母子3人放火殺人/我慢力と権利の行使

2006-07-07 18:41:06 | Weblog

 奈良県で私立高校1年の長男(16)が自宅を放火し母子3人を死亡させた放火殺人事件(06年6月20日)のテレビ報道で、教育評論家だかが「父親が子に対して強すぎる関係にあった」ことと、最近の類似事件多発化の傾向に関して「子どもの我慢する力が弱くなってきている」ことが背景となっていることを挙げていた。  

 言っていることを裏返すと、以前は(よく使われる言葉で、〝昔は〟)子どもに「我慢する力があった」、あるいは子どもは「我慢する力を持っていた」ということになる。 「我慢する力」は何年前頃から使われ出したのか、「我慢力」という言葉で表現されているらしい。

 各種報道から事件の経緯を見てみると、医師である父親(47)が長男も医師の職業に就かせようとして学校の成績にうるさく、成績が悪いと、ときには殴ったらしい。長男は中間試験で下がった英語の成績のことで叱られるのを恐れて「できた」とウソをついてその場を取り繕ったが、保護者会で中間試験の成績が報告されることからウソの発覚を恐れて、それが犯行への直接的キッカケとなった可能性が高いと報じている。

 長男が通っていた私立校の校長は事件後、「中間試験の英語は、中学3年の最後の試験に比べ少し悪かったが、気にするほどの落ち込みではない」と話しているとのことだが、にも関わらずウソをついたのは父親が「気にするほどの落ち込み」ではなくても許さないほどに成績には厳しかったということを示している。成績が常に上がることを求めて、少しでも下がることを許さなかった状況を背景としていたと受け取れる。

 そのことは父親が勉強部屋を〝ICU〟(集中治療室)と呼び、夜中まで付ききりで長男に勉強を教えていたということからも窺える。成績を病気に見立てて、医師である父親が自ら成績治療に当たっていた〝ICU〟(集中治療室)だった。それも戦前の日本の軍隊が下級兵士や新兵訓練に精神を叩き込むと称して〝精神棒〟と名づけた警棒様の棒で殴ったり叩いたり、小突いたりして天皇の兵士に改造していったように、父親は成績の低下や覚えの悪さ、間違いの懲らしめに殴るなどの暴力を用いて成績優秀な息子へ改造しようとしたのだろう。長男が怪我をして登校してくることもあったということだから、父親の暴力は生半可以上のものがあったことを証明している。

 下級兵士は上官の暴力的訓練を含めた軍隊活動の過酷さに耐え、我慢した。「陛下のため・お国のため」を双方とも絶対信仰と〝納得〟した無考え・無条件の従属が生み出した忍耐・我慢ではあった。彼らの「我慢力」は並みのものではなかったろう。〝昔〟の日本人は「我慢する力が」強かったと言える。

 ネットで調べた7月1日(06年)付けの読売新聞によると、「2年前、当時の担任教師が家庭訪問した際、両親と長男本人の計4人で面談。長男は担任教師から『何か言いたいことは』と尋ねられると、父親の面前で『殴るのを辞めさせて欲しい』『塾をやめさせて欲しい』などと訴えたという」と出ていた。いわば一度は自己権利の主張を行っている。

 「2年前」とは中学2年のときのことで、それ以降も父親の暴力が続き(取調べに対して「父親から成績で強く叱られた。暴力も受けた」)、事件が起きたと言うことは担任は有効な対応策を何も施さず、長男の権利主張に応えることができなかったことを示している。すべての授業をその担任一人で行っているなら、長男の日々の様子を一部始終把握可能だが、そうでないなら、他の授業担当の教師とも情報を共有するために学校に報告しておくべき事例であるし、協同して経過を見守るべき事柄であったが、いずれも行わなかったのだろう。単に話を聞いて、父親に「いけませんね、暴力は」程度の注意を形式的に与えただけで終わりにしてしまったのだろうか。

 あるいは父親が医師と言うことで、アハハハと笑って、「まさかお父さんがそんなことはしないだろう」と取り合わなかった可能性も考えられる。そうだとしたら、長男の要望(=権利主張)に父親が内心慌てただろうし、それが長男に対する怒りと共に顔に現れもしただろうが、鈍感にも気づかなかったことになる。

