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敗戦記念日

2007-08-15 18:10:34 | インポート

1945年、昭和20年8月15日、敗戦。よく晴れた真夏の暑い一日だったと言われている。しかし、国民学校(小学校2年生であった私には8月15日の確たる記憶がない。きっとその日も海に遊びに行っていたのだろう。毎日、晴れても降っても、海に泳ぎに出かけていたから。 ただ毎晩電灯に黒い布をかぶせていたのだが、母がもうその必要がないと言って布をはずした。「電気って明るいんだねぇ」と感嘆したのは覚えている。きっとその日が8月15日だったのだろう。

8月15日から一月弱前の7月22日、いつものように妹と海で遊んでいて、いきなり低空飛行してきた戦闘機、グラマンから機銃掃射を受けた。機内の人影も見えた。警戒警報も鳴らなかったし、初めは飛んできたのは日本の軍用機だとおもって手を降ろうとしたくらいだ。

キーンと岩に当たって跳ね返る銃弾の音、プシュプシュと海の水面を切る音、「危ない、逃げるんだ」と近くにいたオジサンは水中に飛び込んだ。私達もあわてて逃げた。夢中だったので、小さなマンホールに妹といっしょに落ちた。これが幸いした。マンホールの中でも岩に当たるキーンと言う音、プシュプシュと言う音は聞こえていた。程なくグラマンは飛び去った。
二人とも怖かったのだろう、声も立てなかった。私達の怖い記憶はここまで。

その後、熱海市史を読んで、この2機の飛行機が、私達を銃撃した後、熱海から4kmはなれた初島の沖で、漁をしていた漁船を襲い、22名もの死者を出していたことがわかった。そしてさらに、この襲撃を真鶴で見ていた石船が、救助に向い血だらけの漁船を引いて帰ったのが真鶴港であった。港に入った血だらけの漁船をPapasanたちは見ている。

この時の石船に乗っていたのが、Kさん(故人)だった。このKさんから銃撃されて脳みそが飛び出した人の介護をしたという話は聞いていたが、一連の事件には結びつかなかった。この事実を知ったのは、そのKさんがなくなってからのことだった。だんだん、この事件の目撃者は、目撃した場所は違うが、私が知っているだけでも増えてきた。それでもこの2機の飛行機がどこから来てどこへ行ったのかはわかっていない。調べてもらってはいるのだが。

敗戦の前日の14日、小田原は空襲にあって焼け野原になった。戦争が終わることは日米どちらも承知していただろうに。 前日に焼け出されたのだ。なんとも理に合わない。



そして8月15日は我が家ではラッキーの満一歳の誕生日。

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