原爆で斃(たお)れた旧制女学校の級友たちに代わって核兵器の残酷さとその廃絶を訴え続けた被爆者でフリージャーナリストの関千枝子さんが、2月21日、出血性胃潰瘍で亡くなった。88歳だった。原爆炸裂から76年。また1人、かけがえのない「原爆の語り部」を失った。
友人からの知らせで関さんの逝去を知ったのは2月26日だった。私が関わっている市民団体の会員交流のためのメーリングリストに載った関さんの投稿を昨年暮れに読んだばかりだったから、私にとっては、その訃報は、文字通り急死に思えた。
関さんは大阪生まれ。広島市の広島県立広島第二高等女学校(広島第二県女)二年西組に在学中の1945年8月6日、自宅にいて原爆を浴びた。早稲田大学文学部露文科卒業。毎日新聞社に入り、社会部、学芸部の記者を務める。次いで、全国婦人新聞の記者、編集長を務めた後、フリーのジャーナリストになった。
当初は無名だった関さんの名が知られるようになったのは、彼女が1985年に『広島第二県女二年西組――原爆で死んだ級友たち』を筑摩書房から刊行してからだ。同書は、第33回日本エッセイストクラブ賞や日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞し、一躍脚光を浴びる。
この本は、関さんが学んでいた広島第二県女二年西組が原爆で「全滅」するまでの記録である。
あの日(1945年8月6日)、広島第二県女二年西組は広島市雑魚場町(現国泰町)の市役所裏で行われていた建物疎開作業に動員された。同組の生徒は45人だったが、うち39人が教師3人とともに作業に参加し、残り6人は病気などで欠席した。生徒たちの平均年齢は14歳。
作業現場は爆心地から1・1キロ。原爆炸裂によって、39人の生徒のうち38人がその日のうち、あるいは2週間以内に死亡、残る1人も24年後にガンで早世した。引率の教師3人も死亡した。
関さんもこのクラスの一員だったが、前夜から下痢が続いていたため作業を欠席、自宅で寝ていて被爆した。
それから32年後の1977年、関さんは、亡くなった級友たちの33回忌法要の集いを開く。遺族が語る話に耳を傾けていた関さんはこう決意する。
「この集いで、出席された遺族の人びと全部に被爆の模様を語って頂いた。どの話も胸を締めつけられるように悲しく、痛ましく、一人の生命が、その家族にとってどんなにかけがいのないものであるかを痛感した。私は、遺族の話を反芻しながら、二年西組の被爆記録を残さなければならないと決意した」(『広島第二県女二年西組――原爆で死んだ級友たち』の「あとがき」から)
さらに、関さんは2010年11月9日付朝日新聞のインタビューで、こう語っている。
「(あの日)私は下痢のため自宅で寝ていて、けが一つ負いませんでした。夢に現れるのはあの朝、私を呼びにきた級友の声です。『運がいい子』と呼ばれるのが重荷でした。級友の遺族を訪ね、一人一人の最後の様子を記録に残そうと思ったのは、被爆三十年後、『申し訳ない』」という気持ちを前向きに変えるためです」
「1人だけ生き残ってしまった 」。そうした負い目が、関さんをして斃れた級友たちの被爆記録の作成に向かわせたということだろう。
本書の完成まで8年間かかった。そのことについて、関さんは「はじめたころ、まだ子どもも小さく、費用の関係もあり、ほかの仕事の合間を縫い、毎年八月六日に広島に行き、その前後、数軒ずつ遺族にお会いしていた。そんなことをするうち、いつの間にか八年の月日がたってしまった」と述べている(『広島第二県女二年西組――原爆で死んだ級友たち』の「あとがき」から)
でも、関さんはこの本を出版した後も、毎年、“広島詣で”を欠かさなかった。私は1967年以来、毎年、8月6日を広島で迎えることにしているが、いつも広島で関さんの姿を見かけた。それは、広島市主催の平和記念式典の会場であったり、反核平和集会の会場であったり、街頭であったりした。そして、この日夕暮れの元安川の岸辺には、必ずと言ってよいほど関さんの姿があった。毎年、この川で、原爆死没者慰霊のための灯籠流しが行われるからだった。
近年、関さんは歩く時、足を引きずり、杖をついていた。膝を痛めていたからと思われる。それでも“広島詣で”はやめなかった。
加えて、一昨年春には大腿骨を骨折して3カ月の入院を余儀なくされた。それでも、昨年の8・6には広島へ出かけた。新型コロナウイルスの感染が拡大したため、平和記念式典の規模が縮小され、原水禁関係団体の大会や集会も大半が中止になったにもかかわらず、である。
彼女は、どんなことがあっても、8・6には、原爆で亡くなった級友たちに代わって広島で「核兵器廃絶」を叫びたかったのではないか。なぜなら、先に引用した2010年11月9日付朝日新聞のインタビューの中で、彼女はこう述べていたからだ。
「級友の死を本当の犬死にしない唯一の方法は、核兵器を廃絶し、恒久平和を打ち立てることだと思います。級友の声が私の耳から離れるとすれば、それは『核廃絶の日』でしょう」
「平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式であいさつする関千枝子さん。右は受賞者
のフォトジャーナリスト・山本宗補さん=2013年12月14日、日本青年館で、中村易世さん撮影」
核兵器に対してだけではない。関さんは、戦争や平和憲法改定につながるものは絶対に許せなかったようだ。
例えば、安倍晋三首相が靖国神社に参拝したのは憲法が規定する政教分離の原則に反するとして、2014年に全国の戦没者遺族や宗教者らが首相と国、靖国神社を相手取って訴訟を起こした時、関さんは、その原告に名を連ねた。それも、筆頭原告として。
平和問題や原爆問題に関心をもつジャーナリストを育てることにも熱心だった。そのためだろう。「平和」と「協同」のためにペンをとるジャーナリストを増やすための活動を続けている「平和・協同ジャーナリスト基金」が、毎年暮れに東京で催す平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式には必ず姿をみせ、受賞者に向かって「これを機にますます頑張ってほしい」と呼びかけた。
関さんのご冥福を祈る。
3月4日(木)午後6時から、東京都品川区西反田の桐ヶ谷斎場で通夜が行われる。 引用元。