 担任が長男の権利主張に応えるべく何らかの手を打っていたが、すべて役に立たなかったということなら、何もしなかったことと同じことになって、なお始末に悪い。長男が通っていたのが中高一貫校なのだから、当然のこととして長男が高校部に進んだとき、担任は高校側に家庭訪問時に得た情報を上げるべきだが、上げたのか上げなかったのか。教頭も同席した記者会見での校長の「深刻なトラブルは認識していなかった。家庭内での問題も聞いていない。いい状態にあると考えていたので非常にショックだ」の話が事実なら、いわば責任逃れの弁解・ウソの類でないなら(そういったことが間々あるから、わざわざ断らなければならない)、そのことすら行っていなかった証明となる。

 それとも校長は責任逃れの偽証を行ったのだろうか。どちらであっても、長男が辿ることとなった母子3人放火殺人者への道を変える力にはならなかった。

 担任が何らかの有効な手を打ち、長男の権利主張に応えていたなら、長男にとって人生の重要な転換点となっていたかもしれない。しかし長男の要望・権利主張は叶うことはなかった。

 父親(47)が「責任を痛感している。接し方が根本的に間違っていた」と長男の弁護人に話したということだが、何ら力とはならなかった担任・学校と事件が起きてから気づいた父親。両者共、本質的には長男とは他者の関係を築き合う存在でしかなかった。他者の関係を築いていたばかりか、何重にも間接的にだが、お互いが長男を母子3人放火殺人の加害者に仕立てる加害の役割を担いもした。

 こういった親子関係、学校との関係を見た場合、「我慢する力が弱くなってきている」ことが最近の子どもたちの一般的傾向ではあっても、事件を起こした長男に関しては単純に当てはめてもいい犯罪背景ということにはならないのではないだろうか。

 大体が父親に成績の変化、覚えの良し悪しの一々について殴られるという事態に対して求めることができる「我慢」とはどんな我慢だろうか。戦前の帝国軍隊の上官にとってはその暴力的なしごきや過酷な軍隊活動に対して新兵を含めた下級兵士に正当なものとして要求し得た忍耐・我慢ではあったろうが、長男には果たして正当なものとして要求し得る忍耐・我慢と言えるだろうか。

 教育評論家だかの主張に即して事件の引き金となった心理的な背景を考えるとすると、初期的には長男の成績に対する父親の「強すぎる関係」からの暴力的対応に「我慢する力」が長男には不足していたと言うことになる。

 二次的には、父親との関係から生じた父親本人に対する憎しみや継母に対する確執からの放火殺意を制御するに足る「我慢する力が弱」かったということである。

 長男がそのような〝我慢〟を達成して医学部入学を果たし、医者となったとしても、自分の子どもにも同じことの繰返しとして再生産される〝暴力〟であり、それに対する〝我慢〟要求とならないだろうか。なぜなら自らの側からも正当性を与えた〝暴力〟であり、〝我慢〟となるからである。戦前の日本の軍隊の下級兵士や新兵たちは上官の暴力的なしごきにある意味正当性を与えていたから、自らが上官となると、新たに入隊した新兵や後輩に対して、正当な訓練行為として同じ暴力的しごきを繰返すことができたのであろう。今なお一部の部活に先輩から後輩に受け継がれ残存している体罰も、同じ構造を持った反復・連鎖としてあるものだろう。

 「子どもの我慢する力が弱くなってきている」、そうあってはならないと長男に〝我慢〟を求めるとしたら、その段階で既に〝我慢〟は目的と化して、医学部入学・医師就業が〝我慢〟によって達成される結果という逆転のプロセスを踏ませることになる。

 何らかの我慢大会といったことなら話は別だが、〝我慢〟は目的ではなく、欲する目的を達成したり、コントロールするためのあくまでも付随させるべき〝精神行為〟(心の持ち方)を言うのであって、そのように相互的呼応関係にある以上、〝我慢〟は主体的意思からの発動であることを条件としなければならない。そうではなく、受動的、あるいは従属的〝我慢〟であったなら、目的行為自体も受動・従属の支配を受けた非自発的な内容のものとなる。

 例えば運動競技者に過酷な長距離のランニングを課す。それは「我慢する力」を養うことを目的としたものではなく、足腰の強化とか、スタミナ増強とかを目的とした訓練であって、それに耐える〝我慢〟は目的達成のために付随させる〝精神行為〟(心の持ち方)に過ぎない。と同時に、例えそれがコーチからの指示で行うトレーニングであっても、自分自身が納得して自ら進んで行うトレーニングであったなら、そこに主体的意思が働き、トレーニングに耐える〝我慢〟も主体的発動からの〝精神行為〟(心の持ち方)であることを獲得することができる。

