリカ軍によるソンミ村虐殺事件の被害者です。

2番目の写真はダナンに上陸するアメリカ海兵隊です。

3番目の写真はソ連から北ベトナム軍に貸与されたミコヤンMiG-21初期型です。

4番目の写真は爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52戦略爆撃機です。

5番目の写真はベトナムへ向け出撃しようとしているF-4B戦闘機です。

6番目の写真は海中へ投棄される南ベトナム軍のベルUH-1ヘリコプターです。

7番目の写真はヘリコプターでアメリカ軍の航空母艦に脱出した南ベトナム人です。

今日はベトナム戦争について書きました。それは大規模な戦争でした。悲惨な戦争でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)