後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「山梨県立美術館をご紹介致します」

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
思い返すと以前は随分と美術館を見て回ったものです。日本各地の県立美術館も幾つも見ました。
特に山梨県には私の山小屋があるので山梨県立美術館と文学館へは何度も訪れしたました。
そこで今日は山梨県立美術館と文学館をご紹介したいと存じます。
山国の甲府に堂々たる県立美術館と文学館が並んであるのです。内容が充実し、敷地や建物が広大で芸術的に設計、配置されています。野外にはロダンやザッキンや岡本太郎の大作も展示してあります。南アルプスを望むロケーションが素晴らしいのです。感動したので数回訪れました。
1番目の写真は大きな彫刻が並んでいる美術館の前庭です。
この美術館は特に絵画の蒐集方針が立派なのです。ジャン フランソワ・ミレーとバルビゾン派にこだわり、根気よく収集を続けています。ミレーの傑作だけでも20点ほどを収集、展示してあります。
昔のヨーロッパの信仰篤い農民の働く姿が心地良い色彩で描いてあります。展示室内を歩いているとフランスの平和な農村を散歩しているようです。
2番目の写真は山梨県立美術館に展示してある「落ち穂拾い」です。
この「落ち穂拾い」という絵には、地主が貧しい小作人のために落として置いた麦の穂を小作人の妻たちが拾っている様子を描いたものです。昔のヨーロッパでは、地主はこうして小作人を助ける伝統があったのです。何故かせつないような内容の絵ですが静かな絵です。
「落ち穂拾い」は数枚あります。山梨のは構図が少し違いますが完成度の良い傑作です。
3番目の写真は「種まく男」です。1977年に山梨県が落札した絵です。この「種を播く人」の絵には健康そうな農夫の躍動感が描かれています。種播く男の絵は2枚あり、同じ大きさ、同じ構図だそうです。もう一枚はボストン美術館にあります。
この絵に感動したゴッホも同じ構図で描いています。
4番目の写真は「ポーリーヌ・V・オノの肖像」です。この絵は、若くして貧困の中に死んでしまった最初の妻を描いたものです。ポーリーヌへのミレーの深い愛情が絵筆に乗り移ったような勢いで描いています。しかし最後は、ゆっくり丁寧に仕上げています。
美術館内は撮影禁止なので、ここに示した3枚のミレーの絵画はWikipedeaの「ジャン フランソワ・ミレー」の項目からお借りしました。

この美術館には日本人の好きな印象派の絵画は一切ありません。バルビゾン派のジャン フランソワ・ミレーのを主にしいして同じ画風のヨーロッパの絵画が展示してあります。立派な見識です。

さてこの美術館のあるところは芸術の森といい、収集・展示方法の優れた文学館もあり、庭園には数々の彫刻もあり、茶室や日本庭園も見事です。天気の良い日は周りの山々の遠景が一層素晴らしい雰囲気を作っています。
5番目の写真は文学館の全景です。明治、大正、昭和の文学者の直筆原稿や初版本などが作家ゆかりの机、文房具とともに展示してあります。
特に樋口一葉の両親が山梨県甲州市塩山の出身なので、第一室にはゆかりの品々が展示してあります。そして樋口一葉関連のものの収集と展示には圧倒的な情熱が注がれています。そこで以下の紹介では他の文学者については省略して一葉だけについて書きます。
一葉の作品は悲しく、美しく、人間の運命のはかなさが白黒写真に写したように描き出されているのです。
この文学館には「たけくらべ」の始めの部分の朗読がイヤホーンで聞けるブースがあります。下の文章からはじまります。
たけくらべ:
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶの燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、・・・」に始まり、結末は「ある霜の朝水仙の作り花を格子門の外より差入れ置きし者のありけり。…信如がなにがしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。」
(博文館 明治38年15版、一葉全集(家内の蔵書))より。
そのあらすじ:花街に育った少女美登利と僧侶の息子信如の淡い恋物語です。
勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。美登利と信如は同じ学校に通っているが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまう。ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまう。 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。だが信如はこれを受け取らず去って行く。美登利は悲しむが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞く。 その後美登利は寂しい毎日を送るが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思う。この日信如は僧侶の学校に入った。・・・・
6番目の写真は樋口一葉の写真です。
7番目の写真も文学館の入り口です。井伏鱒二と山梨県出身の有名な俳人の飯田蛇笏の特別展がありますという看板を撮った写真です。

