Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

10年前

2025年03月10日 06時30分00秒 | Weblog
 「ショパンコンクール第3位のケイト・リウと第4位のエリック・ルー。ソリストとして世界を転戦する2人がワルシャワ、シンガポールに続いて東京で再会します。
《連弾》 
F.シューベルト:アレグロ イ短調「人生の嵐」D.947 Op.144 
F.シューベルト:幻想曲 ヘ短調 D.940 Op.103 
《2台ピアノ》 
W.A.モーツァルト:2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 
F.ショパン:ロンド ハ長調 Op.73
<アンコール曲>
J.S.バッハ:「神の時こそいと良き時」BWV106(G.クルターグによる4手ピアノ編)
ブラームス:「16のワルツ」より第15番変イ長調op.39-15

 10年前(2015年)に開催された第17回ショパン国際ピアノ・コンクールの第3位&第4位入賞者のデュオ・リサイタル。
 「コンサートの舞台袖でできた、嘘のような公演だ。「ケイト・リウから、日本に行きたいけれど、以前自分を呼んでくれたエージェントに5年間いくらメールを送っても返信がない。」と、お金儲けの下手な小さなマネジメントの社長が言った。「そんなに来たいなら呼んじゃおう。」次の日には、もう日程が決まるというスピードで話が進んだ。更に、神奈川公演のために来日予定のエリック・ルーの日程を動かして、デュオ・リサイタルを作ってしまうことになった。ひょうたんから駒とは、まさにこのことだ。」(公演チラシより)
 
 このホールは天井が高くて響きが良く、ピアニストの評判も良いらしい。
 そこでもって連弾と2台ピアノによる演奏がなされるので、音量だけでも凄まじい。
 前半のシューベルトは、晩年の彼の熱情と悲哀が注入されたかのような2曲だが、後半1曲目のモーツァルトは幸福感溢れる華やかな曲で、二人の亡くなり方の違いを反映しているかのようだ。
 すなわち、モーツァルトは長く苦しむことなく亡くなったのに対し、シューベルトは晩年長らく病気と闘いながら作曲を続け、その末に亡くなったという違いである。
 ちなみに、モーツァルトの死因については毒殺説もあるが、「リウマチ熱説」が有力なようだ(モーツァルトは毒殺されたのか?)。
 ラストのショパン:ロンドハ長調は、ショパンが18歳の時ピアノ独奏用に作ったものが、1828年に2台ピアノ用に編曲されたもの。
 若々しさと希望に満ちているのは当然だろう。
 アンコール曲はいずれも穏やかな曲で、家が近ければそのままベッドに入ってしまいたい感じである。
 ・・・ところで、今年開催されるショパン・コンクールの予備予選進出者が発表された(第19回ショパン国際ピアノコンクール予備予選出場者 発表!)。
 日本からは亀井聖矢さんら24名が出場するが、中国からは何と67名も出場するらしい。
 10年前のファイナルで審査員のフィリップ・アントルモン(中学時代から私の大のお気に入りで、サイン入りCDも持っている)がチョ・ソンジンの演奏に「1点」を付けたときのような露骨な採点がなければ、日本人初の優勝者が誕生するかもしれない。


 
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20年前

2025年03月09日 06時30分00秒 | Weblog
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第21番《ワルトシュタイン》
リスト:ノクターン《夢のなかに》
リスト:メフィスト・ワルツ 第1番
ショパン:ノクターン 第7番、第8番
ショパン:ピアノ・ソナタ 第3番
<アンコール曲>
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番「悲愴」より第2楽章
ショパン:革命
リスト:ラ・カンパネラ
ショパン:ノクターン第20番「遺作」

