阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

オープンして2週間の東京ステーションホテル  その1          10年前の今日 2012年10月24日の本ブログに掲載

2022年10月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

 歩行にやや不安が残る相方が神戸から一年ぶりに東京に行くことになりました。

遠回りでもエレベーターがあればエレベーターに乗り、なければエスカレーターや階段を用心しながらゆっくり上り下りします。

人にぶつかられるのが怖いので、荷物持ち兼護衛役で彼女のフルアテンドお供をしました。 

東京駅についたら小一時間で最終目的地に行けるのですが、折も折、東京ステーションホテルが、大改装なった東京駅に新しくオープンしたので一泊することになりました。

ネットで調べると『ショートステイプラン』というエコノミー価格の部屋があり、“じゃらん”のポイントも3500円分が使えて、予約することが出来ました。

旅慣れた人から、ホテルを選ぶなら高級ホテルの最低価格の部屋に泊まるのがいいと聞きました。

共通施設やロビーなどの空間は宿泊客であればだれでも利用できるし、病気やトラブル時の対応がよく、セキュリテイの信頼性も高いからだそうです。

当然ながらアメニティグッズは共通の良品が置かれています。このホテルに勤めていることに誇りを持ったボーイに案内されて部屋に入り、丁寧に部屋の説明を受けました。

自分の仕事に誇りを持っている若い人と出会うのは嬉しいものです。彼が特徴として挙げた一つに天井の高さがありました。

なるほど天井が高いので、欧州のホテルのような雰囲気がありました。

部屋に落ち着いてから以前はレストランだった「カメリア」というバー&カフェーに行きました。目の前に東京中央郵便局が見えました。

ホテルの伝統のバー「オーク」は当然スモーキングOKなので今回は避けました。

私は名物カクテル『東京駅』とウオッカベースのカクテル『Sea Breeze』を楽しみ、相方はたっぷりの『ビーフシチュー』とおいしいパンを堪能しました。

添付アルバムを左下のを押してスタートさせ、拡大アイコンをクリックして大画面で全22枚をご覧ください。☟ 

バーを出て対面の丸ビルからも東京駅の夜景を楽しみ、エスコート役で腹が減ったので新丸ビルの「成城石井」で「春雨サラダ」とカップ酒を買って部屋に戻って飲みました。

ホテル宿泊となると、週に一度は宿泊出張していた現役時代の習性が無意識に出て、部屋で寝る前の一杯の愉しみが欲しくなります。

もっとも当時は、各地のビジネスホテルの部屋での一杯でしたが・・。酒は信州諏訪の「真澄」が目に入ったので即購入。やはりこの酒はうめえずら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太平洋戦争当時の日本政府が“広告”を通じて国民に伝えていた“意外なメッセージ”とは

2022年10月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事

   

 

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月23日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年10月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新居浜の『太鼓祭り』中萩の夜の「太鼓台」のかき比べ 。 12年前の今日 2010年10月23日の本ブログに掲載

2022年10月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

新居浜在住の泉谷さんから太鼓祭りの画像が届きました。

「10月16日の夜、中萩地区だけ提灯をつけて夜のかき比べがありました。昼間と違いチヨット雰囲気が良かったので送付します。」

なお、泉谷さんは本来新居浜の人ではないので、太鼓祭りフリークではないそうです。

そういえば彼は伊予やのうて讃岐の人やったです。とは言え、彼はもう人生の三分の二以上を伊予の国、新居浜で過ごしていますが・・


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

参考

2022年新居浜太鼓祭り! 怖っ!倒れんのん?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「船場吉兆」、「料理の使いまわし」内部告発、 従業員が幸せでなければ・・

2022年10月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2008年05月08日(木)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

工場内の輸送設備などの営業という仕事柄、お客さんとの会食で各地の料亭や、あるいは見込み顧客の工場がある出張先の駅前食堂まで、

各種各様、これまでどれくらいの数の飲食関係の施設に入ったかわからない。

 そういう店で何が嬉しいかと言うと、出された物がおいしいことが一番だが、それよりも店の雰囲気が明るいことの方が嬉しかったものだ。

つまり店の従業員が作り笑いではない、いい笑顔でキビキビ楽しそうに働いている店だったら、今度もここに来ようと思うものだ。

  使いまわしが新たに報道された「船場吉兆」click。報道でこの事件を知ったとき思ったのは、この店の従業員は働いていても誰も楽しくなかっただろうなあ、

店の雰囲気もよくなかったのではという事だった。

(値段があまりに高過ぎて入ったことがないので、店の雰囲気を知らずに言うのは申し訳ないが)

