575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

父の「新羅の鐘」から「飛天」の旅へ ②  竹中敬一

2016年12月16日 | Weblog
父の新羅の鐘に関する一連の歌の中に、飛天を詠んだ歌が幾首かあります。

  ろく青の 錆たる鐘の はだへにて 諸手ひろげし 天人下る

  あどけなき 面わをなせる 天人は 波の上の空を 下らんとする

  いままさに 鼓 打たんと 両の掌を ひろげし天人 舞ひ下るなり

父の云う天人、即ち飛天については、私も興味をいだいていました。
それは、大学の恩師である小杉一男博士(東洋美術史)の飛天に関する
講義を聞いてからのことです。
飛天というと、薬師寺東塔の水煙(すいえん) が思い出されますが、
小杉博士は、この水煙に透かし彫りになっている三体の飛天を研究されました。

小杉博士の師匠で、歌人でもある会津八一博士の薬師寺東塔を詠んだ
有名な一首があります。

  水煙の 天つ乙女が ころもでの ひまにも澄める 秋の空かな

会津八一博士は、私が専攻した美術史科の初代主任教授でもありますが、
誰でも美しい飛天の姿をみれば、「天つ乙女」と思ってしまいます。
ところが、小杉一男博士は、薬師寺東塔の水煙に彫られた三体は
天人の一家だとおっしゃるのです。
成人の男女・子供の3人が刻まれていることを突き止められたのです。

小杉博士はまず、3世紀頃のインドのガンダーラ彫刻に天人の夫婦像を見出し、
そのスタイルが仏教東伝と共に中国に入ったことを、敦煌(とんこう)、
雲崗 (うんこう)などの石窟寺院に残る飛天から解明されたのです。

こうして、天人の親子一家は、中国、朝鮮を経て日本に渡って来て、
薬師寺に安住の地を得たという結論になっています。
勿論、ここ至るまでには詳細なデータに基ずく実証があるのですが…。

私もこの話に魅了されて、中国へ出かけました。
中でも、雲崗石窟に刻まれた力強い生命感と躍動感あふれる無数の飛天には
圧倒されました。

敦賀半島・常宮神社に伝わる新羅の鐘の故郷、韓国の慶州へも行って来ました。
国立博物館前には、新羅時代の大鐘があります。そこに刻まれている飛天は、
まことに、流麗でした。

中国、韓国で見た飛天に比べて、常宮神社の新羅の鐘に刻まれた飛天は
ややぎこちなく感じられましたが、その古拙さが父の心を打ったのでしょう。

  天人の 頬のふくらみ 言ひがたし 無憂の顔は かくの如きか

写真は、常宮神社の新羅の鐘に刻まれた飛天。
梵鐘研究家・坪井良平氏(1897~1984) の拓本によるものです。
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年用意進んでますか?   麗

2016年12月15日 | Weblog
昨日、知り合いの農家の方から大きな白菜をいただきました。
あまりに立派なので、これから白菜の株漬けにチャレンジします。4半分に切り半日干して、ホーローの容器に入れて塩と昆布、ゆずの皮も入れてつけ込みます。母の味を受け継げるかな?

大阪の実家ではこの時期、大量の大根と白菜の漬け物をつけていました。美味しくできあがったころ、新年に宅配でよく送られてきたものです。

母が倒れてからも、父は毎年やっているからと今年も大根15本、白菜4玉つけ込んだそうです。
「お父さん!もう、たくわんは歯が悪くてそんなに食べられないから、つけるのやめたら?」と省エネを促したのですが「つけます!」とばっさりと切られました(笑)

年末の大事な年用意のひとつとしてやらなくては縁起が悪いと感じるのでしょう。
まあ、出来る範囲で無理なくと思っています。

父に電話して「私も白菜漬けるよ。」と言ったら「昆布もいれや~。」とアドバイスまでくれました。

          白菜を漬けて始まる年用意   麗 

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12月句会が近づいてきました。  遅足

2016年12月14日 | Weblog
今回の題詠は「年用意」です。
年用意とは、新年を迎えるために様々な準備をすること。
掃除、床の飾り、注連縄張り、新年用の買い物、料理の準備など。
昭和40年代くらいまでは、お隣から餅つきをする音が聞こえてきました。
その後、自動餅つき機が登場、ぺったん、ぺったんという音も聞かれなくなりました。
父の家にあった石臼もいつの間にか消えました。
おせち料理もパックで販売される時代。
おせちの注文をすることが年用意になっていますね。

