今日、明日にもデータが印刷所に回る予定だが、表紙にするつもりで制作しボツになった河童の三郎のカットは裏表紙の折り返した袖の部分に、小さくトリミングされ載ることになった。編集者のいうとおり、ない方がすっきりしているが、私としては、今後使われなかったカットについて思い出さずに済むのだから良しとしてもらおう。三郎の恨めしげな表情も、「もう閉じちゃうの?お名残り惜しいでしゅ」というご挨拶。に見えなくもない。 昭和30年代、東京の下町では、しつこかったり未練がましい男は最低だという風潮の中で育つ。小学生が「おとこは諦めが肝心」などというし、あっさりしていることがカッコイイわけである。しかし江戸っ子の痩せ我慢は、腹の中はともかく、はたからそう見えることが大事である。「宵越しの金は持たない」なんていっていた江戸っ子も、内心はハラハラしていたのが実情であろう。 日常のつまらない話でいうと、例えば食堂に入ったとする。食券の券売機がある。ずらり沢山のメニューである。どれにしようか、と思ったとたん、『男のくせに何食おうか迷ってやがる』。と誰かが見ているのではないかと思うといたたまれず、適当なボタンを押してしまうのである。私は痩せ我慢の見栄のために人生の大事な局面で、何度腹の中と反対のことを口走り、また行動に出て後悔しただろうか。 つまりこれで満足した、などと先日ブログに書いておきながら、水面下では編集者に、小さくても、どこでもいいからあのカットを入れてくれろ、といっていたのである。これで“本当に”思い残すことは爪の先ほどもなくなった。
(私は時折思うのである。この10年以上続けている身辺雑記は、私の人形作家としての神秘性をただ台無しにしているだけではないのか?)
過去の雑記
HOME