明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



室町時代の人物なら好き勝手に出来るはずが、宗教の決め事となると、いい加減には出来ない。私が作った鍵盤の数がいい加減なピアノも、ピアノ経験者からすれば、そんなピアノはピアノではない、ということなのだろう。しかし数えなければ判らないなら、いいじゃないか、と言いたくもあったが、今回はそうもいかない。それに同じ宗派だとしても、現在とは違ったりするだろう。という訳で、残された一休像を参考にするのが間違いないだろう。 来年某宗派の開祖を作ることになるかもしれない。しかし残された肖像画は解像度に難がある。詳細な先達の肖像を残すのは禅宗でも臨済宗の特徴である。それを知らなかった私は、この人物を作りたい、と思うと臨済宗関連で寒山拾得と縁があるな、と勘違いしていた。 私が作るに必要な資料として解像度が足りなければいつものように私が想像を加えるしかない。それで構わなければ、ということになろう。



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一休禅師は、法衣を着ているが、今まで作った僧侶と違い、背景もないところに、かなりアップになる予定である。酔い潰れた一休は首の周りに布をまとい、ムシロに覆われている。禅宗の開祖達磨大師は布だけである。そこを訪れた後の第ニ祖は雪積もる中略式で充分だろう。臨済宗開祖、臨済義玄は曽我蛇足描く布を斜め掛けしたような衣の通りにした。しかし今回は法衣に関しては細かな部分も作らなければならない。左胸の辺りにある輪っかみたいな物はなんだ? 従兄弟が三百年は続く、23区で最も標高が高いといわれる寺の住職なので、一休の木像の画像など送って聞いてみた。すると「正式っぽい結び形ですね。この結び方は特殊で難しく、坊さんでも出来ない人がいます。宗派が違い解らないので衣屋に聞いてみます。」40年前の初個展の時に、女の子に作ったピアノの鍵盤の数を数えられた私が、最も聞きたくない答えが帰って来た。



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小学4年で読んだ一休禅師は、表紙だったかに曽我蛇足の横目でこちらを見ている一休の肖像が載っていた。この原画には、一休直筆の讃が書かれているから、横目でジロリの画は、その表情含めてモデルとなった本人のお墨付きということになる。一休は蛇足に絵を習い、蛇足は一休に禅を習った。 伝記には、竹竿に髑髏の一休の挿絵があったか、私の空想かは半々だが、いずれにしても小四の私の頭の中にはあったのは間違いはない。小説などを読んでいると、その間ずっと映像が流れ続けるのだが、それは私だけの現象だと知って驚いたのは中学の休み時間であった。そうならないのに読書は面白いのか? それはともかく、小学四年の私の頭の中にあった一休禅師が今目の前にある。そう思うと、私の写真を撮るという行為は、他の人とは動機も方法も大分違い、外側にレンズを向けず眉間にレンズを当てる念写が理想というのはホントだが、私の念写は念ずると写すの間に作るがあるから時間がかかる。



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一休が、竹竿に髑髏を掲げているところをようやく撮れる。しかし例によって作ろうと思った時点で構図はすでに決まっている。一発で決まるのは良いようだが、ああしようこうしようという楽しみはない。しかし何度やっても最初に浮かんだ物を超えることができない。なのでスケッチは一切やらない、うっかり悪戯描きをして、それを超えられずに困るからである。その点いきなり粘土に行けば、作りながら多少葛藤ができる。 しかも石塚式ビクトリアリズムで行くので、陰影がなく、ライティングの工夫はなく無地の背景なしの予定である。ただSNS上の年賀状用にこれを使いたいが、その場合、陰影あり、正月らしい青空を背景にし、思いっきり下から広角レンズで、という写真ならではの構図で行きたい。私の写真の原点は、ブルーノートレーベルのジャケット、フランシス・ウルフの写真にアルフレッド・ライオンのデザインである。デザインというと未だにこれである。ライオンが特にジャズファンでも何でもなく興味がまるでない、というのが意外中の意外であった。