この美術館が常設展示している絵画の一覧表と樋口一葉のことを参考資料につけます。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
(1)山梨県立美術館の常設展示絵画目録
(出典は、http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=com_content&task=view&id=336&Itemid=155 です。)
ジャン=フランソワ・ミレーポーリーヌ・V・オノの肖像1841-42頃油彩・麻布73.0×63.0
ジャン=フランソワ・ミレー眠れるお針子 ★ 1844-45 油彩・麻布45.7×38.1
ジャン=フランソワ・ミレーダフニスとクロエ1845頃油彩・麻布82.5×65.0
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い、夏1853 油彩・麻布38.3×29.3
ジャン=フランソワ・ミレー冬(凍えたキューピッド) 1864-65 油彩・麻布205.0×112.0
ジャン=フランソワ・ミレー鶏に餌をやる女1853-56頃油彩・板73.0×53.5
ジャン=フランソワ・ミレー夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い1857-60 油彩・板53.5×71.0
ジャン=フランソワ・ミレー種をまく人1850 油彩・麻布99.7×80.0
ジャン=フランソワ・ミレー無原罪の聖母1858 油彩・麻布77.7×44.8 ㈱相川プレス工業寄贈
ジャン=フランソワ・ミレーヴォージュ山中の牧場風景1868 パステル・紙70.0×95.0
ジャン=フランソワ・ミレー習作3(オーヴェルニュの風景Ⅲ) c.1866-67 鉛筆、黒インク・紙11.7×17.2
ジャン=フランソワ・ミレー習作4(オーヴェルニュの風景Ⅳ) c.1866-67 鉛筆、黒インク、パステル・紙12.1×17.0
ナダールミレーの肖像1868 銀塩写真29.0×22.0
エミール・ロワゾーアトリエでのJ.F.ミレー1855頃黒鉛筆・紙15.8×21.5 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー「二人の農婦」の習作c.1853 インク・紙19.6×15.0 田村幸子氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い(第1版) 1855-56 エッチング19.0×25.2 飯田祐三氏寄贈
ジャン=フランソワ・ミレー
(ジャン=バティスト・ミレー版刻)
ランプの下で縫物をする女たち(夜なべ) 1855-56 エッチング15.1×11.0 飯田祐三氏寄贈

風景画の系譜 (クロード・ロラン~バルビゾン派)
クロード・ロラン木を伐り出す人々(川のある風景) 1637頃油彩・麻布79.4×115.6
ヤーコプ・ファン・ライスダールベントハイム城の見える風景1655頃油彩・麻布63.5×68.0
ジョルジュ・ミシェル風車のある風景1820-40頃油彩・麻布60.4×86.5
ジュール・デュプレ森の中-夏の朝1840頃油彩・麻布95.5×76.0
ジュール・デュプレ海景 ★ 1870頃油彩・麻布51.0×63.5
ディアズ・ド・ラ・ペーニャフォンテーヌブローの樫の木(怒れる者) 1862 油彩・麻布71.4×93.5
シャルル=エミール・ジャック森の中の羊の群れ1860頃油彩・板49.0×118.0
コンスタン・トロワイヨン近づく嵐1859 油彩・麻布133.0×145.0
コンスタン・トロワイヨン市日1859 油彩・麻布115.4×175.5
テオドール・ルソーフォンテーヌブローの森のはずれ1866 油彩・麻布76.0×95.0 三枝守雄・佐枝子氏寄贈
テオドール・ルソー樫のある風景不詳油彩・麻布75.0×95.0
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー大農園1860-65頃油彩・麻布55.2×80.8
ギュスターヴ・クールベ嵐の海1865 油彩・麻布54.0×73.0
ギュスターヴ・クールベ川辺の鹿1864頃油彩・麻布73.0×92.0
シャルル=フランソワ・ドービニーオワーズ河の夏の朝1869 油彩・麻布68.6×100.3
アンリ=ジョセフ・アルピニー陽のあたる道 ★ 1875 油彩・麻布49.3×76.2
ヨハン・バルトールト・ヨンキントドルトレヒトの月明かり1872頃油彩・麻布59.5×102.0
ジュリアン・デュプレ牧草の取り入れ1890-95頃油彩・麻布65.1×81.0
ジュール・ブルトン朝 ★ 1888 油彩・麻布

