今日は「ロシア軍の侵攻による満州の悲劇とシベリア抑留」について書いてみたいと思います。満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇の一つです。 終戦の前に、満州には155万人の日本人が住んでいました。
1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。そして満州帝国という国を建国したのです。日本の意のままになる傀儡国家です。
その上、満洲国皇帝として清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を就任させたのです。
しかし1945年の8月の終戦の前にソ連軍の大部隊が満州に侵入し満州全土を完全に占領してしまったのです。8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散されます。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、ソ連のチタの収容施設に護送されます。
そしてシベリア抑留と満州在住の日本人の苦難が始まったのです。日本人は凄惨な悲劇に見まわれたのです。ソ連軍によって略奪、暴行、虐殺されたのです。
ソ連軍は樺太でも同じ残虐行為をします。満州と同様に悲惨でした。そして満州と樺太から60万人以上の日本人軍人をシベリア抑留にしたのです。抑留された60万人のうち6万人以上が飢えと寒さで死にました。
この抑留による死者と満州と樺太での日本軍の死者と引き揚げ途中の犠牲者の総合計は約24万5000人以上と言われています。
このうち8万人近くが満蒙開拓団員でした。
満州では日本の関東軍が列車を仕立てて敗走したのです。取り残された民間人は武器も無く、ソ連兵の蹂躙に身をまかせる他は無かったのです。関東軍が本気でソ連軍と戦っていれば、民間人の婦女子が南に逃げる時間がかせげたのです。この関東軍の卑怯な逃亡が民間人の悲劇を大きくしたのです。
最後に当時の満州の写真を示します。写真の出典は、「満州写真館」という写真集です。そのアドレスは、http://geo.d51498.com/ramopcommand/page035.html です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は満洲の昔の大連の町です。歩いている人の雰囲気が平和です。
2番目の写真は大連の一番の繁華街だそうです。当時の東京より立派な都会でした。
3番目の写真はは瀋陽です。満州時代は奉天と呼ばれていた市です。ロシア風の落ち着いた街でした。
4番目の写真はは瀋陽の駅前風景です。
6番目の写真は「アジア号」の食堂車での日本人の食事風景です。
7番目の写真は「アジア号」の最後尾の展望車の風景です。ヨーロッパ人乗客も満鉄を愛用していたようすが伺えます。
尚この「満州写真館」の写真は無断使用禁止です。お借りしたい時は、「満州写真館」、の中の「掲示板」をクリックしますと、管理人の方へのメールを開けます。