再開しても「経営者が従業員を人として扱わない、職場の同じ空気」に反発した現場の人間が、意図的に「料理の使いまわし」を外部にリークしたのではないかと思った。

正社員であろうがバイトであろうが派遣社員であろうが、人に働いてもらって成り立っているお店や企業や組織が、

上の人間がつい たかを括って、「雇っている人間をないがしろに扱いだす」と「たった一人でも反乱を起こして」大店をつぶすことが出来る。

今はそんな時代だなあと思うけど、お客側も「テレビや雑誌の評判や噂や宣伝」に頼らず、わが目と我が舌と我が体感の感度を上げないといけない

シンドイ・オモロイ時代になっているんだなあと思う。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月22日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年10月23日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧安田庭園から見るスカイツリー  鴨や亀たち       旧安田庭園シリーズその4 /完

2022年10月22日 | 東京あちこち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「カティンの森」

2022年10月22日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年02月11日「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

監督は1926年(昭和元年)生まれのアンジェイ・ワイダ。「地下水道」や「灰とダイヤモンド」などの作品で知られるポーランド人。本作品は2007年に製作・リリースされた。

彼は元々画家を目指したこともあり、日本の浮世絵などの愛好家で、日本美術を東欧へ紹介したことを多とし、稲盛財団の“京都賞”を1987年に受賞している。

その賞金の4500万円を基金として、クラクフに日本美術技術センターが設立されている。

 本題の映画に戻る

裁判も尋問もなく、ポーランド軍の将校団がソ連のカチンの近くで銃殺され穴の中に埋められた。

このことは、長い間旧ソビエト連邦の意向で、ナチス・ドイツの犯罪であるとされてきた。

ワイダ監督の父親も帰らなかった将校の一人で、50歳で亡くなった監督の母親は真相を知らないまま、死ぬまで夫の帰還を待ち続けていた。

映画は将校たちの両親、妻、子供の戦中戦後を軸に当時のポーランドの生活が描かれる。

映画は淡々と進む。どこにも激するところはない。ラスト15分を含めて。

 ラスト15分。収容所から処刑の森までの行程と、一人一人の死が克明に描かれていく。



 将校を呼びだし後ろ手にしばる、二人の兵が両脇をかかえる。別の兵が後頭部にピストルの銃口を向け引き金を引く。

血煙が上がる、脳漿がまわりに飛び散る。穴に放り込む。はいその次、はいその次、はいその次と続く。

一つの穴が一杯になると、兵隊が一人穴に降りて、いまだ絶命していないのを見つけると銃剣で止めをさす。

ブルドーザーがきて穴に土をかぶせていく。

 20数年映画化を温めていたワイダ監督の思いがこの15分に詰まっている。彼はおそらく理性の人だと思う。

しかしこの映画に彼は彼と彼の家族のどうしようもない「怨念・痛恨・悲哀」を込めたのだと私は思った。しかしそんな言葉はこのシーンの前では殆ど意味はない。

あくまでこれは私自身の器の限界の理解のようだ。

 ワイダ監督自らはこう書く。

「試行錯誤を重ね、熟考を続けた結果、わたしはある確信に至った。カティン事件についてこれから作られるべき映画の目的が、

この事件の真実----その追究は、歴史的・政治的な次元で、すでになされている----を明るみに出すことだけであってはならない、と。

今日の観客にとって、史実は、出来事すなわち人間の運命の背景であるにすぎない。観客の心を動かすのは、あくまでもスクリーンに映される登場人物の運命である。

私たちの物語を展開するための場所が、あの時代のすでに記述されている歴史のなかにある。


したがって、私の考えるカティン事件についての映画は、永遠に引き離された家族の物語である。

それは、カティン犯罪の巨大な虚偽と残酷な真実の物語になるだろう。ひとことで言うならば、これは個人的な苦難についての映画であり、