(2)樋口一葉について
樋口 一葉(ひぐち いちよう):1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。この1年2ケ月は奇蹟の14ケ月と呼ばれ、日本の近代文学の礎になる作品が生まれたのです。まさしく樋口一葉は薄幸の天才でした。
一葉記念館は彼女が住んでいた下町の住民が戦後に寄付を集めて作りあげました。そのHPを見るとまた泣けてきます。何故か、記念館を作った人々の切々たる気持ちが伝わってくるのです。http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/index.html を是非ご覧下さい。

「霧が流れる美ヶ原高原美術館の野外展示の大きな彫刻」

2025年02月25日 | ブログ
美ヶ原高原美術館は遥かに遠い天空の上の野外展示の美術館です。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。
1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。(〒386-0507 長野県上田市武石上本入美ヶ原高原 )
この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。
私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。
高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな作品です。
美ヶ原高原美術館と箱根の彫刻の森美術館と比較すると感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。
それでは早速、7枚の写真で霧が流れる美ヶ原高原美術館の展示作品の写真をお送りいたします。
美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyou に出ています。
ここに示した写真の造形作品の説明板の写真は霧のため撮れませんでした。
しかし全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/ にあります。
展示作品の説明は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/sakuhin にあります。

さて箱根の彫刻の森美術館と美ヶ原高原美術館は「彫刻の森芸術文化財団」によって建設され運営されています。
財団は、「ひろく一般に彫刻芸術に接する機会を提供するとともに、彫刻芸術の振興普及をはかり、わが国芸術文化の向上発展に寄与すること」を目的に掲げ、昭和43(1968)年9月6日、財団法人彫刻の森美術館として発足いたしました。
そして、彫刻の森美術館の開設における建設資金協賛社は国内企業173 社が出資して翌昭和44(1969)年8月1日、日本で初めての彫刻専門の野外美術館として開館しました。
財団の設立はフジテレビジョン、産経新聞社、ニッポン放送を中核とするフジサンケイグループによるもので、初代館長は故鹿内信隆(1911-1990)でした。
その後、昭和56(1981)年に長野県上田市に姉妹館・美ヶ原高原美術館を開設します。作品収蔵では内外の近代彫刻の名品群に加え、造形芸術の公募展や企画展を通じて作品収集を図って来ました。

美ヶ原高原美術館は遥かに遠い場所にありますが車で行くと途中の風景を楽しめます。中央高速で諏訪湖まで行きます。そこから白樺湖に上ります。白樺湖からは車山、霧ヶ峰、美ヶ原へと高原ずたいに風景絶佳のドライブが楽しめるのです。

皆様もこの天空の野外展示の美術館を一度訪れてはいかがでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の経済急成長の後の立身出世主義の消滅と価値観の変化」