春着の仕立ても年用意のひとつですが、絶滅季語でしょうか?
生活スタイルの変化で季語の世界も大きく変貌しています。
新しい平成の年用意を詠んで下さっても良いですね。

  年用意犬の首輪を買ひにけり  波田美智子

  年用意壁塗り替へる家多し   青木光子

  年用意血圧計の電池替ふ    吉田多美

  レシートの裏にメモする年用意 橘沙希

           

雨があがって晴。風がつよくなっていました。
木枯しの季節です。人間ばかりでなく鳥もインフルエンザに。
手洗い、うがい、十分な睡眠・・・
鳥は十分な睡眠がとれているのでしょうか?  

  風邪ひかぬこともひとつや年用意   遅足


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「奄美は晴れ」テレビの声を聞きながらフェリーのキャビンに旅立ちを待つ

2016年12月13日 | Weblog
先日、奄美大島に行ってきました。セントレアから鹿児島空港へ。
乗り継いで奄美空港へ。意外と早く着きました。
奄美大島の古仁屋から加計呂麻島へ渡るフェリーのうえで詠んだ歌です。
25分の船旅。瀬相に到着。車で目的地の呑之浦(のみのうら)へ。
そこは、波も静かな小さな入江でした。

ここに太平洋戦争の末期、海軍の特攻基地が設けられました。
特攻艇の名は震洋(しんよう)。小型のベニヤ製のモーターボート。
火薬を搭載し、搭乗員もろともに敵艦に体当たり攻撃をするのが目的。
生還はありません。搭乗員に選ばれた多くが、学徒兵や海軍飛行予科練習生。
いわばインスタントの兵士たち。熟練を積んだ兵は選ばれませんでした。

ここの特攻隊の隊長として、若き学徒・島尾敏雄さんがいました。
村の小学校の先生をしていた大平ミホさんと出逢います。
死を目前に二人は恋に・・・
昭和20年8月13日。島尾さんに出撃待機命令がきます。

八月十三日 夜中  (特攻戦発動、出撃準備ノ夜・ミホさんより)

  北門ノ側マデ来テイマス

  ツイテハ征ケナイデショウカ

  オ目ニカカラセテクダサイ

  オ目ニカカラセテクダサイ

  ナントカシテオ目ニカカラセテクダサイ

  決シテ取リ乱シタリイタシマセン
                     
八月十四日早朝  (出撃発進ノカカラヌママ夜ガ明ケタ・トヲオさんより)

  ミホ。

  ドウデス、ボクノ言ウ通リデショウ。

  ゼッタイシンパイシテハイケマセン。

  コンヤモオイデ、ユウベノトコロマデ。

  コチラカラハチョット出テ行ケナイカラネ。

  シオハ最低ガアサノ5時スギ、夕ベヨリ1時間近クオソイノデス。

  ボクハ3時半前後アノヘンニ出テミマス。

  チョットシカアエナイケレドモ、チョットダケオマエノ顔ヲミレバヨイノデス。

  カワイイ カワイイ ミホニ 
                  
八月十五日夜  (トシヲさんより)

  元気デス。

  ミホヘ

往復書簡の一節です。
この出逢いは後に「島の果て」という小説になっています。

山ひとつ越えたところが押角(おしかく)。
ミホさんの勤めていた小学校のあった集落です。
あれから70年。小学校はすで廃校。ミホさんの生家も石垣を残すのみでした。
加計呂麻の海は美しく澄んでいました。