その呼び覚ます映像は、歴史的事実よりはるかに大きな感動を引き起こす。

この映画が映し出すのは、痛いほど残酷な真実である。主人公は、殺された将校たちではない。男たちの帰還を待つ女たちである。

彼女たちは、来る日も来る日も、昼夜を問わず、耐えられようもない不安を経験しながら、待つ。

信じて揺るぎない女性たち、ドアを開けさえすれば、そこには久しく待ち受けた男性(息子、夫、父)が立っているという、確信を抱いた女性たちである。

カティンの悲劇とは今生きている者に関わるものであり、かつ、当時を生きていた者に関わるものなのだ。

長い年月が、カティンの悲劇からも、1943年のドイツによる発掘作業からも、我々を隔てている。90年代におけるポーランド側の調査探求にも拘わらず、

さらには、部分的に止まるとは言え、ソ連関係文書の公開が行われた後でさえも、カティン犯罪の実相について、我々の知るところは、いまだにあまりにも少ない。

1940年4月から5月にかけての犯行実施は、スターリンと全ソビエト連邦共産党政治局に属するスターリンの同志らが、1940年3月5日、モスクワで採択した決定に基づいている。

ひょっとしたら父は生きている、カティンの被害者名簿一覧には、ワイダと姓があったが、名はカロルと出ていたのだから----。

このように永年にわたり、母やわたしたちが信じていたのは、少しも不思議ではない。

母はほとんど生涯の終わりに至るまで、夫の、すなわち、わが父の生還を信じ続けた----ヤクプ・ワイダ、騎兵第二聯隊所属、第一次世界大戦(1914−18)、

ポーランド・ソ連戦争(19−20)、シロンスク蜂起(21)、並びに1939年9月戦役に従軍の勳功により、戦功銀十字架勲章騎士賞を受けた。

とは言え、この映画がわが個人的な真実追究となること、ヤクブ・ワイダ大尉の墓前に献げる灯火となることを、わたしは望まない。

映画は、カティン事件の数多い被害者家族の苦難と悲劇について物語ればよい。ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンの墓上に勝ち誇る嘘、

カティンはナチス・ドイツの犯罪であるとの嘘、半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソビエト連邦の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきたその嘘について語ればよい。

若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを、わたしは知っている。現今の諸問題にかかずらうあまり、

彼らは、過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの----

政治的なきっかけで、事あるごとに表面化する、民族としての不安や恐れを伴いながらであるが----を忘れる。

さほど遠からぬ以前、あるテレビ番組で、高校の男子生徒が、9月17日と聞いて何を思うかと問われ、教会関係の何かの祭日だろうと答えていた。

もしかしたら、わたしたちの映画『カティンの森』が世に出ることで、今後カティンについて質問された若者が、正確に回答できるようになるかもしれないではないか。

「確かカティンとは、スモレンスクの程近くにある場所の名前です」というだけでなく......。

アンジェイ・ワイダ


"集英社文庫「カティンの森」(工藤幸雄・久山宏一訳)より引用。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

余談 その1

ポーランドという国を自分が最初に意識したのは、ノーマン・メイラーの小説「裸者と死者」を読んだとき、日本軍と戦う米軍のポーランド系アメリカ兵士が兵隊の間で、

個人の名前を呼ばれずに「ポラック」(ポーやろう?)という蔑称で呼ばれていたことからだ。

後から他国に移った連中は、それ以前に渡った連中から肉体労働の仕事を安い賃金で奪うことになるので、お互い社会下層どうしで必ずいがみあう。

アメリカに渡った日本人はアイルランド系やイタリー系アメリカ人に「ジャップ」と言われ、日本で朝鮮人は「TYOUSEN」や「hantoujin」と呼ばれて小馬鹿にされ、差別されてきた。

勿論、知識としては「キュリー夫人」や「ショパン」がポーランド人であることは知っていたが、フツーのアメリカ人の中ではポーランド系は「ポラック」と小馬鹿にされていたらしい。