2025年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。
この日本の高度成長を支えてきたのは欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。
この高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きたと考えられます。
そしていろいろな分野で優秀な人材が集まらなければなりません。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代があったのです。
ところが現在に日本では大学生は勉強しなくなりました。技術者も自分の分野の必要最小限以上の勉強をしなくなりました。
1990年前後のバブル経済の崩壊によって多くの日本人の価値観が大きく変わってしまったのです。
一言で言えば、「経済成長よりも人間性を豊かに生きることがより重要だ!」という価値観に転換したのです。
人生にとって生活を維持するためのお金は必要です。しかしボランティア活動をしたり趣味を楽しむ余裕を持ちながら自分らしい一生を送ることが一番幸福だと考えるようになったのです。結婚しないで自由に自分の独自の一生を送る人もいます。
高度成長期まで日本の社会にあった立身出世主義が消えてしまったのです。現在は東京大学や京都大学の卒業生で吉本興業に入ってお笑いタレントになる人もいます。
昔は大会社に入社して出世競争に勝つことが世の中の尊敬を集めました。中小企業は大会社の傘下に隷属し、縦社会を作っていたのです。
その産業構造が高度成長の基盤にあったのです。それが1990年前後にもろくも崩れたのです。
縦社会の崩壊は産業構造だけでなく社会のいろいろな分野で起きました。
その結果、価値観が大きく変化してしまったのです。
「経済成長よりも自分らしく生きることがより重要だ」という価値観です。
すると会社で働いている人は転勤を嫌がります。残業続きで会社に縛られることを嫌がります。そこで転職が多くまります。自分らしい会社を探して転職します。転勤や残業が嫌なので非正規職員になります。
これでは日本に再び経済の高度成長がやって来ることは絶対にありません。ある筈が無いのです。
経済成長で得たものの最大なものは日本人の人間性が非常に良くなったことです。特に若い日本人は素晴らしい人間性を持つようになったのです。
現在の若い日本人は親切で優和で上品なのです。そうでないと反対する高齢者がときどきいますが、それは自分の心が貧しいだけです。
私は毎週一回、4時間ほどあるリハビリ施設に通っています。そこのスタッフは30歳代の男女ですす。いろいろな運動器具を使います。
全身のストレッチをしてくれます。ボールやゴムバンドを用いた奇妙な運動もします。そしてその合間、合間に盛んに話しかけるのです。高齢者の口の筋肉の劣化を予防するのです。
その話し言葉が綺麗な日本語なのです。彼等は皆人柄が良いのです。親切で優和で上品なのです。彼等は高齢者だから親切にしているのではありません。相手が人間だからなのです。それはスタッフ同士の会話を聞いているよ分かります。嗚呼、日本人も変わったものだと心豊かになります。

箱根の彫刻の森を見ながら戦後の日本の変化を考えました。今日の挿絵代わりの写真は家内が撮った彫刻の森の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。

2番目の写真はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻です。

3番目の写真はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。

4番目の写真は同じくフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。

5番目の写真はスウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻です。

「午後の散歩は小金井駅前の広場まで」

2025年02月24日 | 日記
青空です。午後の散歩は小金井駅前の広場までの往復です。日差しは明るいのですが冷たい風が吹いてました。途中にある上野原公園でも子供の写真を撮りました。

1番目の写真と2番目の写真は小金井駅前の南側の広場です。
3番目の写真と4番目の写真は上野原公園です。
 

「ドイツの美しい花園」

2025年02月24日 | 写真
ドイツの花と言っても特に特徴がないように見えます。オランダの花卉栽培農家が品種改良した園芸種を情熱的に窓枠に植えたり庭に植えています。
ドイツ人は花を飾ることに対して強い情熱を持っています。彼等は何事に対しても徹底的にするのです。お墓にもいつも色鮮やかな花々を飾っています。
ドイツ文化の長所でもあり怖さでもあります。
南ドイツに家族と共に住んでいました。子供は小学校とキンダーガルテンに通っていました。週末には近郊へのドライブを習慣にしていました。
冬の間一面雪に覆われていた地面が復活祭の頃一気に春の兆しを見せます。牧場地帯や麦畑の農村地帯を車で走っていると一面の菜の花に遭遇したり、黄色いレンギョウの茂みを見つけたりします。
そして5月になるとサクランボの花が青い空にピンクに輝いています。リンゴの花も咲いています。コクリコやバターカップも緑の野原に鮮やかな彩りを加えています。
牧歌的という言葉がありますが、ドイツの農村は教会の尖塔が遠方に見え、花々が咲いていて実に心のなごむところです。
以下の写真の出典は、https://tabicoffret.com/article/2299/ です。

「ドイツを荒廃させた30年戦争の凄惨さ」

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ある民族の歴史はそこに住んでみないと本当には判らないものです。
1969年から1970年にかけて一年余、ドイツのローテンブルグとシュツットガルトに家族と共に住んだことがありました。
そこで私は「30年戦争」のことを初めて聞きました。私が知らなかった大戦争です。
この「30年戦争」はドイツだけでなく全ヨーロッパを荒廃させた大戦争でした。
しかし日本の学校ではこの30年戦争の事は殆ど教えません。日本の学校教育の欠落知識です。
 