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一休  


朝味噌汁を沸かすついでにエリンギを2、3分。冷まして糠床へ。糠床の調子は上向きである。一にニンジン。二ごぼう、三エリンギ、四オクラ、五蕪 根菜をゴリゴリ食べようと思うと漬物しかない。そういう意味ではごぼうが一番だと思っていたが、今回赤味の強い種類が良かったのか、ニンジンがものすごく美味しく一番に。 一休宗純、ようやく乾燥まで持ってきた。放って置いても勝手に進んで行く、好きなことというものは努力の必要もなく、いや努力の自覚がないまま進むもの、と思い込んでいたから驚いた。まさかこのままという訳ではないだろうが、一休和尚には、よほどの快感を味合わせてもらわないと、このまま許す訳にはいかない。悪いのは一休ではなく私なのだが。 色々な意味で印象深い作品になりそうである。昔、作品を写真に撮るようになって、個展に向かっていた頃、人形を作るのと撮るのと、使う所が違い、相互が良いリズムを生み出す、と思ったことがあった。今回は仕上が手前まで作り飛ばしてみたが、仕上げて端から撮影して行った方が良いかもしれない。



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それにしても制作欲が薄れる、という私にだけは起きるはずがないことが起きた。原因が無呼吸症候群だというのが判っているから良いような物であるが、何だか不思議な心持ちであった、一休宗純の首という、私にとって第一級の大ご馳走を前にボンヤリしてしまった。異変としかいえず。師匠にお前病気だったのか!といわれた大乃国ではないが、自らには理由はわからない。クリニックで無呼吸を疑われなければ、と思うと怖い。私だけはターミネーターのように好きなことだけは完遂するようにインプットされて生まれた、と思っていた。 さすがの私も食事に気を付けるようになった竹竿持った一休。日曜中に乾燥まで持って行けるだろう。色々な意味で印象深い作品になりそうである。



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昨日の続きになるが、それにしても作りたくなったらせっかちに変身し、どうにも抑えが効かない私が、ご馳走を前に手を付けず平然としている。これは異変としかいいようがない。寝ている間に酸素が充分に行き渡っていない、とはこういうことなのか?横綱大乃国が無呼吸症候群で引退に至ったが、ついこの間のようだが、あの時点でこの病はあまり知られていなかった。当時無気力相撲だとかいわれていたが、横綱がそれでは、私ごときでは如何ともし難い。当時、師匠の放駒が「お前病気だったのか!」といったのを何かで読んだ。 写る所しか作らないのでとっくに形にしているはずの一休が、ようやく竹竿を握る左手を作った。さらに鉄拐仙人の首など放りっぱなしである。何でも早く出来上がりを見たい私が。やはりおかしい。状況的に最悪な状態であっても、制作さえしていれば笑っていられる私も、体調が全てに影響があることを生まれて初めて知った。



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糠床  


すでに芳香を放ち始めているが、かつてやっていたのとは香りが異なる。やはり隅田川のほとりながら、聖路加病院のそばのお陰で爆撃を免れた、母方の祖母伝来の糠を未だ保有している従姉妹に分けてもらいたい。 私は元々、駄菓子は発癌物質として禁止されたチクロ入りでないと語るには足らず、汚れずに生きようったってそうは行かない、というタイプであり、東京の下町育ちにありがちな、男が人前で美味いだ不味いだいうのは恥ずかしいことだ、というところがある。それに足腰がどうなろうと、肝心の手さえ思い通り動きさえすれば、どうなっても、なんて人間であったが、無呼吸症候群と診断され、私のようなタイプにありがちな、幼い頃から一度に2つのことが出来ず、集中力だけは一人前以上という取り柄が損なわれ、一日で済ますことが終わらない。さらにもう一つ、何時間モニターを見つめていても疲れない、という取り柄も、すでにどんな眼鏡レンズも役に立たないと眼科で診断されてしまう有様で、以後、生涯伊達眼鏡、ということになってしまった。相変わらず、やるべきことは上から自動的に降っては来るものの、肝心のそれを具体化、可視化する装置たる身体にようやく危機感を感じた。作りたい物が思ったように作れないならば、生きていても仕方がない。どんな手でも使おう、とまず考えたのが糠漬けである。今年になって腹の具合も芳しくなく、乳酸菌不足も感じる。 そこに来て、一休和尚の”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり”に出会った。私は昨日まで元気で働きトイレで死んでいた隣人同様、一日たりとも待つ気はない。