  戦いにのぞみし人の素早さで海辺の蟹は姿を消しぬ

最近、ミホさんのことを取り上げた「狂うひと」が出版され、
先日、中日新聞の読書欄にも紹介されていました。

                           (遅足)
写真は呑乃浦にある記念碑。特攻隊の本部のあったところ。
島尾夫妻と長女のお墓もありました。

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葱刻む今も膨張する宇宙    遅足

2016年12月12日 | Weblog
亜子さんは、葱刻む、から包丁を連想。
かすかな殺意のようなもの、
衝動的な破壊への欲望を感じたそうです。

宇宙の始まりはビッグバン。
これは、神の破壊衝動から始まったのかも知れませんね。

立雄さんは、宇宙には地球のような生命の存在する星があり、
同じように葱を刻んでいる景を想像したそうです。

いずれも作者の一歩先を行く読みで、これこそ句会の醍醐味です。

           

小さなモノと大きなモノの取り合わせですが、
今の科学でモノの大きさは、どこまで分かっているのでしょうか。
単位はメートルです。

宇宙の果て    1.4✖10の26乗
原子核の大きさ  10のマイナス15乗

だそうですが・・・  ちょっと想像力がついていけません。







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渡り鳥汚れた羽をたたみおり    狗子

2016年12月11日 | Weblog
日本に到着した渡り鳥がほっと一休み。羽根をたたんでいます。
作者は羽根の汚れに気付きました。
どんな鳥とは言っていませんが、純白の鳥を想像しませんか?

琵琶湖にやってくるコハクチョウの群れ。
田圃の落穂拾いをしている姿をみたことがあります。
私が見たのは春先、まだ羽根の白くない子供の姿もありました。
みなドロンコでした。

渡り鳥といっても、種類も様々、飛ぶ距離もさまざま。
一番長い距離を飛ぶのは、キョクアジサシだそうです。
体重100グラムあまりのこの鳥、毎年、グリーンランドと南極の間を
往復していることが分かったそうです。

ばさばさと、羽ばたいて飛ぶ鳥は、体重の重いほど距離は短く、
ツル、ガン、ハクチョウなどは、シベリアから日本くらいの距離を。
一方、上昇気流や風を利用する鳥は、距離と体重とは無関係。
アホウドリやコンドルは、その重い体にもかかわらず、
もっとスケールの大きな渡りをするそうです。

          

  木枯らしの後トランプの大嵐

同じ作者の自由題の句。いまも吹き止まぬトランプ嵐。
背景には政治不信があるようです。
ネットのなかで、こんな言葉をみつけました。

  政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。
  それは個人の腐敗であるにすぎない。
  政治家が賄賂をとってもそれを批判することが出来ない。
  それを政治の腐敗というんだ。(ヤン・ウェンリー)

この言でいけば韓国には政治の腐敗はありませんね。
ヤン・ウェンリーとは、アニメ・銀河英雄伝説の主人公だそうです。

                     遅足


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夕暮れの天橋立鳥渡る   郁子

2016年12月10日 | Weblog
天橋立は、京都・宮津市の宮津湾と内海を隔てる砂州。
松林の緑が美しい日本三景の一つです。
観光客は、天橋立を見下ろす高い場所へ。股のぞきも。

夕暮れ時、時々刻々と色を変えてゆく空。
眼下には天下の名勝、天橋立。
再び目をあげれば、鳥が渡っていきます。

絵のような句です。しかし何か物足らない気も。
17文字が実景に及ばない感じがします。

夕暮れ、を旧仮名にしてみてはどうでしょうか?

  ゆふぐれの天の橋立鳥渡る

初句が旧仮名になると、小さな違和感が生まれます。
この瞬間がどんな効果を読み手に与えるのか・・・
小さなテクニックですが。

枕詞を使う方法もあります。

  ひさかたの天の橋立鳥渡る

  光降る天橋立鳥渡る

          

17文字しかない俳句は意味を伝える詩形ではないようです。
読み手の想像力を刺激出来るかどうか、が勝負。
小さな?を、感じさせる工夫が要るようです。

  十二月八日 掌をうらがえす   遅足

?と思って下さったら成功ですが・・・
意味はありません。

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父と「新羅の鐘」①   竹中敬一

2016年12月09日 | Weblog
私の父、竹中皆二は名古屋の第八高等学校 (旧制)時代、理科を専攻していましたが、
在学中、短歌に興味をひかれ、歌人、若山牧水が創設した短歌結社「創作社」に入会。
たまたま、三河の鳳来山で牧水と出会ったことが父の運命を変えました。
父は八高を中退し、浪々の末、郷里の若狭で今でいうコンビニを営みながら、
歌の道に進みました。店は母まかせでした。
私は母にいつも苦労をかけている父の姿を見て育ったせいか、父への反発もあって、
最近になるまで、短歌にはあまり関心がありませんでした。