今日はこの「30年戦争」のことをご紹介したいと思います。
「30年戦争」のことはドイツ人からさんざん聞かされました。ドイツ人の歴史にとって「30年戦争」は日本人の「関ヶ原の戦い」のように大変重要な戦争だったのです。そのことが、住んでみて、はじめて身に沁みて理解出来ました。
例えば「アルト・ハイデルベルグ」という恋物語で有名なハイデルベルグ城に行くと、ガイドがこの城は「30年戦争」であちこちが破壊されました。その傷跡はこれですと城壁の壊れた部分を指さすのです。
1番目の写真は三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城です。写真の出典は、(http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。

働いていた研究所のドイツ人達と一緒にビールを飲みます。酔ってくると彼らは、決まって何かを大声で議論を始めるのです。何を議論しているか聞いてみると、「30年戦争」のことだと言います。「30年戦争」の何を議論しているのかと聞くと、「敵味方が複雑に入り組んでいてドイツ人にしか分からない問題を議論している」と答えます。そして、「実はドイツ人にもよく分からないのです」と自笑しています。日本の「応仁の乱」を思い出しました。
帰国後、折りにふれて「30年戦争」のことを少しずつ調べました。
簡単に言ってしまえばその戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。
それでは誰が誰と戦ったのでしょうか?それが判然としないのです。
勇気を出して簡略化して書けば以下のようになります。
ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。
しかしこれはこの戦争のほんの一面に過ぎません。実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。
それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。
この戦争は、道義もルールも皆無な傭兵が主体で行われました。
この傭兵たちがドイツの農民を殺し、略奪をしつくしたのです。ドイツ全土が傭兵たちによって荒廃させられたのです。
そして戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったそうです。
人間の領土欲、権力欲、殺戮欲などの低次元な欲望が恥も外聞もなく発揮された戦争でした。ですから私はこれを、「ヨーロッパ文化の闇」の一つと言うのです。
末尾に少しだけ参考資料を付けました。
 
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料=========================

The_hanging_by_jacques_callot1
2番目の写真は三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』(1632年)です。
 
三十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いたのです。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからです。しかし、戦争が長引くとインターバルの期間は次第に短くなり、三十年戦争の最終段階では13年間にもわたる戦闘が繰り広げられたのです。

この戦争は4つの段階に分類することができ、後になるほど凄惨さを増していった。この4段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。

  • 第1段階:ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)
  • 第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)
  • 第3段階:スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)
  • 第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)
三十年戦争は新教派(プロテスタント)とカトリックとの間で展開された宗教戦争と捉えられることが多いが、それはこの戦争の単なる一側面に過ぎない。
この戦争が単なる宗派対立による宗教戦争ではないことは、戦争勃発当初から明らかであった。
衝突した勢力:
新教徒勢力
スウェーデンの旗 スウェーデン (1630?)
フランス王国の旗 フランス王国(1635?)
デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー (1625?1629)
ボヘミアの旗 ボヘミア王国 (1618-1620)
ネーデルラント連邦共和国の旗 ネーデルラント連邦共和国
ザクセン選帝侯領の旗 ザクセン選帝侯領
Flag of The Electoral Palatinate (1604).svg プファルツ選帝侯領 (-1623)
Brandenburg Wappen.svg ブランデンブルク=プロイセン
Coat of Arms of Brunswick-Lüneburg.svg ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
イングランド王国の旗 イングランド王国 (1625-30)
Flag of Transylvania before 1918.svg トランシルヴァニア公国
反ハプスブルク家諸勢力
 
ローマ・カトリック勢力 (ハプスブルグ家側)
( Catholic League (Germany).svg カトリック連盟 ハプスブルク君主国の旗 オーストリア大公国 ボヘミアの旗 ボヘミア王国 (1620-) )
スペインの旗 スペイン帝国
Flag of the Habsburg Monarchy.svg 王領ハンガリー
Flag of the Kingdom of Croatia (Habsburg).svg クロアチア王国
デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー (1643?1645)
   
 

