明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



一休の法衣を曽我派の絵画を参考にしている。室町時代、今と何が違うか判りはしない。陰影がなく、つまり立体感がないので、良く判らない。西洋画と東洋、日本画の描きたいこと、言いたいことの違いを改めて感じる。今回は平面を立体化した後、最終的に陰影を排除し平面化する訳で、こうして書いてみると、私は何をしている?という、お馴染みとなった感慨が湧いて来るのは仕方がない。そして最終的に写真になる、という所がミソである。ミソであるはずである。ここには私の写真との様々な歴史が在る。 写真初心者の私がブラインド・レモン・ジェファーソンを撮影した時であっだ。外光が三角形を描き、これは面白い、三脚から何までそのままにし、明日も同じ時刻にもう一度撮ってみよう、と考えた、ところが翌日、全て昨日のままのはずなのに、ファインダーの中、何か違っている。私は困惑したが、程なく気が付いた。カメラ、光、被写体は昨日のままだが、唯一昨日と違っていたのは私自身であった。つまりシャッターチャンスも私自身の中に在る、と。 そして外側にレンズを向けず眉間に当てる念写が理想となり、あの経験が、まことを写すという写真にあらがい続け、石塚式ビクトリアリズムに至る、初めの一歩だったろう。



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