後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「戦争の記憶(5)悲惨な沖縄戦」

2024年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は79年前に終戦した太平洋戦争の悲惨さや残酷さを忘れるべきではありません。忘れないで平和が続くようにするのです。
太平洋戦争の日本の兵士の戦死者は約230万人でした。他に空襲による死者と満州引け揚げの折の犠牲者が約100万人あったのです。
1945年、日本はアメリカ連合軍に完膚無きまでに敗れました。
日本を占領したマッカーサーは新聞の検閲と放送や出版物の徹底的な規制をしました。特にかつての日本の軍部の戦果は具体的に報道することを禁止し、日本軍は戦略の無い愚かな戦争をしたと宣伝したのです。
そんなアメリカの占領軍の方針で戦争の実態は日本の新聞には一切発表させなかったのです。
しかし特にアメリカ軍が上陸した沖縄では残酷な地上戦が行われ多数の民間人も犠牲になったのです。
沖縄では、特攻の日本軍機による攻撃でアメリカ軍の艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を与えたのです。これらの損害は米海軍がメルボルンから東京までの間に受けたそれまでの損害を遥かに超えるものでした。これはマッカーサー司令官の声明でも認めています。
ここで沖縄戦の写真を示します。
1番目の写真は沖縄上陸前のアメリカ駆逐艦による艦砲射撃です。
2番目の写真は沖縄に上陸するアメリカの海兵隊です。
3番目の写真は1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(en:USS William D. Porter (DD-579))です。復旧作業も実らずこの後に横転し沈没しました。
4番目の写真はアメリカ軍を迎え撃つ日本軍です。
5番目の写真は占領後のアメリカ軍が日本の戦車を調べている光景です。
さて沖縄戦だけで日本はアメリカ側へ艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を与えたのです。一方、特攻関連の戦死者は14009名だったのです。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)
これ以上はあまり長くなりますのでここで止めます。
詳しくは以下の私が書いた記事も合わせてご参照下さい。
(1)「日本の攻撃で沈んだ連合軍の60隻の潜水艦、嗚呼、戦争の悲劇!
2017年09月25日掲載
(2)「特攻隊による400隻艦船の損害に関する米海軍からの公開一覧表」
2017年09月22日掲載
(3)「何故多くの人は特攻は無駄だったと信じているのか?」
2017年9月12日掲載掲載
(4)「沖縄沖で特攻で大破した空母、駆逐艦など404艦艇と航空機763機に対する評価」2017年08月20日掲載
(5)「特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧」2017年08月14日掲載
(6)「日本文化と武士道が特攻隊の悲劇を生んだ」2017年08月14日掲載
今日は太平洋戦争で起きた事実の一部だけをご紹介しました。
戦争の残酷さと悲劇の数々をご想像下さい。
戦死した多数の日本兵やアメリカ兵などはみな若くして尊い命を失ったのです。戦死者の約10倍の兵士が戦傷を負ったのです。その家族たちの悲嘆もご想像下さい。
日本の平和を守るため時折戦争の悲惨な光景を見て考えることは重要なことと信じます。この戦争の残酷さを時折、思い起して、世界に真の平和を作るように努力すべきです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「戦争の記憶(4)インパール作戦の失敗」

2024年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
インパール作戦とは第二次世界大戦のビルマ戦線においてイギリス領インドのインパール市を占領しようとした作戦でした。1944年(昭和19年)3月に日本の陸軍が開始し7月初旬まで継続されました。しかしイギリス軍の抵抗が激しくインパール市を占領出来ませんでした。
5月上旬時点での日本軍の参加兵力は第15軍の3個師団で計4万9600人、その他軍直轄部隊など3万6000人の総兵力約8万5000人でした。7月までの総兵力は、約9万人と見られる大規模な攻撃でした。
第15師団の第60連隊は4月7日にはインパールの北15キロメートルのカングラトンビを攻略しインパールへの接近します。
第51連隊も幹線道路が眼下に望める展望点に達し、第15師団の各部隊は全部隊が目標地点に進出しました。
4月7日には決死隊を編成してインパールへの侵入を計画するほどの順調な進撃だったのです。
そして、4月11日にはヌンシグム高地の北側斜面まで到達し、激戦のうえに攻略しました。
そこからはインパールまでわずか10kmの距離です。高地からはインパール平原を一望のもとに見下ろせて、インパール近郊の飛行場を発着する航空機や、街へ続く道路と朝日に黄金に輝く王宮の様な建物の屋根も見ることができたそうです。
インパールのガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて数千の将兵が死にました。
その後、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げたそうです。

結局、日本軍はインパール市を占領出来ずに退却いたしました。イギリス軍が勝ったのです。インパール作戦の失敗はその後の日本の敗北につながったのです。
戦後にインパール作戦の悲惨な記録が数多く出版されました。私もそれを読み衝撃を受けたことが忘れられません。
インパール作戦に関連する写真をお送り致します。

1番目の写真はインパール市の現在の夜景です。

2番目の写真はコヒマに向けて進撃する日本軍 第31師団の兵士です。

3番目の写真は渡河するイギリス軍です。

4番目の写真はインパールに向かって進軍する第15師団兵士です。運んでいるのは四一式山砲です。

「戦争の記憶(3)小原諸島の硫黄島の玉砕」

2024年10月24日 | 写真
戦争の記憶として忘れられないのは硫黄島の玉砕です。
「硫黄島の戦い」とは一般に、米軍が上陸した太平洋戦争末期の1945年2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間の地上戦です。1日も早く硫黄島の飛行場を占領して日本本土爆撃を進めたい米軍と、飛行場を死守して本土侵攻を阻止したい守備隊が激突した戦いでした。
組織的戦闘が終わっても、守備隊側の生存兵の多くは投降せずに地下壕ごうに籠もったのです。川のない渇水の島で、死よりもつらい喉の渇きにもがきながら、次々と絶命した結果、守備隊2万3000人のうち2万2000人が死亡した激しい戦いでした。
現在の硫黄島は日本復帰後も火山活動などによる自然条件が厳しいことから旧島民の帰島は実現せず、自衛隊及びその関係者だけが在島しています。
なお硫黄島は他に鹿児島県の薩南諸島三島村にある硫黄島もあります。
写真は小笠原諸島の硫黄島です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)