 どんな時代でもどんな国でも、人間は自分が住んでいる国でつらい目にあっていると、他の集団に対して「自分らはあいつらよりまだましや」と思うことで、

自分が属する集団の感情のバランスをとるようだ。

それは、その時々の支配層からすると、不満が自分たちに向かわずに、彼らのエネルギーが彼ら下層どうしのいさかいの中で消耗されるわけだから大いに歓迎していいことだ。

昔から世界各国で移住者へ参政権を与えるかどうかは必ずもめるが、歴史的にも各国の時の支配層は、フツーの連中どうしが大いに揉めるように、

巧妙にメディアを使って闘争を煽ってきた。アメリカの新聞やラジオのおかげで、当時の日系人がどんなに痛い目にあわされたか。

余談その2 -映画の公式HPより引用

 本作はワイダ監督自身の両親に捧げられている。
父ヤクプ・ワイダ(1900−1940)は1939年9月戦役でソ連捕虜となり、スタロビェルスク収容所に抑留され、ハリコフ近郊ピャチハトキで虐殺された。カティン犠牲者リストには「カロル・ワルダ中尉」の名があり、生年月日も父と一致していた。名が誤記されていたため、母アニェラ・ワイダ(1901−1950)は死去するまで、父が無事生還するとの希望を待ち続けた。
ワイダ監督は1957年、カンヌ映画祭で『地下水道』を上映するためにフランスを訪れた際、アンデルス将軍の序文つきの「カティン事件」資料集を読み、初めて事件の真相を知った。それから、映画完成までに半世紀を要した。

「東欧革命」(1989−90)で社会主義から資本主義に体制が変換するまで、ソ連の犯罪と虚偽を暴露する映画の製作は問題外だった。ワイダは1990年代半ばから、ライフワークとして「カティンの森虐殺事件」の映画化を切望した。それから、完成までに17年の歳月が必要だった。
ワイダ映画(そして、彼が代表する「ポーランド派」)の魅力は、すぐれた文学作品を創造的に映画化したことにある。カティンを素材とした文学作品が(本作中、収容所の場面でイェジが言及するズビグニェフ・ヘルベルト(1924−98)の詩「ボタン」を例外として)存在しないことが最大の障害として立ちふさがった。

虐殺されたポーランド将校は、ドラマの主人公になりにくい、という理由から、別のストーリー展開が模索された。

2001年1月から2003年11月まで、小説家ヴウォジミェシュ・オドイェフスキ(1930− )の協力を仰いで、戦後のクラクフを舞台にロマン・マルティニ検察官(ソ連の指令で、ドイツをカティン事件の犯人として告発しようとして、逆にミンスクでソ連の犯罪証拠文書を発見。その後、1946年3月にクラクフの自宅で何者かにより殺害される)を主人公にする可能性が模索されたが、実現に至らなかった。当時の映画の仮タイトルは、『カティン----痕跡を求めて』だった(オドイェフスキの「原作」は、『敗れざる者たち、歩く者たち』(03)として刊行されている)。
その後、アンジェイ・ムラルチク(1930− )が映画用の短篇小説(未刊行)を執筆し、のちにそれをもとに長篇小説『死後』(07)を執筆した。映画封切り数か月前に出版されたこの「映画物語」の舞台は、1945−46年のクラクフと21世紀初頭のカティン、主要な登場人物は、「カティン事件」の被害者アンジェイ・フィリピンスキ家の人々(母ブシャ、妻アンナ、娘ヴェロニカ)とヤロスワフ(映画のイェジ)、イェジ〔ユル〕(映画のタデウシュ〔トゥル〕)である。アンジェイは回想にしか登場しない。

一方、アンジェイ・ワイダ、ヴワディスワフ・パシコフスキ、プシェムィスワフ・ノヴァコフスキの3名は、ムラルチク執筆の短篇小説のモチーフを基に、シナリオを執筆した。プロデューサーの証言によると、1990年代半ばから数えて30番目のヴァージョンにあたるという。
撮影開始時、映画の表題は「原作」と同じく『死後』だったが、公開の半年前の2007年4月に、『カティン』に変更された。当初、登場人物は一切姓を持たず、演じる俳優のプライベートの名前で登場するという、かつて『すべて売り物』で試みたことのある手法の採用が検討されていた。ワイダ監督自身が画面に登場する案もあったが、いずれも制作途中で放棄された。

監督自身、カティン犠牲者である父を息子として待ち続け、夫を待ち続ける母の苦悩も身近に目撃している。小説『死後』のような小規模な「家族映画」を作るのはむしろたやすかったかもしれない。しかし、シナリオ執筆者たちは「原作」を大きく改変して、多様な登場人物による歴史パノラマを作り上げた。

ワイダ監督は、ムラルチクの小説とシナリオの関係を次のように説明している。「原作をもとにしたシナリオは、製作の準備段階と撮影中に多くの変更を受けました。しかしこの小説あればこそ、わたしは撮影を開始することができると信じられるようになったのです」「シナリオを4つの物語に分けることで、史実の中に発見された場面・情況・人物をより豊富に導入することが可能になりました。それによって、人物の運命のパノラマが拡大し、一家族の物語を超えた映画になりました。また、主題と直接関係のない要素を原作から排除して、全体の物語を時系列に沿って展開できるようにしました。このことが映画の受容を容易にしたはずです」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月21日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年10月22日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お勤めが終った後の夜の鵜  (長良川の鵜飼い)             13年前の今日 2009年10月22日の本ブログに掲載         