 辻井さんのソロ・コンサートで、今回は、自分が思い入れのある曲を中心に選んだという。
 ベートーヴェンについて、辻井さんは常に
 「ベートーヴェンは障害があってもそれを乗り越え、すばらしい作品を残してくれた。その魂に寄り添い、作品の真意を表現し、聴衆の方々とともにベートーヴェンというひとりの偉大な人間に近づきたい
と語っているそうである。
 続くリストは辻井さんの定番だが、私見では、リストを弾くときの辻井さんは、自身の暗部(ダーカー・サイド)をさらけ出しているように見える。
 今回の「メフィスト・ワルツ1番」がまさにそれで、ピアノが野獣のように踊っているのに驚く(この直前のノクターン《夢のなかに》も相当気味の悪い曲である)。
 これに対し、辻井さんのショパンは、極めてオーソドックスで、聴いていて心地よい。
 ちなみに、ピアノ・ソナタ第3番は、20年前(2005年)のショパン・コンクール(辻井伸行 Nobuyuki Tsujii - Chopin Piano Sonata No.3 op.58-1 , 2辻井伸行 Nobuyuki Tsujii - Chopin Piano Sonata No.3 op.58-3 , 4)でも弾いた思い出の曲だそうである。
 さて、本日のアンコールは4曲の大盤振る舞い。
 「革命」を弾いた後、辻井さんは、青空を見上げているかのような輝かしい表情を浮かべている。
 いったん舞台の袖に引っ込んだ後再登場し、「気分が乗って来たので・・・」と言った後、「ラ・カンパネラ」を、例によって超ハイテンポで弾き始めた。
 若干ミスタッチがあったように感じたが、そんなことなどどうでもよいのは、辻井さんのエネルギーが噴出しているからである。
 ・・・と思いきや、ラストの「遺作」では終始ピアノが泣いており、よいクール・ダウンになった。
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マーラーに関して注意すべきこと

2025年03月08日 06時30分00秒 | Weblog
モーツァルト/2台のピアノのための協奏曲*
<ソリスト・アンコール曲>
モーツァルト/4手のためのピアノソナタ・二長調K.381より第2楽章
マーラー/交響曲第1番『巨人』

 日韓国交正常化60周年記念の特別演奏会。
 前半は日韓それぞれのピアニストが共に演奏するという、公演の趣旨にマッチした選曲。
 他方、後半の「巨人」の趣旨は一見した限りではちょっと分かりにくい。
 だが、演奏前に大勢のオケ団員さんが舞台上を埋め尽くしたのでようやく合点がゆく。
 明らかにベルリンフィルの来日公演などよりも人数が多く、これほどたくさんの団員さんを見るのは、さすがに初めてである。
 東フィルとKBSのたくさんの団員さんで演奏するのにふさわしい曲ということのようだ。
 指揮者がこれを暗譜で振るというのも凄いが、4楽章に現れたむき出しの生命力の凄まじいこと!
 マーラーの内面に滾るマグマが噴出した場面を見るようで、これに近いのは辻井伸行さんが弾く「ラ・カンパネラ」くらいだろう。
 ・・・ところで、マーラ―を聴く際に注意すべきことが一つある。

 「聴き手にも注意が必要なことがある。著名ピアニストがハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの最後のソナタとか最後から2番目のソナタからなるリサイタルを開いた。休憩なしで弾き続けて、アンコールもたっぷり30分以上弾いた。誰もが感激したとは思うけれど、終わってみればお手洗いに長蛇の列。さては皆さん、マーラ―の交響曲やフィリップ・グラスのオペラの演奏会に行ったことがないでしょう。事前の備えが大切です・・・・・・」(p15)

 そう、「事前の備え」が必要なのである。
 
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黄色い線、あるいは規制線と規制テープ

2025年03月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「イギリスの劇作家サイモン・スティーヴンスの2作品『ポルノグラフィ』『レイジ』が、同じ出演者による同時上演のスタイルで、2025年2月~3月にシアタートラムで上演される。・・・
 黄色の線は規制線を意味しており、「黄色の線の内側に下がっていなければ」というメインビジュアルのキャッチコピーにもあるこの言葉は、『ポルノグラフィ』の前書きとして書かれた作家の言葉。
私たちの言葉はあなたには全く響かない。だから、分かってもらえるような言葉で話していこう。私たちの言葉は死んでしまった、でもこれから血を通わせ命を与えよう。
 地獄のようなイメージ
 沈黙している。
黄色い線の内側に下がっていなければ。
」(以上、戯曲より抜粋)
 日常と非日常の境界線に引かれる黄色い線。この線は、『レイジ』の世界にも引き継がれていく。

