先日、テレビの「 ブラタモリ 」で、山形県の酒田市を取り上げていた
のを見て、急に行ってみたくなりました。
私は腎臓病のため、食事の関係で、せいぜい旅は一泊と決めているの
ですが、さて、名古屋から酒田へ一泊二日で行く最も効率的な行き方は
と、調べてみました。
庄内空港が一番、早いのですが、直行便がありません。そこで、愛知
県営名古屋空港から山形空港へ。ここから、行きは列車で最上川を見
ながら酒田方面で一泊、帰りは高速バスで月山を眺めながら山形空港
ということにしました。
このコースは計らずも先日、遅足さんご夫妻が行かれた芭蕉の「 奥の
細道 」の道筋の一部と重なっています。
" 俳句や短歌をつくりたくとも、その能力のない上 、古文が苦手な者が
「 奥の細道 」か "と自問しながら本屋へ行ってみました。
現代語訳でもよいのですが、矢張り原文をと思い、岩波文庫の「 おくの
ほそ道 」をテキストにすることにしました。
これには、原文の難しい漢字にはルビが振ってあり、註釈も付いています。
それに、芭蕉の旅のお供をした河合曽良 ( そら )の克明な旅日記も載って
います。
私はこの岩波文庫をリックに入れ 旅の移動中、読むことにしましたが、
旅の前に予備知識として、一通り目を通してみました。
私の興味はもっぱら、当時の旅がどんなものであったか、その一端でも
わかれば、というところにあります。
まず、奥州街道の宿場、草加 ( 今の埼玉県草加市 )の記述の中で旅支度
として、
「 紙子一衣 ( かみこいちえ )は夜 ( よる ) の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・
筆のたぐい 」
と出てきます。
註釈によると、紙子とは 「 紙製の防寒用の着物。当時 地方の旅では寝具
の用意がなかった 」と出ています。
江戸時代、宿場には大名などが宿とした本陣、食事付きで時には沐浴も
できる旅籠屋(はたごや )の他に木賃宿 ( 米を持参し、薪代を払って泊め
てもらう )があったそうです。
芭蕉は当時の名家や医者、お寺を旅の宿としている場合が多いようですが、
木賃宿や見知らぬ " 貧家 " にも宿泊しているようです。
広辞苑によると、紙子とは 「 厚紙に柿渋を引き、乾かしたものを揉みやわらげ、
露にさらして渋の臭みを去つてつくった保温用の衣服 」 とのこと。
それにしても、冬場に紙製の着物に浴衣などあり合わせの衣類で夜を過ごすのは、
いくら薪代を払って囲炉裏の 近くで、寝たとしても、さぞ寒かったことと思います。
芭蕉はこの寒い季節を避けて 旅の日程を組んでいます。
芭蕉の門人 曽良の旅日記によると、芭蕉は元禄2年 ( 1689 )3月27日 (今の5月16日 )
江戸深川の芭蕉庵を出発 、奥州から北陸の各地を経て大垣に入り 、伊勢参宮へと
出発する9月6日 ( 今の10月18日 )までの約5ヶ月半の紀行。芭蕉はこの時 、46歳。
人生50年の時代、この年齢で門人から翁と呼ばれていたんですね。
( もっとも先生というほどの意味かも )
芭蕉の旅から330年のち、私は飛行機で山形へ向かいました。一泊二日の旅です。
つづく
写真は山形県酒田市の山居 ( さんきょ ) 倉庫。
旧 庄内藩主 酒井家によって建てられた もので、ケヤキ並木と
12 棟の倉庫が並んでいて 、今も農業倉庫として使われている。
今年10月28日 筆者 撮影