後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ロシア軍の侵攻による満州の悲劇とシベリア抑留」

2024年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は「ロシア軍の侵攻による満州の悲劇とシベリア抑留」について書いてみたいと思います。満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇の一つです。 終戦の前に、満州には155万人の日本人が住んでいました。

1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。そして満州帝国という国を建国したのです。日本の意のままになる傀儡国家です。

その上、満洲国皇帝として清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を就任させたのです。

しかし1945年の8月の終戦の前にソ連軍の大部隊が満州に侵入し満州全土を完全に占領してしまったのです。8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散されます。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、ソ連のチタの収容施設に護送されます。

そしてシベリア抑留と満州在住の日本人の苦難が始まったのです。日本人は凄惨な悲劇に見まわれたのです。ソ連軍によって略奪、暴行、虐殺されたのです。

ソ連軍は樺太でも同じ残虐行為をします。満州と同様に悲惨でした。そして満州と樺太から60万人以上の日本人軍人をシベリア抑留にしたのです。抑留された60万人のうち6万人以上が飢えと寒さで死にました。
この抑留による死者と満州と樺太での日本軍の死者と引き揚げ途中の犠牲者の総合計は約24万5000人以上と言われています。
このうち8万人近くが満蒙開拓団員でした。

満州では日本の関東軍が列車を仕立てて敗走したのです。取り残された民間人は武器も無く、ソ連兵の蹂躙に身をまかせる他は無かったのです。関東軍が本気でソ連軍と戦っていれば、民間人の婦女子が南に逃げる時間がかせげたのです。この関東軍の卑怯な逃亡が民間人の悲劇を大きくしたのです。

最後に当時の満州の写真を示します。写真の出典は、「満州写真館」という写真集です。そのアドレスは、http://geo.d51498.com/ramopcommand/page035.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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1番目の写真は満洲の昔の大連の町です。歩いている人の雰囲気が平和です。Img0931

2番目の写真は大連の一番の繁華街だそうです。当時の東京より立派な都会でした。Img1181

3番目の写真はは瀋陽です。満州時代は奉天と呼ばれていた市です。ロシア風の落ち着いた街でした。

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4番目の写真はは瀋陽の駅前風景です。

Img12215番目の写真は満鉄の「アジア号」という特急列車です。

6番目の写真は「アジア号」の食堂車での日本人の食事風景です。Img1441

7番目の写真は「アジア号」の最後尾の展望車の風景です。ヨーロッパ人乗客も満鉄を愛用していたようすが伺えます。

尚この「満州写真館」の写真は無断使用禁止です。お借りしたい時は、「満州写真館」、の中の「掲示板」をクリックしますと、管理人の方へのメールを開けます。


「ロシアによる日本漁船の1,364隻以上の拿捕」

2024年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
漁船の被拿捕状況、https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-2-1-6.htm

北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の拿捕抑留事件は,依然として頻発しており,1946年より1972年1月31日まで,ソ連側に抑留された漁船の総数は1,364隻を数え,抑留漁船員の総数は11,592名に達した。その間ソ連側から返還された船舶は845隻,乗組員は11,560名,拿捕の際または引取りの途中で沈没した船舶は22隻,死亡した者は32名である。

なお,1971年度中における本邦漁船の拿捕件数は28隻,276名であつた。その内22隻が帰還した。また,漁夫に関しては,45年度より残存した8名を含む合計284名が帰還した。
ロシアによる日本漁船の拿捕の写真を示します。

1番目の写真は北海道・稚内港に戻り、関係者(手前)と話す底引き網漁船「第172栄宝丸」乗組員らです。

2番目の写真は島根のカニ漁船「第68西野丸」です。
ロシアの排他的経済水域で違法に漁をしたとして連行されていた島根のカニ漁船が、約1カ月ぶりに日本に戻ってきました。 

3番目の写真はロシア当局に拿捕された漁船が稚内に帰港し乗組員が下船している光景です。 

以上、ロシアによる日本漁船の拿捕についてその一端を書きました。

「ロシアと日本の大規模な戦争、ノモンハン事件」

2024年10月15日 | ブログ
日露戦争以来、日本とロシアは軍事衝突を繰り返してきた。中でも、戦車や戦闘機などの近代兵器が衝突したのは、1939(昭和14)年の「ノモンハン事件」が最初であった。
今日はこの「ノモンハン事件」について書きたいと思います。
第1次と第2次に分かれるノモンハン事件は、1932年、昭和7年に建国された満州国で、日本とソ連の大規模な武力衝突に発展した戦争であった。日露戦争以来、四半世紀ぶりの日露軍事衝突でした。
最終的に、ソ連が主張する国境線を確保したことで、ノモンハン事件は「ソ連軍の勝利・日本軍の敗北」という評価が一般的です。
この戦いで日本軍は、戦死傷者1万7364人(戦死7696人・戦傷8647人・行方不明1021人)を出したほか、戦車29両と装甲車7両を損失した。
一方、ソ連軍の戦死傷者は2万5655人(戦死9703人・戦傷1万5952人)を出した。加えて、397両もの戦車・装甲車を損失しました。
ノモハン事件の当時の写真を示します。写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真はノモハン事件に出動した日本軍です。

2番目の写真はノモハン事件に出動した日本軍の戦車と兵士です。

3番目の写真ははノモハン事件に出動したソ連軍の戦車と兵士です。

4番目の写真は昼食をとる日本軍の兵士です。

ノモハン事件の歴史的評価については、https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622/622PDF/narmanda.pdf に詳細な論評がります。
その冒頭部分だけ転載します。
・・・満洲事変から日ソ中立条約が締結されるまでの日ソ関係の推移を見れば、日ソ両国は、それぞれが後ろ盾となっていた当時のモンゴル人民共和国と満洲国の国境問題をめぐって激しく対立し、ついには戦争に突入したことがわかる。すなわち、極東アジアにおける日ソ間の緊張と対立の激化の根本原因の一つが、モンゴルの国境問題、あるいはモンゴルの国際上の地位をめぐる問題であったことが理解される。それゆえモンゴルと満洲の勢力圏を画定する問題の解決が、日ソ国交調整の実現の重要な懸案であった。このあと、1939 年 9 月のノモンハン事件停戦協定のあと、1940 年 6 月の日ソ両国間の協議によるモンゴルと満洲国の国境画定を経て、モンゴルの国境問題が日ソ間でようやく解消された。そしてこれにより、日ソ両国の軍事的また政治的緊張関係が改善されることになり、その帰結として 1941 年 4 月の日ソ中立条約の締結に到るのである。
満洲国建国以来の極東における日ソ両国の確執は、日ソ中立条約によって突如解決されたもので
はなかった。それは満洲里会議にはじまり、ソ連・モンゴル相互援助条約、モンゴルの大粛清、ノモンハン戦、停戦協定、国境画定会議など、当事国であった日本・ソ連・モンゴル・満洲を巻きこんで展開された一連の政治的出来事の帰結であった。・・・

さて今日は日本のその後の運命に大きな影響を与えたノモハン事件について書きました。日本とロシアの大規模な軍事衝突でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)