「驚いたドイツ人の趣味、大きな電気機関車を所有する趣味」

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
近代国家は個人を尊重し、個人の自由を守る社会で出来ています。個人の権利を可能なかぎり拡大し、保護する社会です。
欧米で暮らした経験のある日本人はしみじみと「嗚呼、日本は まだまだだ!」と思い知ることに何度も遭遇します。
今日は大きな電気機関車を所有し運転する趣味を持っているドイツ人をご紹介したいと思います。
蒸気機関車を一人で運転するのは難しいものですが、電気機関車なら一人で運転する趣味ができそうです。
そんな究極の趣味を楽しんでいる女の人がドイツにいるのです。バーバラ・ピルヒさんという当時51歳の女性です。

1番目の写真はバーバラさんが個人所有していた電気機関車に似たドイツの電気機関車の写真です。
バーバラさんが持っている電気機関車は1944年製で158-2という番号が付いた機関車です。2008年にドイツ鉄道という大会社から購入しました。
何時もはドイツ鉄道のある駅のレールを借りて、そこに停めています。
そしてドイツ鉄道の委託契約に従って貨物列車を牽引してドイツ中を走り回ります。
それが彼女の趣味なのです。
日本では考えられない趣味です。
それがドイツでは何故可能なのでしょうか?
簡単に言えばドイツでは個人を尊重し、個人の権利と自由を可能な限り尊重する社会だからです。
その上にバーバラさんは以前にドイツ鉄道の機関士だったのです。大会社で働くより個人の機関士として自由に走りたいと思い、2001年に会社を辞めフリーの機関士として独立したのです。
そして2008年にはドイツ鉄道から1944年製の電気機関車を一台購入したのです。
ドイツ鉄道はバーバラさんの貨物列車の正確な牽引技術を信頼して、貨物列車の牽引輸送を契約によって発注しているのです。
バーバラさんはただ走り回るだけが趣味ではありません。この1944年製の古い電気機関車を保守、管理し将来、鉄道遺産として博物館に動態展示されるように情熱を注いでいるのです。
以上は2018年2月20日の読売新聞の朝刊の「マイ機関車、独走」という記事の抜粋です。 なおバーバラさんが実際に運転している動画は下記に出ています。
http://kageno53.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/br194-7ffb.html
クリックしてご覧下さい。

この記事はいろいろな事を考えさせます。
近代国家では個人を尊重し、個人の権利と自由を可能な限り尊重する社会から成り立っています。
この記事を見ると日本はまだまだ個人の権利と自由が制限されている社会なのだと新ためて認識されます。
日本では列車の牽引は個人に任せては危険だと考えます。そして個人の権利を自己規制してしまうのです。
個人を信頼しないのです。
日本では危険な場所には看板が立っていて、「立ち入り禁止」と大きく書いてあります。
ドイツの看板は、「危険!入るなら自己責任」と書いてあります。ドイツでは危険な場所に入るのは自由なのです。日本では入るなと命令しているのです。

さてドイツの機関士は自分の子供を運転室に乗せても良いという規則もあります。
昔、ドイツに住んでいた時、運転室に子供が乗った列車と何度も行き違い、吃驚しました。
ドイツでは機関士は職人社会のマイスターなのです。親方なのですす。マイスターは苦しい遍歴徒弟の時代を経てやっとなれるのです。したがってマイスターにはそれなりの特権があります。子供を運転室に乗せるのには、そんな伝統的な背景があるのでしょう。
そしてドイツの職人社会では子供が親の仕事を継ぐことが尊重されます。
今日ご紹介した電気機関車を個人所有しているバーバラさんの父親も機関士だったのです。こんな背景もあって電気機関車の個人所有が可能だったと考えられます。
同じ近代国家と言っても日本とドイツの社会の相違の大きさに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ヨーロッパの悲惨な戦災とマックス・プランク研究所の思い出」