 それが逆に練習がたるんでいるといったことからの懲罰として与えられた納得できないままに行う受動的、あるいは従属的な性格の厭々ながらのランニングであったなら、そのことに呼応して、付随させるべき〝我慢〟も厭々な受動的、あるいは従属的性格を帯びることとなる。

 いわば目的行為が本人以外の人間の指示からのものであっても、本人の納得を経た行為であるなら、行為自体は主体性を獲得し、目的達成のための「我慢する力」も主体的であることを獲得することができる。

 となれば医者となることが父親の望みであったとしても、長男の父親の指導を受けた医者となるための過酷な勉強が本人の〝納得〟というプロセスを経た勉強であるなら、父親の行き過ぎた暴力であっても、戦前の日本の軍隊の上官が強いた過酷な軍隊活動を下級兵士側が相互的な絶対信仰としていた「陛下のため・お国のため」を〝納得〟成分として〝我慢〟し得たように、時代の違いを考慮に入れたとしても、長男もかなりの部分我慢できたのではないだろうか。

 現実には断るまでもなく、中学2年のときの担任の家庭訪問時に「父親の面前で『殴るのを辞めさせて欲しい』『塾をやめさせて欲しい』などと訴えた」のだから、長男にとっては医者になるためを絶対信仰とさせることができないままに〝我慢〟は納得できない正当性なき性格のものとなっていた。

 戦前の日本の軍隊の下級兵士たちの上官の暴力的なしごきや軍隊活動の過酷さに対する「我慢する力」は少なくとも表面的には納得の上で発揮した精神行為であろうが、捕虜となるに及んで、いとも簡単に脆さを露呈する。

 『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトは日本の「俘虜たちは彼らの現地指揮官、特に部下の兵士たちと危険と苦難とを共にしなかった連中を、口をきわめて罵った。彼らは特に、最後まで戦っている令下部隊を置去りにして、飛行機で引きあげていった指揮官たちを非難した。(中略)
 ところが天皇だけは批判を免れた。天皇の最高至上の地位はごく近年のものであるにもかかわらず、どうしてこんなことがおきうるのであろうか」と述べて、下級兵士の天皇と国に対する絶対信仰を通した上官に対する無考え・無条件の従属(=我慢の直接的対象)の崩壊を伝えている。

 上官たちが後生大事な念仏のように唱えていた「陛下のため・国のため」が実際は〝自分のため〟だったとメッキが剥がれたのである、意味もない〝我慢〟と思い知ったのではないだろうか。思い知ることがなかったとしたら、その無考え・無条件性は計り知れないものとなる。

尤も思い知ったのは上官たちに対する〝我慢〟の無意味さだけで、「天皇だけは批判を免れた」と、天皇に対して揺るぐことのなかった絶対信仰と上官に対する「口をきわめ」た「罵」りとの差異がベネディクトを驚かせている。

 そのようなことが何を原因として起きているのかはベネディクトは触れていないようだが、日本人の行動・思考様式となっている権威主義意識及び日本人に共通する客観性の欠如に起因しているのは言うまでもない。

 権威主義は上と下の序列があって初めて従わせ・従う関係式が成り立つのは断るまでもない。当然序列の一方を欠いた場合、権威主義は成立しない。自己の所属社会である軍隊の上官・指揮官の類に対して従わせる資格はないと否定し、従う価値なしと断罪することで排除した一方の序列をさらに上に位置する最高の上位権威者である天皇へと一本化することによって自分たちの権威主義の行動・思考様式を補填させたことからのこれまで以上に関係意識を過剰に濃密化させた天皇への絶対信仰だったのではないだろうか。

 そのような構図を可能としたまず第一の状況は、自分たちが「俘虜」となることで従わせ・従う関係式を成り立たせていた一方の従わせる側の上官・指揮官の類から距離を置いた位置に立つことができたからであろう。そのことによって、従う関係を免れることができ、「口をきわめて罵」ることができた。面と向かっては上司の言うことのすべてにペコペコと言いなりになるが、陰に回っては上司の悪口を言う部下と同じ図柄である。

 もし捕虜とならずに上官・指揮官の類と上下関係に縛られた状態にあったなら、彼らが従わせる資格を失っていると見なしていたとしても、「口をきわめて罵」りたい思いは内心にとどめて、逃げることも異議申し立てもできずに言いなりに従う面従腹背の関係を続けたことだろう。