2022年10月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

鵜飼のご披露が終った鵜が「鵜の宿」戻りました。夕食は[すけそうだら]2本当てです。

鵜の首に巻いてある綱は人の指一本の隙間があります。咥えた鮎の中でも小さな鮎は、のどからお腹へ行ってしまいます

漁の対象になる大きさの鮎なら、4匹ほどがキープされ喉から人の手で押し出されます。

夜はこの篭の中で過ごします。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両国テラスの本日のランチタイムメニューに満足しました。     旧安田庭園シリーズその3

2022年10月21日 | 東京あちこち

バスを降りて すぐ店に入ると 何とか午後2時半のランチタイムラストオーダー時間に間に合いました。

テラス席は賑わっていましたが 店内に客はいなかったので窓際の席に着きました。席から庭園が見えます。

本日のランチメニューから私は肉料理を選び ハウスワインは赤をオーダー

 

 

相方はパスタを頼んだ。

値段をややupした見返りなのか二品とも思った以上にボリュームがあった。

店内でゆっくり過ごしてから 隣の旧安田庭園に移動しました。

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島のあべさんの「陸中海岸900kmドライブ」          13年前の今日 2009年10月21日の本ブログに掲載 

2022年10月21日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

長年ブログにアクセスして頂いている福島市のあべさんからメールを頂きました

☞「10月17、18、19日の3日間にかけて、陸中海岸をドライブしてきました。

宮古港では、サンマの水揚げが盛んでした。

田野畑村 北山崎の景色は、すばらしいのですが、363の階段を下りて崖の先端まで行くには大変でした。

浄土ヶ浜もすばらしい景色でした。いつまででも眺めていたかった!

ウミネコがたくさんいました。

大船渡市碁石海岸のウミネコと

越前クラゲです。(津軽海峡を渡ってきたのでしょうね)

トップの画像は普代村黒崎の朝日です。引用ここまで。

  ♪あべさん、900kmといえば東京・大阪間の往復に近いですね。
素敵な画像を有り難うございました。

越前クラゲが日本海から津軽海峡を通り抜けて、太平洋岸まで来るのですね。

この画像を見ると、“スターウォーズ”の映画に出てくるストームトルーパーの「ヘルメット」に似ているような気がします。

大陸から飛んでくる黄砂にはたっぷりと各種ミネラルが含まれていて、黄海、日本海に最近特に大量に落下し、日本海が過栄養化しているのがクラゲ増加の原因とか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2 コメント

浄土が浜 大好き (む~ちゃん)
2009-10-23 03:21:20
海岸に化石がゴロゴロ落ちているのですよね!
ひろった化石を今でも、持っています。
 
化石 ( 辛好)
2009-10-23 13:05:42
むーさま
化石ですか!!しかもゴロゴロ!!
そして海岸の名前が浄土が浜!!
化石になった元の生き物さん
もって瞑すべしですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五木寛之「サンカの民と被差別の世界」

2022年10月21日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年02月15日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

