父の新羅の鐘に関する一連の歌の中に、飛天を詠んだ歌が幾首かあります。
ろく青の 錆たる鐘の はだへにて 諸手ひろげし 天人下る
あどけなき 面わをなせる 天人は 波の上の空を 下らんとする
いままさに 鼓 打たんと 両の掌を ひろげし天人 舞ひ下るなり
父の云う天人、即ち飛天については、私も興味をいだいていました。
それは、大学の恩師である小杉一男博士(東洋美術史)の飛天に関する
講義を聞いてからのことです。
飛天というと、薬師寺東塔の水煙(すいえん) が思い出されますが、
小杉博士は、この水煙に透かし彫りになっている三体の飛天を研究されました。
小杉博士の師匠で、歌人でもある会津八一博士の薬師寺東塔を詠んだ
有名な一首があります。
水煙の 天つ乙女が ころもでの ひまにも澄める 秋の空かな
会津八一博士は、私が専攻した美術史科の初代主任教授でもありますが、
誰でも美しい飛天の姿をみれば、「天つ乙女」と思ってしまいます。
ところが、小杉一男博士は、薬師寺東塔の水煙に彫られた三体は
天人の一家だとおっしゃるのです。
成人の男女・子供の3人が刻まれていることを突き止められたのです。
小杉博士はまず、3世紀頃のインドのガンダーラ彫刻に天人の夫婦像を見出し、
そのスタイルが仏教東伝と共に中国に入ったことを、敦煌(とんこう)、
雲崗 (うんこう)などの石窟寺院に残る飛天から解明されたのです。
こうして、天人の親子一家は、中国、朝鮮を経て日本に渡って来て、
薬師寺に安住の地を得たという結論になっています。
勿論、ここ至るまでには詳細なデータに基ずく実証があるのですが…。
私もこの話に魅了されて、中国へ出かけました。
中でも、雲崗石窟に刻まれた力強い生命感と躍動感あふれる無数の飛天には
圧倒されました。
敦賀半島・常宮神社に伝わる新羅の鐘の故郷、韓国の慶州へも行って来ました。
国立博物館前には、新羅時代の大鐘があります。そこに刻まれている飛天は、
まことに、流麗でした。
中国、韓国で見た飛天に比べて、常宮神社の新羅の鐘に刻まれた飛天は
ややぎこちなく感じられましたが、その古拙さが父の心を打ったのでしょう。
天人の 頬のふくらみ 言ひがたし 無憂の顔は かくの如きか
写真は、常宮神社の新羅の鐘に刻まれた飛天。
梵鐘研究家・坪井良平氏(1897~1984) の拓本によるものです。
ろく青の 錆たる鐘の はだへにて 諸手ひろげし 天人下る
あどけなき 面わをなせる 天人は 波の上の空を 下らんとする
いままさに 鼓 打たんと 両の掌を ひろげし天人 舞ひ下るなり
父の云う天人、即ち飛天については、私も興味をいだいていました。
それは、大学の恩師である小杉一男博士(東洋美術史)の飛天に関する
講義を聞いてからのことです。
飛天というと、薬師寺東塔の水煙(すいえん) が思い出されますが、
小杉博士は、この水煙に透かし彫りになっている三体の飛天を研究されました。
小杉博士の師匠で、歌人でもある会津八一博士の薬師寺東塔を詠んだ
有名な一首があります。
水煙の 天つ乙女が ころもでの ひまにも澄める 秋の空かな
会津八一博士は、私が専攻した美術史科の初代主任教授でもありますが、
誰でも美しい飛天の姿をみれば、「天つ乙女」と思ってしまいます。
ところが、小杉一男博士は、薬師寺東塔の水煙に彫られた三体は
天人の一家だとおっしゃるのです。
成人の男女・子供の3人が刻まれていることを突き止められたのです。
小杉博士はまず、3世紀頃のインドのガンダーラ彫刻に天人の夫婦像を見出し、
そのスタイルが仏教東伝と共に中国に入ったことを、敦煌(とんこう)、
雲崗 (うんこう)などの石窟寺院に残る飛天から解明されたのです。
こうして、天人の親子一家は、中国、朝鮮を経て日本に渡って来て、
薬師寺に安住の地を得たという結論になっています。
勿論、ここ至るまでには詳細なデータに基ずく実証があるのですが…。
私もこの話に魅了されて、中国へ出かけました。
中でも、雲崗石窟に刻まれた力強い生命感と躍動感あふれる無数の飛天には
圧倒されました。
敦賀半島・常宮神社に伝わる新羅の鐘の故郷、韓国の慶州へも行って来ました。
国立博物館前には、新羅時代の大鐘があります。そこに刻まれている飛天は、
まことに、流麗でした。
中国、韓国で見た飛天に比べて、常宮神社の新羅の鐘に刻まれた飛天は
ややぎこちなく感じられましたが、その古拙さが父の心を打ったのでしょう。
天人の 頬のふくらみ 言ひがたし 無憂の顔は かくの如きか
写真は、常宮神社の新羅の鐘に刻まれた飛天。
梵鐘研究家・坪井良平氏(1897~1984) の拓本によるものです。