 世界的に注目を浴びる劇作家サイモン・スティーヴンスの2作品が一挙に上演されるということで、会場はほぼ満席で、同業者(劇作家)も来ていたようである。
 「ポルノグラフィ」(2005年作)と「レイジ」(2015年作)の共通点は、舞台がイギリスの都市(ロンドンとマンチェスター)であること、「黄色」、すなわち劇中に登場する「黄色い線」(規制線)又は「黄色いテープ」(規制テープ)。
 それに、忘れていけないのは、「幽霊」又は「死者たちの世界」であり、これはイギリス演劇のお約束のようなものである。

① 「ポルノグラフィ」
 2005年7月6日、2012年のオリンピック開催地がロンドンに決まった。
 その翌日の7月7日、お祝いムードに沸くロンドンで、地下鉄・バスの連続爆破テロ事件が起きた。
 56名の人生を一瞬にして奪い、世界中を震撼させた事件である。死亡者リストには実行犯4名の名前も含まれていた。
 この作品は、犯人の一人を含む12人・7つのシーンで 構成されるが、地下鉄の黄色い線(ロンドン地下鉄の物語:亡き夫の声を求めて)を、今回の演出では黄色いテープによって表現している。
 この意味は、「『日常』と『非日常』の境界」というもの。
 これは、例えば、
・テロの実行犯(亀田佳明)・・・「こっちに来るな=生きろよ」
・認知症の老婆(竹下景子)・・・「チキンを食べる=生きる」
という風に、ポジティヴな意味に捉えることが可能である(公演パンフレット「スペシャル対談」より)。

② 「レイジ」
 イギリス・マンチェスターの大みそかの様子を捉えた、ジョエル・グッドマン撮影の写真から想を得た群像劇。 
 これといって共通のテーマは見当たらないが、それも当然。
 作品が生まれた背景から明らかなとおり、これは、戯曲版「展覧会の絵」なのである。
 私が強い感銘を受けたのは、「世界のその下が見える老女」。
 舞台となっている WELL STREET の WELL には、井戸という意味だけでなく、「あの世」という意味が込められているようだ。

 ・・・というわけで、①②に共通する「黄色いテープ」は、「『この世』と『あの世』の境界」という意味も持ちうるのである。
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フィジカリティーとエモーション

2025年03月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「ドイツ・マインツ州立劇場発、エネルギーに満ちたコンテンポラリーダンスカンパニー、タンツマインツが待望の初来日!
世界のダンスシーンを席巻する振付家シャロン・エイアルとのコラボレーションによる特別なステージをおおくりします。

 タンツマインツの初来日公演。
 振付はシャロン・エイアルで、昨年のNDT公演の "Jackie" (脱”ヒト”化)とテーストが似ている。
 つまり、”PROMISE”でも、複数のダンサー(本来は7人だが、今回は1名が熱発で降板し6名)が密着してくんずほぐれつして動きながら進行する。
 動きの中で分かりやすいのは間歇的に形成されるハートマーク(あるいは『穴』)で、これをダンサーたちがかわるがわる潜り抜ける。
 若干のヒントが、振付家のコメントに出ている。

 「私が胸に誓ったものたち、、、ずっしりとした宝石、、、解体されるノイズ、、、破れた穴、、、体内にみなぎる愛♡ それこそが『プロミス』なのです」(公演チラシより)

