内外海半島の入り口にある「いるかや」周辺も高度経済成長期、開発の波が
押し寄せてきました。
我が家の裏手に広がる入江の真正面に久須夜岳(619m)がそびえていますが、
昭和47年7月、この内外海半島のシンボルにエンゼルラインという名の観光有料道路が
開通します。
昭和45年(1970) の着工以来、秀麗で緑なす久須夜岳が次第に削られて赤茶けた肌を
さられしていきます。
その頃の父の歌から
久須夜ヶ岳山肌赤く削られゆき 傷傷しかりし此の一年は
赤肌となりたる久須夜の山の傷 わが神経にひびきて痛し
幾億年かかりて今に落ちつける古生層の山ぞ 何ゆえ削る
雨霧のおほへるときにおぼろなり 久須夜ヶ岳の山肌の傷
入海の岬の山の真じかくに住みて四十年 山削らるる
エンゼルラインの工事を請け負った大手建設会社の社長は父と歌友であり、我が家へも
時々、立ち寄られたこともあります。
しかし、この一連の歌が短歌誌「創作」に発表されると、それ以来、父とその社長とは
疎遠になってしまいました。
父は自然破壊など社会の動きには常に敏感で、「いるかや」に立ち寄るお客さんを
つかまえて、社会の動きについての持論を喋っているのをよく見かけました。
その後、「いるかや」の周辺はどう変貌したのか。
昭和30年代までは藁葺きの家が殆どでしたが、次々に近代的な建物に生まれ変わり、
以前と変わらないのは、「いるかや」の建物ぐらいになりました。
村々へはトンネルが貫かれ、道は拡張されてアスファルト舗装されました。
父の昭和44年の歌に
籠に担ひ魚運びしもなくなりて 単車走らす漁夫の女ら
小浜の町の魚市場まで、早朝、魚を運ぶのは女の仕事。籠に詰めた魚を荷(になえ)棒の
両端に吊るして肩に担い、一気に峠を越え、平坦地に出た所にある「いるかや」で、
一休みするのが習わしでした。それが単車に、更にマイカーに変わり、「いるかや」を
素通りしていくようになりました。
写真は小浜港から見た久須夜岳(619m)
押し寄せてきました。
我が家の裏手に広がる入江の真正面に久須夜岳(619m)がそびえていますが、
昭和47年7月、この内外海半島のシンボルにエンゼルラインという名の観光有料道路が
開通します。
昭和45年(1970) の着工以来、秀麗で緑なす久須夜岳が次第に削られて赤茶けた肌を
さられしていきます。
その頃の父の歌から
久須夜ヶ岳山肌赤く削られゆき 傷傷しかりし此の一年は
赤肌となりたる久須夜の山の傷 わが神経にひびきて痛し
幾億年かかりて今に落ちつける古生層の山ぞ 何ゆえ削る
雨霧のおほへるときにおぼろなり 久須夜ヶ岳の山肌の傷
入海の岬の山の真じかくに住みて四十年 山削らるる
エンゼルラインの工事を請け負った大手建設会社の社長は父と歌友であり、我が家へも
時々、立ち寄られたこともあります。
しかし、この一連の歌が短歌誌「創作」に発表されると、それ以来、父とその社長とは
疎遠になってしまいました。
父は自然破壊など社会の動きには常に敏感で、「いるかや」に立ち寄るお客さんを
つかまえて、社会の動きについての持論を喋っているのをよく見かけました。
その後、「いるかや」の周辺はどう変貌したのか。
昭和30年代までは藁葺きの家が殆どでしたが、次々に近代的な建物に生まれ変わり、
以前と変わらないのは、「いるかや」の建物ぐらいになりました。
村々へはトンネルが貫かれ、道は拡張されてアスファルト舗装されました。
父の昭和44年の歌に
籠に担ひ魚運びしもなくなりて 単車走らす漁夫の女ら
小浜の町の魚市場まで、早朝、魚を運ぶのは女の仕事。籠に詰めた魚を荷(になえ)棒の
両端に吊るして肩に担い、一気に峠を越え、平坦地に出た所にある「いるかや」で、
一休みするのが習わしでした。それが単車に、更にマイカーに変わり、「いるかや」を
素通りしていくようになりました。
写真は小浜港から見た久須夜岳(619m)