石原慎太郎にオリンピックを語る資格があるのか

2006-07-03 06:22:39 | Weblog

 東京か福岡か

 2016年のオリンピック開催都市立候補を目指す東京都と福岡市が日本オリンピック協会(JOC)に「開催概要計画書」を提出したという(06.6.30)。

 石原慎太郎は次のように言っている。「日本に招致するならば、キャパシティーとして東京しかない」(06.7.1.『朝日』朝刊)、「国際社会にアピールするという意味から東京でしょう」(同記事)

 例え事実その通りであったとしても、あるいは都の担当者が言うように「宿泊施設、空港の規模、交通網の充実など都市能力の差は際立っている」(同記事)としても、また財政面で東京が遥かに優位な位置につけていたとしても、国内的な価値の面から、過度なまでに東京一極集中が進む中、それを軌道修正して地方シフトを示すシンボル的アピール材として福岡開催へと持っていくべきという考えがあってもいいのではないだろうか。

 東京が例え2016年開催都市に選考されなかったとしても、国内候補都市決定と言うことになっただけで、09年9月のIOC総会で開催都市が決定するまでの期間、オリンピックその他に関わるモノ・ヒト・情報がますます東京に一極集中し、独占することとなる。

 石原慎太郎の言う〝国際社会へのアピール〟と同じ観点から、外国の人間は東京は知っているが、福岡は知らないから、東京開催とすべきだいったバカげた意見があるが、夏のアトランタ、冬のソルトレークを知っていた日本人がどれほどいただろうか。開催都市へと立候補、あるいは開催都市に決定することで、その存在が知られるケースもある。未知数から入って既知へと進む情報の新たな1ページを刻む過程は新鮮さや驚きを与えることもしばしばで、得がたい情報経験ともなる。日本に福岡ありを示すのも、価値あることではないだろうか。

 逆説するなら、東京の国際的知名度の高さが逆に世界の人間に付け加えるべき新たな情報を福岡と比較した場合、一定範囲にとどめないこともないとも言える。東京よりも福岡の方が意外性を与える余地があるということである。えっ、フクオカに決定?フクオカって、日本のどこにあるんだ、どんな都市なんだと驚かせるだけでも面白いことではないだろうか。

 最近のオリンピック開催の目的が国の観点からは国威発揚、国力証明、国際社会一員証明、国際的地位要求、国際社会へのアピール、あるいは国内的な経済波及効果といったいずれかの方向のものとなっているが、東京にしても福岡にしても、国際社会へのアピールと同時に経済波及効果を主たる狙いとしているものであろう。

 オリンピック開催のより基本的な立場も忘れてはならないはずで、オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」に書いてある次のような精神をも常に留意項目としておくべきではないだろうか。

 ・スポーツを行なうことは人権の一つである。各個人はス
  ポーツを行う機会を与えられなけばならない。
 ・人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個
  人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムー
  ブメントに属する事とは相容れない。

 以上の精神に留意するとしたなら、開催都市を目指している東京都知事の石原新太郎は数年前の新聞寄稿記事で、日本国内で多発した中国人犯罪に対して「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延する」という表現で犯罪に「民族的DNA」が現れるとする、いわば犯罪の〝民族的DNA起因説〟をぶち上げたが、犯罪が民族性を原因として起こるとするそのような主義主張・精神は「オリンピズムの根本原則」に示されている〝人種に基づく差別〟に抵触することとなって、開催都市を目指す指揮官としての資格を失うことにならないだろうか。

 また2001年10月23日の「少子社会と東京の未来の福祉」会議席上でのいわゆる「ババア発言」にしても、〝性別に基づく差別〟に抵触する精神の持ち主ということになり、「オリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない」行為ということになって、オリンピックを語る資格さえないということにならないだろうか。

 「生殖能力」の有無のみで男女を価値づける「ババア発言」の参考掲載。

 「これは僕が言っているんじゃなくて、松井孝典(東大教授)が言っているんだけど、文明がもたらした最も悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です、って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって・・・・。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね」

 我々は年老いた女性からでも、無駄に生きた女性でなければ、その女性が生き経験した事柄と、そこから学んだ知恵を受け継ぐことが多々ある。無駄に生きた男が一人として存在しないというわけではない。逆にゴマンといるはずである。私自身は無駄に生きた人間だが。尤も無駄に生きた男女からでも、反面教師として学ぶ点がないことはないとも言えるが。

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