 いろいろなものを表現しながら、最後は延々と続く「ローハイド」の中で幕が降りる。
 ちなみに、シャロン・エイアルは、パリ・オペラ座公演の際のインタビュー([INTERVIEW] SHARON EYAL about L'Après-midi d'un faune)で、
 「最も重要なのは physicality (フィジカリティー)・・・なぜなら、私にとって、フィジカリティーは強い emotion (エモーション)だから。・・・もしかすると、フィジカリティーが余りに強く極端になると、この、説明出来ないエモーションになるのかもしれない。・・・」(3:20付近~)
と述べている。
 ここで、エモーションを「感情」と訳してしまうと、誤解を招きかねない。 
 アントニオ・ダマシオの説によれば、emotion (情動)と feeling (感情)は別物だからである(道具概念v.s.道具概念(9))。
 ニュアンスはやや異なるが、身体性と情動の深い結びつきについて、振付家と脳科学者の見解がほぼ一致しているのは面白い。
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カルテットの要

2025年03月05日 06時30分00秒 | Weblog
  • J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV 988
  • J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 よりシャコンヌ
 CDでは中学以来000回以上は聴いているはずの「ゴルトベルク変奏曲」だが(聴き過ぎに注意)、チェロ四重奏による「ゴルトベルク変奏曲」を聴くのはこれが初めて。
 もともとチェンバロ用の曲であるため、チェロ四重奏に編曲するのはおそらく大変だったろう。
 アリアの段階でその片鱗が見えるのだが、例えば、”音を省く”工夫がその最たるものだろう。
 もともと弦楽器は、速いが音階を滑らかに移行する音には対応出来ても、”速く飛ぶ音”を弾くようには出来ていないはずである(コンサートマスターの本音)。
 なので、第5変奏などは若干の違和感を覚える。
 他方で、第7変奏のように、ピアノやチェンバロよりしっくりくる変奏もある。
 一時間半近い大局なのだが、常に4人で演奏しているわけではなく、1人か2人が休んでいる時間も結構ある。
 そんな中で、辻本玲さんはかなりの時間奮闘しており、しかも演奏ぶりに乱れが見られない。
 カルテットと言ってもこういう”要”となる演奏者が必要なのかもしれない。

メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第1番 変ホ長調 Op.12
ヤナーチェク:弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「クロイツェル・ソナタ」
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 Op.59-2「ラズモフスキー 第2番」 
<アンコール曲>
デューク・エリントン:コットンクラブ・ストンプ

 こちらは通常のカルテット。
 例によってというか、ピタリと息が合っている。
 最前列中央なので、4人が文字通り「息を合わせる」のを目の当たりにする。
 「クロイツェル・ソナタ」で深い苦悩に沈んだ後の「ラズモフスキー第2番」という曲の並べ方がよく、最後はいい気分になる。
 この四重奏団も、見ているとヴァイオリンのジョナサン・オンさんが全体をリードしているように見える。
 辻本さんと同じく、”要”の役割を果たしているのだろう。
 アンコール曲はまさかのデューク・エリントンで、四重奏団はジャズも出来るのだと実感する。
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レガート、ノンレガート

2025年03月04日 06時30分00秒 | Weblog
  • ボッシ:オルガン協奏曲 イ短調 Op.100
    オルガン:本田 ひまわり
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
    ピアノ:原田 莉奈
  • プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26
    ピアノ:青島 周平
  • シューマン:チェロ協奏曲 イ短調 Op.129
    チェロ:山根 風仁
 昨年はヴォーカリスト6名が出場したこのコンサートだが(自立と依存(3))、今年は器楽奏者4名による協奏曲が演奏された。
 オルガン協奏曲は私も初めて聴くのだが、オケとのコール&レスポンスなどもあって、新鮮な感動を覚える。
 モーツァルトの協奏曲23番は、先日藤田真央さんの演奏で聴いたのだが、今回は2楽章で”歌う”ところがうまいと感じた。 
 プロコフィエフ3番の青島さんは、見たところ終始リラックスして演奏しているように思ったのだが、終演後は「膝ががくがくです」ということで、実は緊張しまくっていたそうだ。
 ラストの山根さんは、「歴史的演奏研究」に取り組んでおり、作曲された当時の指使いや弓の用い方も調べて演奏しているそうだ。
 チェロでは、「音をつなげて『歌』のように」演奏することが重要らしい。
 つまり、レガート奏法ということのようだ。 
 これに対して、原田さんのモーツアルトと青島さんのプロコフィエフは、私がみた限りでは全般的にノン・レガートだったと思う。
 「歴史的演奏」によれば、楽器の違いもあるけれど、基本的な奏法が違ってくるのだ。
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駄作と傑作、あるいは苦悩と歓喜

