Cogito

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私と日本酒7

2006-04-02 12:48:24 | 日本酒

試飲販売は八潮だった。八潮が来るのは待っていた。なにかでこの週、日本橋高島屋で出張販売すると言うのを見た。八潮に正確な日をメールで問い合わせたのだが、返事がなかった。そこで高島屋の酒売り場に問い合わせたのだった。

お目当ては「水耕一貫」。いつも愛飲している「純米大吟醸」や「重蔵」は高島屋で買えるけど、「水耕一貫」はおいてないので出張販売のときしか買えない。八潮のホームページの商品には「重蔵」やこれは載っていないのだ。

「こんにちは~」と声をかけるとNさんと顔なじみになった八潮の常務がにこやかに迎えてくれた。ところがである。私達より少し前に来た客が「水耕一貫」を全部買って行ってしまったというのである。どうもお馴染みさんらしい。今日届くから、とNさんが見に行ってくれたが、まだ届いていなかった。でも、明日は来れないし、とあきらめる。次は11月、案内状を差し上げますと常務さん。メールを送ったけど返事が来なかった、今日来ているのが分かっているから八潮の在庫はあげてしまった、webの商品に「重蔵」がなぜないのか、なんて勝手なことを言いながら、いろいろ試飲して、いつものものだけど「重蔵」と「純米大吟醸」「山陰大黒」「にごり酒」などを買ってきた。「にごり酒」は飲んだが、あとのはまだ開けていない。冷蔵庫の「重蔵」はまだ残っている。ここんところ「どぶろく」を飲んでいるので。

と、八潮から荷物が届いた。なんだろうと思いながら開けると、酒かすと瓜の粕漬けが入っていた。メールの返事を出さなかったことや、水耕一貫を切らしてしまったことの詫び、そしてこれからも愛飲くださるようにとの挨拶だった。おやまぁ常務さん、気を使ってくれたんだ。さっそく連れ合いがお礼の電話をした。この粕漬けは以前買って食べたことがある。私は粕漬けはあまり好みではない。連れ合いは大好物なので大喜び。

うふ、蔵元の知り合いがまたふえちゃった。

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かたづけ

2006-04-01 20:47:12 | 日記・エッセイ・コラム

今日から四月なんだ。エイプリル・フールなんて言葉忘れてた。

この間から本棚の片づけをしている。なんせ本の数が多いから、なかなか片付かない。本は万を越えているだろう。文庫本や新書は処分してもいいのではないかというのだが、いつでも捨てられると、連れ合いはなかなかうんと言わない。仕方がないので、文庫用と新書用の袋になった収納ケースを60ケ買った。たぶん足りないだろうがとりあえず。

先日は新書を詰めた。まだまだ残っているが、今日は文庫を入れた。分類して入れればいいのだが、面倒だ、手当たりしだい片っ端から入れてしまった。哲学もミステリーも文芸も科学も全部ごっちゃ混ぜである。一巻がここ、2巻があっち。そんなことお構いなしである。

ウチには司書の資格がある人がいる。そこで紺屋の白袴だとの皮肉を込めて「司書さん」と呼んでいる。その司書がやたらと本を買ってきては読み、手近な棚に突っ込むから、本棚は本が二重に並び、後の本は日の目を見ることがない。だから買った覚えはあるんだが、どこにあるのか、と言ったことが起こる。家が本につぶされる!オーバーな言いかただが、実際本の重みで床が下がってしまったことがある。いやいやまたさがっているかもしれない。司書の分類を待っていては死ぬまで片付かない。で、お構いなしを始めたのだ。本の片づけがいやなら、読んだら処分していけばいいのだが。

私は読んだ本をそれほどとっておこうという気はない。おもしろければ人に勧めてあげてしまう方である。必要なときには、本のどこに載っていたか覚えているから、その本を探せばいい。ところが連れ合いは本は傍に置いておきたいらしい。

連れ合いは学生時代、東京から帰ってくると家が全焼してしまっていて、大事にしていた蔵書を失ってしまった経験があるので、本にはひとしおの想いがあるようだ。その気持ちは分からないわけではないが、新書や文庫本までねぇ。絶版本ならいざ知らず。

そういえば、「屋根裏の哲人」って絶版の文庫を持っていたっけな。この本を探していたら、経堂の古本屋で見つけた。小躍りする思いで買った。たしか40円だった。この本、どこにあるかな、これはとっておいたと思うけど。

学生時代、お金がないこともあったが、なんてったって文庫本は簡便だから愛用していた。毎日のように帰りに一冊買う。帰りの電車で読んでいくのである。2時間半、電車は格好の書斎であった。何巻も続いている本は、1冊1冊読み終わると次を買う。これが楽しみだった。そんなことで、長編は、読み終わらないうちに、新訳になったり、絶版になったこともあった。新訳になって旧訳が絶版になったものに「魔の山」があった。旧訳は6巻だったろうか。新訳は厚くなって4巻だったような。仕方がないので、途中から新訳に変えた。ところが登場人物のカタカナが変わったら、私の中でイメージが変わってしまった。例えばセウシャ夫人がショウシャ夫人になると、同一人物にならないのだ。仕方がなく、旧訳を探した。古本屋に全部揃っていたのを5,6巻だけはずしてもらって買ってきた。割り高にはなったけれども。「緑のハイリンヒ」も絶版になった。これは仕方がないので、全集本を買った。ところが買った本が乱丁本だった。出版社に送って取り替えてもらった。しかし、今度は持ち歩くには重いし、4段組で読みずらかった。

そうそう、片づけをしていたら、ボロボロの文庫本が出てきた。ボロボロは捨てることにした。そのちぎれたページを見ると、なつかしい書きだしが読み取れた。「幸せな家庭は・・」そう、アンナ・カレーニナの冒頭である。あ~、これは中学一年生のお正月、晴れ着姿で本屋に行き、お年玉で自分で選んで買った文庫本第一号である。「ボロのアンナ・カレーニナが出てきた」と叫ぶと「だれの訳?」って聞かれたが、表紙も内表紙もないのでだれの訳だかわからない。たぶん米川正夫さんではなかったろうか。 思い入れはあったとしても、こんなにボロになっては。ごめんよ、とゴミ袋につっこんだ。ちょっと胸が痛んだ。アンナ・カレーニナはもう一冊他の訳があった。

おそらく、このケースに詰め込まれた本たちは今後整理されることはないだろうなぁ。

我が家の半分は不用品だよ、割り切って、贅肉を落とさなくっちゃ。

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