父は平成6年、92歳で亡くなりましたが、生涯に第七歌集まで、世に出しています。
まだ、すべての歌集に目を通していませんが、第三歌集「 しらぎの鐘 」の中で
数十首は気に入って、歌集を見なくとも、朗詠できます。
牧水直伝の朗詠を父がよく口にしていましたので、私もまがりなりにも、うたえます。

  秋めきし しほ風絶えず 吹き居れば しらぎの鐘は なりひびくなり

父の云う新羅の鐘とは、敦賀半島(福井県敦賀市) の常宮神社に伝わる古代朝鮮の国、
新羅の時代の鐘のことです。
平井良平著「梵鐘」によれば、常宮神社の鐘には太和7年 (833) 慶尚南道普州、
蓮池寺の銘があり、「本邦渡来の在銘鐘中 最古もの」で、すでに明治37年には
国宝に指定されています。

  しらぎの鐘 しずまりかへりて 居るゆゑに その沈黙の ひびきをきけや

  しらぎの鐘 虚空に清く ひびくゆゑ まなこをつむり きき入らんとす

  敦賀の海 やや秋めきて 波だてり しらぎのかねを 三たび撞きて去る

神社の話では、父が訪れた昭和30年頃までは、誰でも お堂に入って鐘を撞くことが
できたそうです。しかし、昭和40年の豪雪でお堂の屋根が壊れ、その後、新しく
建て替えられてからは一般の人は入れなくなりました。

平成10年、私は初めてこの常宮神社を訪れました。
鐘撞堂の扉は閉まっていましたが、拝観料を払って柵越しに見せてもらいました。
今でも神社側に予約しておけば拝観できるそうです。

新羅の鐘は長い歳月を経て全体に緑青を帯びていました。
しかし、遠くからでも鐘に彫られた美しい蓮華文やあどけない笑みをたたえた
飛天を見ることができました。


写真は、竹中皆二の歌碑(福井県小浜市阿納尻)。
昭和59年、久須夜岳を望む村有地に歌友によって建てられました。
この10年前、我が家の前にあった樹齢五百年の老松が伐られ、その根っ子の一部が
歌碑の下に葬られています。
歌碑には父の字をもとに、牧水と接した頃の初期の代表作が刻まれています。

  老松に渡らふ風のひびきあり うば玉の夜に われはきくかも 皆二

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冬日和    麗

2016年12月08日 | Weblog
師走に入ってなんだか気分があわただしくなってきましたね。
お天気がいいので、早めの小掃除。あれやこれや洗濯したり布団を変えたりしているうちに更新が遅くなってしまいました。

以前、83歳の母の俳句をご紹介させていただきましたが、時折、思いついたまま短歌も作っているようです。

     父母の眠るふるさとこの足で歩いてみたいよろめきながら  如月

母の故郷は大分県の国東半島。2年前に圧迫骨折してから次第に認知症も進み足腰も衰えました。体が弱ってくると望郷の念が強くなるようで、最近は同じような故郷をしのぶ歌が多くなっています。
こんな小春日和の一日。よろめきながらでもいいから、私ももう一度、母と外を歩いてみたいと思う今日このごろです。
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扁額を見上げ潜れば(クグレバ)鳥渡る   結宇

2016年12月07日 | Weblog
扁額(へんがく)は、建物の内外や門・鳥居などの
高いところに掲げられている額(がく)。
書かれているのは、その建物や寺社の名が多いそうです。

神社・寺院・城門・茶室などの伝統的な建物のみでなく、
学校、体育館、トンネルなどにも掲げられています。

この句はどことは言っていません。
読者が自分の記憶のなかから自由に読んで良いのです。
私は京都の大きな山門を思い出しました。
見上げて潜ると・・・
さらに高い空には渡り鳥の姿。
移動撮影のように映像があざやかです。

          

