575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

俳句教室お休み   遅足

2009年07月01日 | Weblog
中京大学で新型インフルエンザの患者が出て
俳句教室も、お休みとなりました。
いよいよ新型インフルエンザも身辺に・・・

   

正木ゆう子さんの句集「静かな水」を
パラパラとめくってたら、
地下鉄 四句として冒頭にこんな句が。

  地下鉄にかすかな峠ありて夏至

一度、地下鉄を詠もうと試みたのもこの句を読んだことから。
なぜ、この句に魅かれるのか?

人工的な都市空間で、自然から一番遠そうなもののひとつが地下鉄。
季節感はほとんどない。
なのに、わずかな高低を感じる身体感覚。
それを夏至という季節感に取り合わせるセンス。
地球というか、宇宙感覚と、身体感覚が共振して
この句が生れたのだろうか?

都市のなかに残された自然としての人間の身体。
その身体が宇宙とつながっているという発見。
それが、私のココロを揺さぶるのだろうか?
哀しい句かも・・・











  
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時間はどこで生れるのか? 遅足

2009年07月01日 | Weblog
92歳の母をみていると、自分が転んだことは覚えていますが、
それが昨日だったのか?一昨日だったのか?は定かではありません。
さらに、30分前に、飲んだ薬のことを、もう忘れています。
加齢によって、時間の観念が失われていくのがよく分かります。

時間とは、一体、なんなんだろうか?そんな疑問が湧いてから
あちこちの本を読みましたが、今ひとつでした。
そして、出会ったのが、この本。
「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書)。
物理学の研究者の書いたもの。
ミクロの世界では、時間も空間もない、
というのが常識だそうです。(ビックリ)
そうした常識?を土台にした時間論です。
難しくて、ほとんど理解不能でしたが、
なんとなく気に入った部分もありました。
こんな一節です。

時間は、刹那、刹那の生命の意思が作り出すもの。
生命の個体が外部から干渉をうけ、自らの行動を決断する。
その刹那、刹那から、主観的な時間が生まれる。
そうした主観的な時間には、現在しかない。

たしかに、母の話を聞いていると、「いま」が中心。
極端に言えば「今」しかありません。子供と同じ。
さっき言ったことと矛盾していても無頓着。
その時、その時の欲求にしたがっているのです。
これが、生きていることか!と思いました。

本は、もうひとつの時間について、こう説明しています。
この刹那、刹那の意思が「記録」されるようになると、
生命は誕生から死へつながる一連の自己を意識する。
こうして時間も向きや流れが意識される。

たしかに子供から大人になるということは、この時間を
身につけていくことにようです。
そして、加齢によって、この記録装置が壊れしまうのでしょう。
社会的な行動に齟齬が生じてきます。

しかし、生きているかぎり、「今」を楽しむことは出来るのです。
時間の創造は宇宙の創造である、という著者の言葉に、
納得するものがありました。

  かたつむり銀河の水をのみにゆく





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