2025年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦でヨーロッパの大都市はドイツ軍によって徹底的に破壊されました。その荒廃した都市の写真をご覧下さい。
1番目の写真はドイツ軍によって破壊されたソ連のミンクス市です。写真はインターネットからお借りしました。
2番目の写真はドイツ軍の空襲下のロンドンです。
3番目の写真はドイツ軍によって破壊されたチェルブルクです。
ドイツでは 1945年4月30日ヒトラー自殺し、 1945年5月7日ドイツが西側の連合国軍に降伏しました。 1945年5月9日にはドイツがソ連に降伏して第二次世界大戦が終わりました。
各国の戦死者数はソ連の1450万人が図抜けて多く、ドイツの280万人がこれに次いで多くなっています。中東欧のオーストリア、ポーランド、ルーマニアも、それぞれ40~85万人と多かったのです。
第二次世界大戦は歴史上もっとも大規模にヨーロッパ諸国を荒廃させたのです。ヨーロッパの悲惨な戦災です。
さて私のドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。
マックスプランク研究所で得た体験を書きます。研究所の写真を示します。
4番目の写真はあるマックス・プランク研究所です。写真は幾つもあるマックスプランク研究所の一つです。いろいろな分野のマックス・プランク研究所がドイツの各地に散在しているのです。
私は以前のアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。
しかし、マックスプランク研究所である専門書を共同執筆したプルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えたのでした。
「日本人は中国人を軽蔑しているが、ドイツ人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきと思う」
プルシュケル氏は東ドイツにある村に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に村人は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員になった人です。
このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うので、深く考え直すキッカケになりました。
その後、1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました。周栄章さんは2004年に亡くなりました。
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1981年に北京に行った私に周栄章さんが声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。このようにしてドイツ人のプルシュケル氏の話しをキッカケにして私の中国人との深い交流が始まったのです。ドイツ人のプルシュケル氏が私の浅薄な考え方を変えたのです。

それにしてもドイツ人は第二次大戦で悲惨な体験をしたものです。その原因はヒットラーの野望でした。ロシアに深く攻め込んで2000万人ものロシア人を殺したのです。

平和な21世紀に感謝しています。感謝こそが平和を守る礎なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
マックス・プランク協会 - Wikipedia より、

世界最高峰の学術研究機関であり、前身のカイザー・ヴィルヘルム協会時代も含め、37人のノーベル賞受賞者を輩出している(2021年10月現在)。84の独立したマックス・プランク研究所(Max-Planck-Institut)を傘下に収める。 

マックス・プランク協会の研究対象は、下記の3分野に大別される。
  • 生物・医学分野
  • 化学・物理学・工学分野
  • 精神科学・社会学・人間科学分野
年間予算は18億ユーロ。連邦政府および州政府の公的資金で賄われている。マックス・プランク協会は戦前のカイザー・ヴィルヘルム協会の後継機関であり、高名な物理学者であるマックス・プランクに因んで名付けられた。
マックス・プランク協会は、84の独立したマックス・プランク研究所(Max-Planck-Institut)を傘下に収める。
著名なマックス・プランク研究所にはアインシュタインが所長を務めたマックス・プランク物理学研究所などがある。




「お遍路さんにまつわる写真」

2025年02月23日 | 写真
日本人ならお遍路さんのことを知っています。実際に歩けなくとも何となく憧れています。
「お遍路」とは、約1200年前に弘法大師(空海)が修行した88の霊場をたどる巡礼のことです。お遍路する人のことを「お遍路さん」と呼びます。
巡礼の旅は徳島からはじまり、高知、愛媛、香川の順にめぐるものでず。「回遊型」の参拝ルートが特徴です。
その道のりは約1400kmにも及び、すべての札所を巡拝することで願いが叶ったり、弘法大師の功徳を得られるといわれています。
地元の人の笑顔やあたたかいもてなし「お接待」も魅力のひとつです。
お遍路さんにまつわる写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.iyokannet.jp/feature/henro/kihon です。

「2月23日 年間第7主日のミサの動画配信」

2025年02月23日 | 日記
広島のカトリック曙町教会の今日のミサです。

第1朗読 サムエル記上 26章2、7~9、12~13、22~23節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章45~49節
福音朗読 ルカによる福音書 6章27~38節

〒730-0016
広島県広島市中区幟町4-42
TEL082-221-0621 FAX082-221-8486

なお写真は国宝の大浦天主堂です。

大浦天主堂は、幕末の開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設された中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。

1864年末に竣工し、翌年2月に祝別されました。
1933年に国宝となりましたが、原爆による損傷の修復が完了した後、現存する日本最古の教会建築として1953年に再度国宝に指定されました。