寒い朝。早朝からヘリの爆音・・・
東山動物園の黒鳥が鳥インフルエンザで死亡、
というニュースのため飛行のようです。
奄美の温かさが懐かしく思い出されます。
今年の1月には名瀬で115年ぶりの雪が観測されたとか。
この寒波で奄美も寒いかも・・・
                 遅足



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はや暮れて三日月の冴え鳥渡る   静荷

2016年12月06日 | Weblog
日の短い季節。日暮れも思ったより早く感じられます。
西の空には三日月が冴え冴えと光っています。
そんな空高く鳥が渡っていきます。一幅の日本画のような句です。

鳥目というくらいだから、夜は飛ばないのでは?という疑問が。
インターネットで調べてみました。

10月から11月になると、渡ってくるツグミの声が
夜も聞こえます、という東京近郊の方。
シギ・チドリ類は、海岸の干潟で餌を取りますので、
昼か夜かで行動を決めているのではなく、潮汐に合わせて
行動を決めていますから、夜間、目が見えます、という方も。

また飛ぶとき、脳を半分づつ働かせているという研究も。
イルカやクジラも同じように、脳の半分ずつを働かせているそうですが、
まだまだハッキリとは分かっていないそうです。
自然界には謎が一杯です。

          

昨夜、奄美大島から帰ってきました。
奄美には、アマミの世、リュウキュウの世、サツマの世・・・
と、三つの歴史があるそうです。
アマミの世、以降はみな征服された時代。
ノロは琉球王国から派遣された公務員のような存在。
奄美に昔からいるシャーマンはユタと呼ばれ、
今も個人的な人生相談にのっているそうです。

明治維新以降、戦前、戦後・・・そして平成。
いま奄美の人は、どんな世と感じているのでしょうか?  遅足


   

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推敲のチエックポイント・5 ~切れ字が使われているか~(等) 

2016年12月04日 | Weblog
この稿を書くのに当たって、ただスラスラと書くことは出来ませんので、これまでに読んだ俳句の本を読み返しながら、”再度勉強”の積りで書いています。中でも勉強になったのが今日の「切れ字」です。
いろいろな先生のご意見をご紹介します。

先ず、早稲田大学名誉教授の堀切実さんは、この「切れ字」の効用について、①「や」「か」などの切れ字を使うことで、散文的な表現を詩的表現にしている②「切れ」は想像力を生みその後の余韻残像を導く③「切れ」により前後二つのイメージによる重層性を発揮するとし、有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句では、「や」は古池のイメージを浮かび上がらせ、次の「蛙飛び込む」のイメージと重ねると述べています。
そして面白いのはこの後で、”「切れ字」は自然の花の命を一旦は切り、これを再び生かす「生け花」と同じである”と言っていることです。

次は櫂未知子さん、何においても威勢の良い方ですが、「切れ字」についても歯切れよく説いていらっしゃいます。先ず効用ですが、①詠嘆を表す②余計なことは言わず、省略出来る③句の調子が整い格調が生まれる、としています。
そして句を作る場合、何が何でも先ずは「切ってみる」ことを心掛け、平板な一行の文に終わらせず、「韻文」として「詩」として俳句を成立させて下さいと、説いています。

最後は井上弘美さん、いろいろな「切れ字」の使い方を説明しています。
「雁(かりがね)やのこるものみな美しき」(石田波郷)
この句は「雁」と「のこるものみな美しき」の二つの内容が詠まれ、「や」の切れ字によって二つの世界が融和し、全く新しい世界を作り出しています。上五にハッキリした切れのある方がスッキリし、景が広がります。
「かな」は基本的に名詞に接続し、その名詞を強調しつつ、一句全体を感動をもってまとめあげます。従って「かな」を使う場合は一句全体が上から下へ流れるように作ります。
「けり」は動詞や助動詞に接続し、句をスッキリとまとめます。
切れ字を使わなくても、名詞や動詞助動詞の終止形を使うことで「切れ」が生まれ、特に中七に「切れ」を作ると言葉が省略出来、句が引き締まります。

以上、「切れ字」のあれこれについて、諸先生のご意見を紹介しましたが、私はそれ以来必ず「切れ字」を使うようにしています。だって言葉が省略出来るし、しかも前後の”重層性”を作ってくれるのですから、こんな良いことはないと思いますよ。

