「舞台は神話時代、ギリシャのスパルタ。「この世で最も美しい乙女」と名高いエレーヌは、夫であるスパルタの王メネラオスとの平凡な夫婦生活にうんざりしている。「どうか愛をお与えください」と切望するエレーヌ。そんな彼女の前に、羊飼いに扮したトロイアの王子パリスが現れ、エレーヌは彼に一目惚れする。パリスの本当の身分が明かされると、エレーヌは仰天。実はこの二人、出会うべくして出会った二人であったのだ。そうこうしているうちに、パリスと結託している予言者カルカスの手によって、メネラオスは訳も分からないままクレタ島行きを命じられてしまう。
夫不在の部屋のなかで、未来を案じるエレーヌ。そこに、「そろそろ僕と一緒にならないか」とパリスがやって来る。最初はためらいをみせていたエレーヌであったが、夫との生活に飽きていた彼女は、まんざらでもないご様子。「これは夢の中だから」と言って、ついにパリスとの甘い時間を過ごすことに。しかし、そこにクレタ島に行っていたはずの夫が突然帰ってきてしまう……。」
夫不在の部屋のなかで、未来を案じるエレーヌ。そこに、「そろそろ僕と一緒にならないか」とパリスがやって来る。最初はためらいをみせていたエレーヌであったが、夫との生活に飽きていた彼女は、まんざらでもないご様子。「これは夢の中だから」と言って、ついにパリスとの甘い時間を過ごすことに。しかし、そこにクレタ島に行っていたはずの夫が突然帰ってきてしまう……。」
通常のオペラとは異なり、ナレーターが筋書きを分かりやすく解説し、かつ歌手たちは歌だけでなくコミカルな演技を行うという、ちょっと変わった趣向の公演。
どうやら、こむつかしいと思われがちなオペラを身近なものにしたいという意図がありそうだ。
個人的には、エレーヌ:砂川涼子さんとパリス:工藤和真さんの声の美しさ・力強さが圧倒的で、この2人の歌唱を延々と聴いていたいような気分になった。
さて、上演初日から大成功をおさめ、オッフェンバックの生前は彼の「最大の成功作」とされていた「美しきエレーヌ」だが、わが国では公演機会が極端に少ない。
その最大の理由は、エレーヌの位置づけないし行動原理についての誤解があるように思われる。
大いにありうる誤解としては、「エレーヌは単なる浮気女じゃないか」というものである。
だが、エレーヌ自身が弁解するとおり、彼女は積極的に不貞を行ったのではなく、パリスと結ばれたのは神=ウェヌスの意図によるものである。
オペラの中でも、「あくまで夢の中の出来事」というロジックで、エレーヌは自身の無答責を主張する。
実際のところ、原作である「イリアス」の作中でも、ギリシャ(アカイア)側がエレーヌ(ヘレネ)を非難するくだりは、なんと1か所しかない。
ホメロス イリアス (下) 第十九歌
(パトロクロスの死を悼む)アキレウス
「・・・これより辛い思いをすることは他にはあるまい、例えば父上が亡くなられたと聞いたとしてもーーー。その父上は今頃きっとプティエで、これほどの息子を奪われた悲しみに、大粒の涙をこぼしておいでであろう。その息子はその名を聞くだに身の毛がよだつヘレネのために、異国の地でトロイエ勢と戦っている。・・・」(p242)
その理由については、非常に解釈が難しい。
誤解を生む材料もたくさん存在する。
まず、大いにあり得る誤解の1つ目は、
「エレーヌは女性、すなわちéchange の客体であるがゆえに無答責なのだ。」
というものである。
この誤解は無理もないことで、というのも、「イリアス」にはあちこちに、この種の女性差別的な記述が存在しているからである。
2つ目に考えられる誤解は、
「エレーヌは”愛”によって動かされたものであるから、メネラオスの”名誉”を傷つける意図(故意)はなかった。」
というものである。
これは、オッフェンバックのオペラから最も自然に導かれる論理だろう。
エレーヌのアリアにもある通り、作者は、”愛”と”名誉”を対比させ、両者を別次元にある価値として位置づけているからである。
分かりやすく言うと、「エレーヌがパリスに”愛”を抱いたこと自体はやむを得ない。悪いのは、彼女をさらっていき、メネラオスの”名誉”を傷つけたパリスである」という考え方である。
なので、メネラオスは、
「私の名誉を、みんな、守ってくれ・・・」
と叫ぶわけである。