14・原(朝の富士)
沼津をすぎて六粁で原へ達するが、絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれている。この絵では富士山の偉容が中心である。沼津を出ると愛鷹山が右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その美しい絶景は東海道をいく人々をなぐさめ、霊峰は人の心をひきしめる。他の街道では見られない風景である。「朝の富士」が画題で、朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。朝寒むの街道のあたりの沼地には白鷺がおりているのも冷たさを感じさせる広重の手腕は賞讃に価する。人物の着衣と下草だけに見せた藍と草色だけの色彩も、この絵の感じを出す力として大きい。
このあたりは古来歌枕として有名で、数々の名歌が残っているし、江戸時代の名僧白隠禅師の松蔭寺もある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沼津をすぎて六粁で原へ達するが、絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれている。この絵では富士山の偉容が中心である。沼津を出ると愛鷹山が右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その美しい絶景は東海道をいく人々をなぐさめ、霊峰は人の心をひきしめる。他の街道では見られない風景である。「朝の富士」が画題で、朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。朝寒むの街道のあたりの沼地には白鷺がおりているのも冷たさを感じさせる広重の手腕は賞讃に価する。人物の着衣と下草だけに見せた藍と草色だけの色彩も、この絵の感じを出す力として大きい。
このあたりは古来歌枕として有名で、数々の名歌が残っているし、江戸時代の名僧白隠禅師の松蔭寺もある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』