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竹竿に骸骨の『初烏』と連作になる『一休和尚酔臥図』は寝ている一休の傍らに門松を考えていたが、室町時代の門松は、現在とは全く違うようで、正確な所は判らない。本当のことなどどうでも良い、といいながら、こだわる部分はこだわらずにいられない所がある。幼稚園児の頃、台風の休園日に佃の渡し船の絵を描いていて、煙突のマークと同じものがある、と母が止めるのも聞かず、マンホールの東京都のマークを見に行った、あの頃、すでに私になっていた訳で、ほとんど生まれつきといってよく、従って父母には申し訳なくあるが、私には全く責任はない。年内に母のいるホームに行くつもりだが、一休の首を持って行くつもりでいる。おそらく母は、私がねだって大人向けの一休禅師を買ってもらい、熱心に読んでいた事を覚えているだろう。初烏というタイトルとカラスで正月感は充分である。門松は要らないだろう。



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やはり無呼吸症候群用の装置を着けずに寝ると、遅くまで起きていられず、一日が短くなってしまう。かつて寝床に本ををばら撒き、寝心地を悪くして睡眠時間を短くしてまで制作した。好きなことさえやっていれば何時間でも大人しく、と幼い頃からいわれていた集中力を発揮出来ない。睡眠時間を減らすことはすなわち自ら長生きをすることと同義だ、と考えていたのだが。ピストルに撃たれたように、といわれる寝付きだけは良い。装置を着けなければ、と思った時には既に遅かったりする。気をつけよう。     昨日思い付いた、一休の掲げる竹竿の髑髏に一匹のカラスがまとわりつく。初烏は正月のこと、なんて昨日は知ったかぶりして書いたが、実は思い付いた時、一月ごろカラスはどんな有様だろう、と正月、烏と検索してみたら、正月の季語であった。こういうことは制作に限り頻繁に起こる。制作以外ではまったく起きないどころか間の悪いことばかりである。警戒心の強いカラスの撮影場所は絶好の場所を知っている。そしてタイトルを『初烏』”門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし” と添えたい。



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初烏  


急遽竹竿に髑髏の一休を作ることにし、鉄拐仙人がまた再開出来ず。一休を作ってみると、なんで仙人を作ったのか?おそらく面白い話しだ、と虎渓三笑図を作ることにし、実在したが、正確な肖像は不明な、つまり創作可能の人物の頭部を作ってみて、味をしめ、さらに創作の余地のある仙人に手を出したのではなかったか?私の発想としてはこんな所だろう。全て今年の話なのに行き当たりばったりのせいで良くわからなくなっている。もし臨済義玄から一休宗純と進んでいれば、おそらく仙人には行かなかっただろう。しかし仙人は、長らく実在した人物を作って来た鬱屈?を晴らすには最適であった。実在者の場合、人物像が出来て、そこからは創作の余地が生まれるものの、頭部を作るまでは写真を参考に苦痛ばかりである。その点、仙人などという説話上の人物は毎日のように頭部ができていた。おかげでとくにカエル顔している必要がない蝦蟇仙人を粘土ベラが滑ってカエルじみた顔にしてしまった。 竹竿の先に髑髏を掲げる一休。その髑髏にカラスがまとわりついているのはどうか。初烏は元旦に鳴くカラスのことである。



