阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

小平奈緒さんの同郷人からメールを頂いた   ☆諏訪便り☆

2022年10月29日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年03月03日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

極眠老人さんから、小平奈緒さんに関する下記のエントリーに対してメールをもらいました。

→非日乗の記事を読ませてもらい、現住所諏訪、ルーツも諏訪の極眠老人は快哉を叫んだことでした。

われわれの世代は下駄スケートでしたが、奈緒ちゃん世代はみな靴スケート、校庭を凍らせた氷の上ではなくて、茅野市営の国際規格の立派なスケート場で育った世代です。

このところの温暖化で諏訪湖上でのスケートも夢のまた夢に。

 なお私が生まれ育った玉川村と奈緒ちゃんの在所の豊平村は古代より同じ御柱を曳く氏子仲間です。

諏訪神社上社の御柱は本宮4本、前宮4本の計8本をどこの氏子が曳くかを毎回くじ引きで決めるのです。

太い順に本宮1、前宮1、本宮2…の順番で、どこの氏子も太い御柱を曳きたがるのですが、今回の玉川・豊平組みは8本のうちで一番細い前宮4の御柱に当たってしまい、

意気消沈していたところです。そこへ(豊平出身の)奈緒ちゃん銀メダルのビッグニュースが入り元気回復していることでしょう。

☆そうですか、昭和一ケタ生まれと伺う極眠老人の世代は、戦後の昭和20年代まで、校庭で下駄スケートを楽しんでいたのですね。

 茅野市に国際規格に合った市営のスケート場があることは初めて知りました。立派な成果を上げた訳ですね。市民税はそういうふうに使って欲しいもんです。

諏訪大社の御柱祭りの、玉川と豊平は古代からの柱曳き合同チームだったと聞き、2004年の前回の御柱祭りの時に撮影した写真を見直しました。

確かに前回の祭りで一番太い本宮一の御柱を「玉川・豊平」チームが曳いていました。この観衆の中にきっと小平奈緒さんもいたに違いありません。

画像をクリックで拡大すると、曳かれる大きな柱に楔のように打ち込まれた2本の「めどでこ」に渡された旗に、「玉川と豊平」の文字があるのがわかります。

「めどでこ」の写真 

極眠老人さん:伊藤力司さん

(御柱祭の公式HP

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隣村の小平奈緒さん!   2010年03月01日(月)掲載

『小平奈緒さんお見事! そして下駄スケートの話』

こんどのバンクーバー冬季オリンピック報道は、メディアが囃す笛と太鼓の音がやかましすぎるのか、だんだん日本選手の実力や実態がわかってくると、

世界レベルとの落差が大きすぎて、日本の新聞やテレビも、彼らが日ごろ目を向けているのは、この列島の内部だけのことで、日本のメディアが、

全くの世間知らず(世界知らず)なんだということがミエミエだ。

 そんな中で女子スピードスケートに小平奈緒さんという人がいて1000mと1500mで5位に入った。そして終了間際の日程の「スピードスケート女子団体追い抜き」で銀メダルを取った。

事前にメディアが、「スピードスケート女子団体追い抜き」で日本チームがもしかしたら金メダルを取る可能性があると、あまり報道していなかったので嬉しかったのと同時にびっくりした。

 「小平(こだいら)」という苗字は長野県に多く、諏訪や茅野ではポピュラーな苗字なので、もしかしたら長野県出身の人なのかなと思っていた。

ある日のテレビで、茅野市の豊平小学校の児童たちが先輩の小平選手の応援をしているニュース画面があった。

ウン?豊平小学校?聞いたことがあるなあと思って、グーグルのMAPで検索すると、やはり阿智胡地亭の母親が通った玉川小学校の隣の小学校が豊平小学校だった。

小平奈緒さんは、母や母方のイトコたちが卒業した玉川小学校の隣の小学校を卒業している。

母が生まれた当時の諏訪郡玉川村は今は茅野市玉川だが、豊平地区も当時は諏訪郡豊平村で、現在は茅野市豊平になっていて、往時の玉川村の隣村にあたる。

 そのことに気がついたとき、母が話していた下駄スケートの話を思い出した。

冬になると、校庭全面に夜先生方が水を張って、朝になるとそれが全面結氷し、昼間は休み時間にみんなでスケートをしたと、そう楽しそうに話していた。

「ただね、昭和初年のあの時代に村で誰もスケート靴を買えるような家はないから、みんな下駄の下に村の鍛冶屋さんが造ったスケートの刃を、紐でしばりつけて滑ったんだよ」、