2025年03月03日 06時30分00秒 | Weblog
トリプル・コンチェルト
 「この曲は20世紀半ばまで、今では信じられないほど不評、無名で、「駄作」扱いする研究者も多かった。ベートーヴェン先生のこんなオモシロ・コンチェルトがかつては「駄作」扱い?!

英雄
 「もうひとつ勝手な評価ながら、シンフォニー・コンサートの場でベートーヴェン『英雄』とチャイコフスキー『悲愴』のどちらか、または両方を指揮して感動を与えてくれる人は、それだけで真の意味で「巨匠指揮者」と言える。過去の実績から行ってもチョン・ミョンフンは正に「両方」に該当。さらにはマニアックな興味として、第1楽章コーダでの例のトランペット主題の扱いはどうなるのか、第2楽章135小節からのホルンによる信号音型は譜面通り1人なのか、通例で3人で勇壮に吹かせるのか、第3楽章のテンポは、最終楽章の扱いは、使用楽譜は新・旧ブライトコップのどちらなのか最新のベーレンライターなのか、東京フィルの演奏人数と配置は今回はどうなのか、マエストロはいつものように暗譜なのか、などなど俗な興味もまた尽きない。そして何よりも、今回はどのようなインパクトと感動が得られるのか。これはもう「聴くしかない」

 「トリプル・コンチェルト」はおそらく演奏機会が極めて低いため、ぜひ生で聴いておくべき曲である。
 ところが、研究者の中にはこの曲を「駄作」扱いする人もいたらしく、ロバート・マーコウさんも "black sheep" という言葉で表現している。
 もっとも、実際に聴いてみると、テンポがよくてソリストとオケとの掛け合いもあり、退屈しない良い曲である(傑作とまでは言えないのかもしれないが)。
 メインの「英雄」は、傑作であるがゆえに随分マニアックな聴き方をする人がいて、上に引用したのが正しくその例だろう。
 昨年9月にもロンドン・フィルで聴いているのだが(マグマの噴出と完璧な調和)、今回の東フィルの演奏も非の打ちどころがなく、練度が高そうである。
 ちなみに、マエストロは本日は終始暗譜であった。
 それにしても、ベートーヴェンは、2楽章:葬送行進曲→3楽章:スケルツォという、地獄から天国への展開を好むのだが、その理由に関する彼の答えを想像してみた。

 「地獄や苦悩を経験しなければ、真に天国や歓喜を味わうことは出来ず、私の中の神を目覚めさせることは出来ないのだ

 これと同じ伝で、「たまには駄作を混ぜないと、傑作が際立たない」ということもあったりして?
 
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面晴れとしての子殺し

2025年03月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「初代国立劇場さよなら特別公演以来となる通し上演にて、「王代物(おうだいもの)」の傑作『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』を3部制で上演します。敵対する2つの家の子供同士が惹かれ合う“日本版『ロミオとジュリエット』”とも称される場面が中心の第一部、帝側への復権のためわが子を犠牲にした旧臣とその家族の悲劇を大和地方の伝説を背景に描く第二部、身分違いの恋をする一人の娘が政争の渦に巻き込まれていく第三部と、通しでのご鑑賞はもちろん、各部のみでもお楽しみいただける構成でご覧いただく公演です。