「浅草の「駒形どぜう」の歴史」

2025年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
 「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。
初代が始めたどぜうなべ・どぜう汁に加え、三代目助七がくじらなべを売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。
やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の七代目へと引き継がれております。

私も妻とともに1960年代に何度か行きました。そこはかとない江戸時代の雰囲気があります。柳川鍋を食べていると江戸時代の人間になったような気分になったものです。
「駒形どぜう」の写真をお送り致します。
1番目の写真は現在の 「駒形どぜう」の入り口です。
2番目の写真は創業100年当時 の写真です。
3番目の写真は戦後 すぐの「駒形どぜう」です。
4番目の写真は創業から190年後の 「駒形どぜう」の店です。


「農家を見ると戦争中の疎開生活とドジョウ汁を思い出す」

2025年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井公園にある江戸東京たてもの園には3軒の昔の農家が展示されています。農家を見ると戦争中の疎開生活のいろいろを思い出します。広い水田や田舎の小学校などを思い出します。終戦の玉音放送はその小学校の校庭で聞きました。
いろいろを思い出しますが印象深かったのはドジョウ汁でした。そこでドジョウ汁をご紹介したと思います。
私は弟2人と共に宮城県の北の農村に疎開しました。そこでドジョウ汁を初めて食べました。農家の夕飯によく出たのです。
江戸東京たてもの園の昔の農家を見る度にそんなことを時々思い出します。

1番目の写真は私が疎開した宮城県の北の農村によく似た農村の風景です。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家で馬を飼っていました。珍しいので草をよく食べさせました。

2番目の写真は大鍋がぶら下がった囲炉裏の写真です。。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家では朝と昼の2食には白米が出ました。夜は囲炉裏の大鍋でスイトンを煮て食べました。皆で車座になってスイトンを食べるのです。その時水田の水路で取ったドジョウをたくさん入れるのです。濃厚なドジョウ汁です。ドジョウには脂がのっていて芳醇な味わいです。
食糧難の仙台から疎開したのでドジョウ汁は大変美味しいご馳走でした。感動的な食べ物でした。
その感動は忘れられません。それから暫くして東京に住むようになりました。そうしたら東京にドジョウの専門店があったのです。浅草の「駒形どぜう」です。

3番目の写真は浅草の「駒形どぜう」の本店です。写真はインターネットからお借りしました。
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は埼玉県北葛飾の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。それが現在の「駒形どぜう」の本店になったのです。
「駒形どぜう」で疎開先の農家で食べたドジョウの美味しさを思い出して浅草の「駒形どぜう」の本店に家内と一緒に行きました。

4番目の写真は「駒形どぜう」の丸どじょぅ鍋です。

5番目の写真は「駒形どぜう」の柳川鍋です。
「駒形どぜう」のドジョウは淡白で泥臭くないのです。妻は初めてドジョウを食べましたが泥臭くないので美味しいと言います。しかし私は少し泥臭い芳醇な味が忘れられません。疎開した農家で食べた味が忘れられません。

今日は戦争中の疎開生活で食べたドジョウ汁にまつわる思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「郷愁を誘う ”よろず屋” のある風景」

2025年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昔、 ”よろず屋” は全国にありました。戦後しばらくしてスーパーマーケット
が増えてくると次第に消えて行きました。でも地方に行くと ”よろず屋”がまだ健在です。
今日は郷愁を誘う ”よろず屋” のある風景をご紹介致したいと思います。
1番目の写真は小金井公園にある江戸東京たてもの園に展示してある小寺醤油店 です。醬油店からはじめて ”よろず屋”になった店です。
大正期から、現在の港区白金で営業していた商店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。 
2番目の写真は小寺醤油店の商品です、ウイスキーや日本酒をはじめ色々なものを売っていました。

3番目の写真は山梨県の私の山小屋の近所にある野本商店という”よろず屋”です。よくビールを買って山小屋で飲んだものです。
4番目の写真は地方にある”よろず屋” の一例です。
5番目の写真は現在でも健在な地方にある”よろず屋” の店先です。熊手や箒から家庭用品までいろいろ売っています。何度も花火を買って山小屋で花火を楽しんだことを思い出しました。

今日は郷愁を誘う ”よろず屋” のある風景をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)