49:阪之下(筆捨山頂)
関から6里で阪之下。広重は「筆捨嶺」と題して、筆捨山を眺める街道の茶屋を描いている。この筆捨山は岩根山という山であるが、狩野元信が、あまりの風光の美しさに、力及ばず筆を投じたという話から筆捨山と呼ばれるようになったという。全山岩山で、岩間に古松が生えた美しい山で、これを広重は、かなり写生的に描いている。この美しい景色を眺める目が、右手の見晴らし茶屋の描写といえよう。この茶屋には休むさまざまな人物が牛を曳く農夫の姿の描写が実に巧みに描かれていて、この右隅だけで立派な絵といえる。それだけに、筆捨山との間に違和感があるような気もする。
阪之下には、昔街道一といわれた本陣の大竹屋、松屋などがあったという。ここから鈴鹿峠へかかる。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関から6里で阪之下。広重は「筆捨嶺」と題して、筆捨山を眺める街道の茶屋を描いている。この筆捨山は岩根山という山であるが、狩野元信が、あまりの風光の美しさに、力及ばず筆を投じたという話から筆捨山と呼ばれるようになったという。全山岩山で、岩間に古松が生えた美しい山で、これを広重は、かなり写生的に描いている。この美しい景色を眺める目が、右手の見晴らし茶屋の描写といえよう。この茶屋には休むさまざまな人物が牛を曳く農夫の姿の描写が実に巧みに描かれていて、この右隅だけで立派な絵といえる。それだけに、筆捨山との間に違和感があるような気もする。
阪之下には、昔街道一といわれた本陣の大竹屋、松屋などがあったという。ここから鈴鹿峠へかかる。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
良い風景です。まさに構図と描写の仕方の
勝利です。とてもいい絵です。
さて、今日も仕事で、土日共に無し(苦笑)。
長岡にも戻りませんでした。さっき妻から
電話がありまして車の調子が思わしくないと
のこと。やはりいない時に限って何かが起
きる。困ったものです。
休み無しですか、それはきついでしょう。
まだお若いから大丈夫ですか?
車の調子が・・・どうしたのでしょうね。
多分高級車だと思いますが。
当地は秋晴れでなく、薄曇りの一日でした。
私も10月17日に迫った資格試験に備えてお勉強の一日でした。