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私が小学四年で読んだ一休禅師に載っていた肖像は、曽我蛇足の横目でジロリとこちらを見ている一休である。斜め45度向いた古来からの肖像画は、みんな前を向いているものであり、横目でこちらを見ている、なんて珍しい。蛇足は何故そうしたか、そこには理由があるはずである。小学生の私にとって伝記の内容以上に印象深く残っている。風狂の人一休と、面識のある蛇足ならではの表情であろう。 絵画と違って、立体をいったん作って撮影するメリットは、どの角度からでも撮れる所である。なので絵画や写真に残されていない表情を撮れる。有名なボードレイトが残っているほど、違う表情を選ぶべきだと、そうして来た。しかしそう考えて来た私にも、あの横目の表情は、髑髏を竹竿の先に掲げる人物にこれ以上相応しい表情はない、と思われる。



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『タウン誌深川』の原稿用に一休和尚酔臥図を撮影。ムシロを醤油で少々煮た所でバラけて来て青畳のまま。確かに畳が多少の事で汚れるようでは使い物にはならないだろう。原稿はモノクロなので、とりあえずは青畳でも構わない。そういえば、今思い出したが幼い頃、既に猟奇少年だった私は骸骨が好きで駄菓子屋の蓄光のおもちゃが大好きで、お隣の室内の絵を描いていて、火鉢も髑髏の模様を描いた。 髑髏を枕にする一休和尚。これなら伝記を読んだ小学四年の私も喜ぶだろう。このまま本来これだけ作るはずであった、竹竿に髑髏の一休像を作りたい。腰から上、写る所しか作らない。縦長画面に無駄に長い竹竿のバージョンも思い付いた。先端にちょこんと乗るしゃれこうべ。



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先日クリニックで、無呼吸症候群用の装置を、ほぼ半月しか装着していないことがわかった。データが届いている。無呼吸は自覚がなく、普通に寝て普通に起きていると思い込んでいるところが怖い。そういえば最近寝るのが早かった、と言いながら、昨晩も付けるのを忘れて、いつものように、ピストルに撃たれたかのように寝てしまった。     久しぶりに糠漬けを再開しようとヤフオクで蓋付きの甕を落札。懐かしいホーロー製も考えたが陶製にした。ブログには都合の悪いことは書かないが、熱帯魚と糠床はそーっとフェイドアウトした前科がある。熱帯魚は、人口的に作り出された魚種で、遺伝的に無理があるのか、何度やっても30センチを超えた辺りで死なれた、と遺伝のせいにしている。糠床は、母方の祖母伝来の糠をいとこに分けてもらい、続けていたのだが、冷蔵庫を使わなかったこともあり、個展の準備にかまけて、開けた時には干からびていた。しかし今は一人住まいには不相応に大きな冷蔵庫なので甕も入る。先日、硬めの根菜をボリボリやっているイメージが浮かび、また子供の頃から苦手な酸味が、多少欲しくなった。



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一休が酔って寝転がる『一休和尚酔臥図』は布にくるまっているが何しろ京都の正月である。それに室内ではなく屋外感を出すためにもムシロもまとわせたい。ミニチュアの畳を鍋で煮ていたら、かなりバラけてしまった。そういえば永井荷風独居図の時の畳は縁が付いていたのでいくら煮込んでも崩れなかった。すんでの所で。 それにしても小学四年で読んで感銘を受けた一休を今頃作ることになるとは。最近のモチーフを手掛けるようになり、何だか一周回って元に戻ったような妙な感じがしている。 私は制作に関して、感心されるくらいなら呆れられたい、というところがあり、そう思うと作家シリーズでは三島由紀夫以上に呆れてもらえるモチーフはなかっただろう、と骸骨を枕にしている一休和尚にレンズを向けながら。

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