 「古民家に馬の草鞋や山は雪」 (等)


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心に残る映像   竹中敬一

2016年12月02日 | Weblog
CBCテレビの「 伊勢神宮・五十鈴川を行く」(11月3日放送) を見ました。
高画質の4Kカメラやドローンで撮影した映像は見事でした。
これを見て改めて、映像のもつ力について考えてみました。

私がテレビ局にいた頃、青森放送に北国の風土に根ざした優れた
ドキュメンタリー番組を手がけるディレクターがいました。
木村昱介 (きむらいくすけ)氏です。
彼の作品に、津軽三味線の高橋竹山を取り上げた「寒撥(かんばち)」
(昭和46年度芸術祭優秀賞) があります。
番組の構成者、鳥山拡氏によると、竹山の弾き語りをビデオカメラで収録中、
音声に異常はないものの映像が乱れ始めました。
予算のこともあって撮影を続け、映像をそのまま放送に使かったそうです。

この不思議な映像は津軽三味線の音色と共に、北国の厳しい心象風景を
映し出したようにも見え、計らずも、見る人に感銘を与えたのです。

私が制作した「木曽の四季」は、カラーフィルムによる撮影でした。
白黒時代でカラーはまだ珍しかったのです。
現像代が高額のため、どういう色に仕上がるのかもわからず、
白黒で編集したものを、最終的にカラーに現像して放送していました。
木曽の山々を空撮したいのですが、ヘリコプターを飛ばすには、費用がかかります。
二ユースでヘリを飛ばす時、ついでに撮ってもらったことを憶えています。

地方の民放局では、厳しい予算のもと様々な制約を受けながらの制作。
今もそう変わりないでしようが、少なくとも、現像代のことも気にしながら、
フィルムで撮るのを最小限に抑えたりする心配はなくなりました。
ドローンや水中カメラも比較的簡単に使用できるようになり隔世の感があります。

「木曽の四季」が芸術祭優秀賞を受賞した時、ある審査員から
「哀愁が漂う映像が心に残った」と云つていただきました。
私はこの言葉が気に入っています。「哀愁が漂う映像」は多分、フィルムで
なければ表現できなかったと思います。

映像技術は8Kやバーチャルリアティー (VR) など進化を続けています。
制作者は、技術の進歩に負けない、心を打つ作品をつくるために
一層の努力を期待したいと思います。

             

写真は、放送番組センターの月刊誌(1976年1月号)に提出したものです。
昭和49年秋に撮影。御岳山が全貌を現すのは珍しく苦労しました。



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満蒙開拓平和記念館    麗

2016年12月01日 | Weblog
先日、長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館に行って来ました。
天皇皇后両陛下が私的な訪問として来られたことで、初めてその存在を知りました。
中央道飯田山本インターを出て5分くらいのところにあります。

戦前に13年間だけ存在した満州国。ここに日本から27万人の方が海を渡ったそうです。
しかし、終戦となり多くの方が命を落とし、残留孤児や残留婦人を生みました。

引き上げの方が苦労されて着の身着のままで帰国されたことは、先日亡くなった藤原ていさんの「流れる星は生きている」などを読んで、少しは知ってはいましたが、長野県からの移民が一番多かったこと。阿智村の住職だった山本慈昭という方が、ご自身もシベリア抑留を経験され、戦後残留孤児の肉親探しに奔走したことなどは全く知りませんでした。

館内ではボランティアの方が、とても丁寧に当時の暮らしや歴史について説明して下さりました。
阿智郷開拓団は、終戦間際の20年5月に満州の最も北東に移り住んだそうです。190人の団員のうち帰国出来たのはわずか47人。
希望を抱いて全てを売り払って、家族で満州に渡った方々の末路を知るとなんとも言えない、悲しいむなしい気持ちになりました。二度とこのような悲劇を起こしていけません。

2013年に出来たばかりでまだまだ知名度の低い記念館ですが、今回の両陛下のご訪問で、多くの方が満蒙開拓の歴史を知ることになるでしょう。奉天で生まれたという70代の男性も訪れていました。

記念館のメッセージ「前事を忘れず、後事の教訓とする」という言葉が強く心に残りました。
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