 2月の国立劇場・東京の文楽公演は、「妹背山婦女庭訓」の通し。
 近松半二の作品は、観ていて気分が悪くなるような、病的でグロテスクなストーリーのものが多いが、これはその筆頭に挙げてよい。
 令和5年にも上演されたが、どうやら主催者は、江戸時代の社会の闇を代表するこの作品が好きらしい。
 第一部は都合がつかず観に行けなかったのだが、第二部と第三部を鑑賞。
 第一部(9月のポトラッチ・カウント(6))と第三部(6月のポトラッチ・カウント(3)) は昨年歌舞伎座で上演されたが、「鹿殺しの段」及び「芝六忠義の段」を含む第二部は私も初見である。
 漁師の芝六(実は鎌足の家来:玄上太郎)は、蘇我入鹿を倒すために必要な鹿の血を得るため、長男(義理の子)・三作を連れて森に狩りに出かけ、「爪黒の牝鹿」を射殺した。
 だが、当時奈良の鹿は神聖な動物とされており、殺せば死刑(石子詰の刑)が待っていた。

芝六忠義の段
 「そうこうしていると、杉松に連れられた興福寺の衆徒が門口へやってきて、鹿殺しの犯人として三作を捕まえる。・・・仲間の衆の取り調べが行われたり、芝六の難儀になってはいけないので名乗って出ると言うのだ。以前から義理の父・芝六に大切に孝行するように言われていた三作はお雉の言いつけ通りにしたのだった。三作は父が悲しまないよう自分は京の町へ奉公に行ったと伝えた上で、杉松をふたりぶん可愛がり、弟には狩人をさせないで欲しいと頼む。お雉は三作の立派さに泣きじゃくり抱きしめるが、衆徒たちは明け六つの鐘を合図に三作を石子詰の刑にすると言って引っ立てて行った。
 お雉が泣き伏していると、酒に酔った芝六が上機嫌で帰ってくる。芝六は酔い覚ましに冷える地面に寝ているのかとお雉にじゃれつくが、お雉は泣くばかり。芝六が彼女を泣き上戸と言ってなおもふざけかかると、お雉は泣き顔を取り繕い、さきほどの捕手の始末はどうなったのかと尋ねる。芝六は詮議を無事言い抜けてきたと答え、明け六つの鐘が鳴れば鎌足の勘当が解けてかねてからの願いが叶うと、酒屋を叩き起こして酒を飲んできたと言う。三作を探す芝六の姿にお雉は胸が張り裂けそうになり、三作は猟に出かけたと話す。
・・・芝六は果報は寝て待てとして、杉松を抱いて布団に入る。
 お雉は夫の嬉しそうな寝顔を見ながら、真実を告げれば三作の思いも無駄になり、夫の命が危険にさらされるが、しかし三作も可愛いとして心が乱れる。そのうちに興福寺の鐘が鳴りだし、一つ、二つ、三つ、四つ、五つと鳴るうち、お雉は三作を案じて斧鉞に打たれる心地になる。六つ目の鐘が鳴ったとき、わっという叫び声が聞こえる。見ると芝六が刀で杉松の喉を畳まで突き通しており、布団は血に染まっていた。動転するお雉に、芝六は理由を語り始める。先ほどの捕手は玄上太郎の心を試すための鎌足の使者であり、それに気づいていながらも人質に心が迷った自分は重ねて疑われてしまった。勘当を赦されずとも、真実は他言しないという心を実の息子を斬ることで証明すると。杉松のことは侍の義理だと思って諦め、三作をそのぶん可愛がって欲しいと言い、芝六は伏して泣く。しかしお雉はその三作は鹿殺しの犯人として連れられて行ったと嘆く。

