どんなに頭が良くてもおかしな教育を受ければ今の日本を率いる政・官・財・マスメディアの偉いさん達のように日本を破壊することしか出来ないようです。
その為にも、教育の改革が急がれることを何度も書いてきました。ところが、中枢がそんな状態なので改革に命懸けで取り組もうという人も殆どいない状態のようです。
一体、どうすれば良いのか。
ねずさんが国民精神の涵養こそが必要と書いてくれています。とは言え、おかしな奴等に教育界が乗っ取られているのですからそれが一番難しそうです。
この中で、恐ろしいことを指摘してくれています。今の日本は僅か2〜300万人(つまり人口の2%程度)の外国人によって操られているのだそうです。なる程、やはりそうだったんですね。
何時ものように全文をリンク元で読んでください。
ねずさんのひとりごとより 2020/6/9
国語教育の要諦は国民精神の涵養(かんよう)
・・・略
ところが戦後の学習指導要綱は、国語教育の目的を、
「国語を適切に表現し正確に理解する能力を
育成し伝え合う力を高めるとともに、
思考力や想像力及び言語感覚を養い、
国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」
としています。
つまり根本的な教育目的が違うのです。
「国民精神の涵養」は、「価値観の押しつけ」であって、教育からは除外されるべきものとされています。
しかし、現代の学習指導要綱が言う、「国語を適切に表現し正確に理解する能力」も、「伝え合う力」も、「思考力や想像力」も、 「国語に対する関心」も、「国語を尊重する態度」も、いずれも根底となるべき「国民精神」が育っていなければ、それらの基準とな るものがありません。
「国民精神」がない状態というのは、判断のものさしとなる価値観を持たないということだからです。・・・中略
真っ直ぐで正常な「国民精神」が根底に育っていなければ、まともな判断など、できるものではないのです。
そして真っすぐで正常な「国民精神」とは、日本人としての真っ直ぐで正常な価値観のことです。
「価値観=国民精神」なのです。
つまり国民精神の涵養は、国民的価値観を育成するのです。
「国民精神」は、英訳するなら「アイデンディディ(Identity)」です。
教育の目的は、児童のアイデンティティを育てるところにある、などと言われたりもします。
けれど結局のところ、そのアイデンティティなるものは、戦前戦中までの日本の教育にあった「国民精神」そのものでしかないので す。
いまの日本は、1億2千万を超す生粋の日本人の人口がありながら、わずか2〜300万人(つまり人口の2%程度)の外国人によっ て、日本文化そのものが乗っ取られようとしていると言われています。
この2%(つまり50人に1人)というのは、ヨーロッパやチャイナやコリアにおける王侯貴族の男子人口と同じです。
歴史をさかのぼれば、ギリシャ時代の市民の割合(男子のみ)と同じです。
そしてそれらの国では、人口の2%の人たち(女性を含めると4〜5%)だけが市民であり、その余は奴隷です。
日本人は、もとからの日本国土に住みながら外国人の奴隷になろうとしているのでしょうか。・・・中略
「日本書紀」は、これから大人になろうとする子たちの国民精神(アイデンティティを養い、「万葉集」は、その結果として一般庶 民の女子に至るまで施された高い教育の存在を明示していたのです。
つまり、確固とした日本精神が育成されていれば、どんなに外国人が大勢あったとしても、日本の文化はしっかりと守られるし、その 方が、日本に住もうとする外国人にとっても、居心地の良い、暮らしやすい日本であることができるのです。
だからこそ、ただ外国からやってきただけの人のことを「渡来人」と言い、日本に帰るところを化(か)えた、つまり日本に永住し、 日本人となって日本人とともに日本の歴史を築いていこうとする人たちのことを「帰化人」と呼んで区別したのです。
そして帰化人は、肌の色が違っても、瞳や髪の色が違っても、日本人とされたのです。
つまり、「国民精神」こそが大事なのです。
教育論については、偉い先生が、色々と本を出しておいでになりますが、そういう本には、なにやら難しい言葉が連なっているけれ ど、難しい言葉の羅列になっているということは、実は中身がない、ということです。
なぜなら我が国では、真実は常にわかりやすい言葉になっているからです。
そしてそういうものを、やさしい言葉で表現できるのもまた、日本語の特徴です。・・・以下略
やはり、特亜3国の日本を破壊しようとしている反日売国左翼・在日共の一掃こそが、日本再生の最大の近道のようです。
今回のChina肺炎は一掃の最大のチャンスでしょう。今こそ日本人が立ち上がるときじゃないでしょうか。
それは、選挙で出来るのじゃないでしょうか。本当に日本を愛する人を選ぶことです。