「冬は誰でも子供は当たり前のようにスケートをしていたよ」と言っていた。

聞いたときその光景を想像して面白かった。足袋と下駄を履いて着物姿で、校庭に出来たスケートリンクの上をみんなが滑っていたんだそうだ。

今は知らないが、イトコ達も同じように毎冬楽しんだと聞いたような気もする。もしかすると今でも冬は校庭がリンクに変わり、

小学生の小平奈緒ちゃんも(彼女の時代は)スケート靴で滑っていたのかもしれない。

そんな土地から小平奈緒さんは出て、オリンピックの代表選手になり2種目で入賞し最後の種目で銀メダルを獲得した。4年後にはメダルには金メダルを取って欲しい。

マップの上の丸印が小平奈緒選手が卒業した「豊平小学校」所在地。下の丸印は玉川小学校。(地図はクリックで拡大)

余談ながら諏訪市内の高島小学校に通っていた父は、冬の体育の時間は、結氷した諏訪湖でスケートばっかりさせられたと聞いたような気がする。
 
そういえば尼崎市の塚口に住んでいた昭和28年ごろ、西宮にあったスケート場に連れて行ってもらい、父が見事に滑るのを初めて見てびっくりした記憶がある。
 
当時から諏訪の子供は普通に冬はスケートを楽しんでいたらしい。
 
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引退インタビュー   2022/10/28 07:22 読売オンラインから引用。
 
小平奈緒さん「八ヶ岳に登りたい」「語学の勉強も」…スケート以外にも広げたい「文脈」

「『知るを たの しむ』『唯一無二の自己表現』という、これまでと変わらないテーマを探究していきたい」。スピードスケートの小平奈緒さん(36)(長野県茅野市出身)は27日、東京都内で開いた引退記者会見で氷上を離れて活動する抱負をこう表現した。今後は競技人生を支えた相沢病院(同県松本市)に所属したまま、新たな“学び”の道へ歩み出す。

引退会見の記念撮影で、スタートのポーズをとる小平奈緒さん(27日、東京都千代田区で)=青木瞭撮影
引退会見の記念撮影で、スタートのポーズをとる小平奈緒さん(27日、東京都千代田区で)=青木瞭撮影

 小平さんは22日の全日本距離別選手権・女子500メートルで優勝。最後の滑りに、「氷上に私が表現できる全てを描けた」とし、競技人生を「山あり谷ありのジェットコースターのような日々だった」と振り返った。

 このほか、イベントや講演会への出演予定も決まっており、「スケートは小さな勇気さえ持てば前に進むことができる。挑戦してみようという気持ちを持っていきたい」と語った。

 会見に同席した相沢病院の相沢孝夫理事長(75)は「僕も職員も皆の気持ちをどきどきさせ、感動させてもらったことに感謝したい」と花束を手渡した。小平さんは「新しい世界へ飛び出していくが、小平奈緒と一緒に歩みを進めてくれる皆さんがいたら幸せです」と締めくくった。

五輪「純粋に世界を明るくする舞台であってほしい」

記者会見での主なやりとりは次の通り。

 ――スケートを滑る時間はどんな時間だったか。

 「無限の学びが含まれているのが(500メートルを滑る)三十数秒間。これからも趣味としてリンクに通いたい。技術を書き留めたノートを一つにまとめて、未来のスケーターに役立つものを作れたらとも思う」

 ――引退した今だから取り組みたいことは。

 「地元の八ヶ岳に登山したい。現役中にはあまり時間が作れなかった語学の勉強もやってみたい。食も楽しみたい」

 ――五輪の舞台をどう子どもたちに伝えたいか。

 「4大会を経験し、確かにそこで成長したという思いがある。純粋に世界を明るくする舞台であってほしいし、世界の人と人とをつなぐものであってほしい。支える人たちも 真摯しんし にスポーツに向き合ってくれることをただ願っている」   

 
 
 

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