小四の時に読んだ大人向け『一休禅師』。そこに載っていた曽我蛇足作の一休の肖像画を元に一休を作った、その流れで蛇足が描いた喝!の凄まじい形相の臨済義玄に魅かれ臨済義玄まで作ってしまった。 外側にレンズを向けず眉間に当てる念写が理想、なのは草木同様自然物なら、肝心な物はあらかじめ備わっていると思うからだが、制作資料の中に禅では〝仏は外ではなく自分の中に在る”というのを目にして、私がこういうモチーフに至ったのは必然だったと考えたが、友人が書こうとしている論文にかかわる、とかでそれはどんな資料?と聞くので図録を伝えると、元々臨済義玄の『臨済録』に在るらしいという。臨済録は入手したが、読む前に像が完成してしまい、次の作品に取り掛かかってしまった。考えるな感じろでやっていると、こんなことが良く起きる。時に先週名前を初めて知った人を作っていたりするが、昨日書いたブーフーウーのお姉さんが絵図を描いているようで、必ず辻褄が合うことになる。作る意味、などという無駄なことさえ考えなければほぼ100パーセントである。