 初っ端から、父(芝六)を鹿殺しの罪から守るため身代わりを買って出た三作によるポトラッチが炸裂する。
 他方で、鎌足が芝六を試すため偽役人を遣わしたことに気付いた芝六は、何と、
 「「根性を見下げられた」と感じて、面晴れのために実子杉松を殺す
のだった(筋書p59)。
 これもポトラッチと見てよいと思うが、「面晴れ」(疑いを晴らすこと)のために我が子を手にかけるとは、恐ろしい時代である。
 この後、三作は、なぜか殺されずに帰って来る。
 石子詰のために掘った土中から、蘇我蝦夷(入鹿の父)が天皇家から盗んだ神鏡と勾玉が見付かったため、三作は助かったのである。
 さらにその後、(今回は上演されないが)叢雲の宝剣も鎌足が手中に収め、「三種の神器」は天皇家の元に戻る。
 ・・・というわけで、近松半二を評価すべきとすれば、”ゲノム至上主義”の克服の点、すなわち、
① 芝六と(血のつながらない)三作との連帯
② (神武天皇の)ゲノムではなく、「三種の神器」こそが天皇たる地位を正当化するものだという思考
くらいだろうか?


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ポトラッチ合戦の結末

2025年03月01日 06時30分00秒 | Weblog
 「腕は立つし、人もいい左官の長兵衛は、困ったことに大の博打好き。見かねた娘のお久は、吉原に身を売る決意をします。事情を察した妓楼の女房・お駒は、長兵衛を諭し、50両の金を貸し与えるが、その帰り道…。

 夜の部ラストは「人情噺 文七元結」。
 故勘三郎が映画でも主演しており、中村屋にとっては馴染みの演目のようだ。
 あらすじは比較的単純で、登場人物によるポトラッチの連鎖によってストーリーが展開する。
 最初のポトラッチは、バクチ好きの父が作った借金返済のため、娘のお久が吉原に身売りするという、純正ポトラッチである。
 その対価として50両を受け取った長兵衛は、その帰り道、回収した売掛金50両を道で掏摸に摺られたと錯覚し、身投げをしようとしていた文七に遭遇する。
 文七は、両親を亡くした自分を大切に育ててくれたご主人・清兵衛に言い訳が出来ないというので、死んでお詫びをしようとしていた。
 つまり、ポトラッチとしての自殺(=ここでは「疑似ポトラッチ」の方)を図っていたのである。
 長兵衛は、親身になって話を聞くうちに同情し、「人の命は金じゃあ買えねえ」と、文七にポンと50両を渡してしまう。
 「追い詰められた一人」を救うための行為であり、これ自体は正当なことと思えるし、一種のポトラッチと見ることが出来そうだ。
 もっとも、後先考えない長兵衛は、文七の名前すら聞かずに走り去ってしまった。
 家に戻ると、当然のことながら、大切な 50両を見ず知らずの人物に、名前すら聞くことなく渡したという話を信用しない妻・お金は、「またバクチで摺ったんでしょ?」と厳しく責める(七之助の名演技に本日一番の拍手!)。
 すると、文七と清兵衛が、昨日のお礼ということで長兵衛宅を訪れ、50両を返却する。
 50両は摺られたのではなく、客先の碁盤の下に置き忘れていたのである。
 だが、どういうわけか長兵衛は50両を受け取ろうとしない。
 そこへ鳶頭の伊兵衛がお久を連れて登場。
 実は、文七からお久の孝行話を聞いた清兵衛が、文七が受けた恩義のお礼にと、吉原からお久を50両で身請けしたのだった。
 これも一種のポトラッチと言えそうだ。
 そして文七とお久は夫婦になるというハッピー・エンド。
 ・・・ポトラッチ合戦における給付と反対給付を見ていくと、最後に清兵衛が行なったポトラッチの代償は、「文七が受けた恩義」という話である。
 要するに、長兵衛は、50両を文七に贈与したことにより、「お久が戻って来る」という反対給付を受けたのであった。
 だが、長兵衛は、依然として、受け取った50両を債権者に返済する義務を負っている。
 というわけで、借金を返済するまで、この話は終わらないのである。
 
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