いま、五木寛之が書いた小説「親鸞」がよく売れているそうだ。これまで親鸞を描いた小説のどれとも違った破天荒の「親鸞」らしい。

今回読んだ「サンカの旅と被差別の世界」は、小説「親鸞」を書いた五木の基層を作った取材をまとめた本だと思う。

目次

第1部 海の漂泊民、山の漂泊民

海を住処とする「家船」の人びと
幻の「サンカ」を求めて
漂泊者の思想とその豊饒な文化

第2部 東都の闇に生きた被差別の民

「浅草弾左衛門」と呼ばれた賎民の王
生と死、聖と賎、美と醜の境界
「フーテンの寅さん」への憧れ

出版社 / 著者からの内容紹介

消えゆく記憶と、消してはいけない歴史語られることのない、日本の歴史の深層を真摯に探訪する。

かつてこの列島には、土地に定住することなく、国家に帰属することもなく自分の身分証明をした人びとがいた。

海の漂泊民「家船」と山の漂泊民「サンカ」である。そして関東には、江戸・東京を中心とした被差別の世界があり、

社会の底辺に位置づけられた人びとがたくましく生きた。賤民を束ねたのが浅草弾左衛門、非人頭は車善七だ。

 < 著者のことば>

私は、隠された歴史のひだを見なければ、"日本人のこころ"を考えたことにはならないと思っています。

今回は「家船」漁民という海の漂泊民から「サンカ」という山の漂泊民へ、そして、日本人とは何かという問題にまで踏みこむことになりました。

それは、これまでに体験したことのなかった新しいことを知り、自分自身も興奮させられた旅でした。

 本のはしがき「原郷への旅」から一部引用

引用開始・・私は自分が九州出身であるため、熊襲が討たれる話などを聞くと、つい討たれる側に同情してしまう。

しかも「古事記」にしても「日本書紀」にしても先住民たちが天皇軍の謀略によって滅ぼされるという話が多い。

例えば、昼間酒を飲まされて、油断して寝込んだところを夜討ちをかけられてあっさり負けてしまうのだ。

古代のこうした神話を読んでいると、CIAそこのけの策略戦だったことに驚かされる。素朴でナイーブだった先住民たちが、

だまし討ちのように苦もなく滅ぼされていくのを見ていると、なんだか義憤さえ感じてしまうのだ。

そうした過去の歴史はすっかり忘れられている。そして、相変わらず「日本人単一民族説論」が信仰されているのが現実ではないか。

最初からそれはイリュージョンであるにもかかわらず、アイヌ民族の存在を無視したような発言をいまだに聞くことがある。

沖浦氏の話では、少なくとも学会ではいま、日本人単一民族論をいう人など誰もいないと言う。日本人は複合民族であって、およそ六系列ぐらいの民族が存在している、

というのが学会での常識になっているそうだ。

そうした学会での常識が、なぜ一般の日本人の間では常識になっていないのだろうか。それが私には不思議でたまらない。

中略

それは、いまのマスコミの状況とよく似ている。たとえば、政府の経済対策にしても財政の問題にしても、一部の人はよく知っていることが

広く一般の人びとには知らされていない。みんなが知ったほうがいいにもかかわらず、本当のことが隠蔽されているという気がしてしかたがないのだ。

その隠蔽体質を解消して、情報を開示していこうではないか、というのがこのシリーズのひとつのモチーフだと私は思っている。

引用終わり。

2006年3月8日 第2刷 講談社

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

☆昭和7年生まれの五木寛之は戦後、親の故郷である九州で、朝鮮からの「引揚者」と、周囲から差別された体験を持って育った。

彼の書くものの原点にこの体験が抜きがたくあるようだ。

☆私は沖縄へ旅行したとき、地元の人に自分が「ヤマトンチュウ-大和人」と言われたのになぜか抵抗を感じた。

自分が大和朝廷を作った民族系列に属しているとおもえないからだ。このことは「鶴見俊輔」と「網野善彦」が対談した「歴史の話」で網野が同じことを書いていた。

 網野善彦は山梨県出身なので、出来たら沖縄の人は自分をヤマトンチュウ(大和人-日本人)と呼ばずに、甲州人と呼んで欲しいと思ったと笑いながら言っている。

その伝にならえば、私も沖縄人にヤマトンチュウ(大和人-日本人)と呼ばれるよりは信州人と呼んで欲しい。

☆余談ながら、最後の十三世弾左衛門は、明治の最初の頃に撮影された帯刀羽織袴の写真が残っている。

そして、彼は養子で十三世浅草弾左衛門となったのだが、驚いたことには生まれ育ったのは攝津国兎原郡住吉村だと書いてあってびっくりした。

現在の神戸市東灘区から浅草に養子に行って、彼は関八州のえたの最後の総元締めになったことになる。

   阿智胡地亭は高校生のころ三重県四日市市から引っ越して、昔の攝津国兎原郡住吉村、今の神戸市東灘区住吉町に住んでいた。

☆お笑いを一つ!!
 
 五木寛之はある講演会で司会者からこう紹介されたことがある。

皆様、本日講演をお願いしましたのは「さらば息子は愚連隊」でご存知の五木ひろしさんです! 

 

   五木のベストセラー「さらばモスクワ愚連隊click」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月20日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年10月21日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国技館に隣接した野外ステージでジャズの演奏を聞ききました。すみだストリートジャズフェスティバル。 旧安田庭園シリーズ その2

2022年10月20日 | 東京あちこち

旧安田庭園を出て両国駅に向かうと 国技館の横に臨時のステージが出来ていました。

BBQの店も出ていました。

左側に国技館、右側に江戸東京博物館の屋根が見えています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする