水の表現をどうするか、なんて考えていると、いっそのこと、山も川も全て作った物だけで、なんて誘惑に駆られる。アトリエから一歩も出ず花鳥風月を描く画家がいるなら、粘土で作って写真を撮る人間がいてもおかしくはない。だがしかし、上手な嘘を付くならホントを混ぜるのがコツではある。 マコトを写す写真という言葉を蛇蝎の如く嫌うあまり、画面の中にマコトなど写してなるか、と写真を初めて以来、ずっとファイトを燃やし続けて来た気がする。人形を人間かのように撮影したり、廃れていた技法オイルプリントを手掛けたり、挙句が光と影の芸術たる写真から、陰影こそが自由を阻害している、と言いがかりを付け、写真から陰影を排除する始末である。 ブルース・リーのセリフ〝考えるな感じろ”はそんなことは知ってる。と続けて来て、考えないために金魚を眺め、ようやく寒山拾得の頭部が完成し、月を指差す寒山を作っている最中、考えるな感じろの続きが月を指して指を見るような物だ、と知る。その時、手法とモチーフの座標上のピントがピッタリ合って着弾地点にストライクの気分を味わった。昨年の初め、水槽の金魚をボンヤリ眺めていた私に教えてやりたい。