 権威主義は構造上、従わせ・従う関係に阻害要因となる不服や背反の要素は異物として最初から予定に組まれていないために、意に反して従う行為を成り立たせなければならない場合は不服・背反意識を押し殺して面従腹背の形を否応もなしに取ることとなる。

 このような権威主義を下地材として軍隊の絶対服従が成り立っているのは言うまでもない。例え国の法律に国民の権利が規定されていなくても、人間は生まれながらに権利意識を持っているから、厳密な意味での絶対服従など存在しないにも関わらず成り立たせるにはそこに何らかの無理(=非合理性)を抱えていたとしても不思議はない。

 母子3人放火殺人の長男の父親に対する従属も同じ線上にあったと見るべきだろう。軍隊に於いては従う者たちの〝我慢〟の意識は、例えそれが面従腹背を内容としたものであっても、破綻なく十分に働いていただろうが、表向きは「陛下のため・お国のため」の絶対信仰をタテマエとして成り立たせていたものの、上官・指揮官の類に対する直接的な関係にあっては〝納得〟のプロセスが排除・無視された無破綻性でしかないということになる。

 「俘虜」たちの上官・指揮官に対する「口をきわめて罵」る態度はゆえに「俘虜」になってから外に現れた態度であるものの、可能性としては「俘虜」になる以前の上官・指揮官に従っている間から面従腹背の形で内心に抱えていた〝罵倒〟であったことも十分に考えられる。

 上官・指揮官の類に対する態度と天皇に対する態度の差異をつくり出していた第二の理由は、自己行為を天皇陛下のための行為とすることによって価値を高める一種の栄光欲からの天皇に対する本来からあった親近性(尊崇)に加えて、上官・指揮官の類を身近に観察する機会が彼らの実像(=彼らの現実の姿)を否応もなしに知らしめたのに反して、天皇に対しては雲の上の存在ゆえに身近に観察する機会のないことが親近性を壊すことなく天皇の実像(=天皇の現実の姿)とすることができたことと、上官・指揮官の類に対する嫌悪・軽蔑の反動が上官・指揮官の姿とは異なる、そうあってほしいという願望と合わさって、天皇に対する美しい像(非現実の姿)を代理的に充足させた結果の天皇への親近感・絶対信仰の高揚だったのではないだろうか。

 そしてそのような姿を取らせるに至った資質を問うとしたら、客観的認識能力の欠如以外にはない。『菊と刀』は「陛下は終始自由主義者であって、戦争に反対しておられた」とか「陛下は東條に騙されたのだ」とか言って「俘虜」たちが天皇の無誤謬性を訴える場面を描いているが、「戦争に反対」していながら、なぜ開戦に至ったのか、現人神でありながら、なぜ「騙され」たのかといった合理的思考を働かせるだけの客観性を持ち得ない姿を曝しているに過ぎない。

 尤も〝現人神〟なる産物自体も日本人が幸いにも客観性を欠如させていたからこそつくり出せたカラクリではある。

 天皇は統帥権を握っていたのである。大日本帝国憲法第一章第十一条に「天皇は陸海軍を統帥す」と明記してある。戦前の天皇は帝国軍隊を支配下に置き率いる統帥権を自らの大権(旧憲法下で帝国議会の参与を経ずに行使される天皇の権限の一つ)としていた。そのような天皇の戦争反対の意思が無視された統帥能力の不手際、あるいは「東條に騙され」る聡明さとは正反対の天皇にはあってはならない蒙昧さをこそ問題とすべきであるのに、問題とすることができない自らの蒙昧さは客観的認識能力の欠如を養分としなければ現れない資質であろう。

 当然のことだが、天皇の身近にいて天皇の姿を見ている者には天皇の実像に気づいていた。国民には実像を知らせず、美しい姿と思わせるためには国民と天皇を離しておくことであった。

 HP「国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い25~37近衛新体制」に「自決前(昭和20年12月)に令息に与えたとされる」近衛文麿の言葉として次のような件がある。

「統帥権の問題は政府に全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑えうるものは、陛下ただお一人である。しかるに陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には障碍が起こり得る場合なしとしない。
 英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進みえないことを、今度の日米交渉(昭和16年)においてことに痛感した。」

 「陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけ」という件は、現在の皇室の国民に対する姿を髣髴させ、統帥者であるにも関わらず、戦前から既に主たる役目としていたことが窺える。

 また同じHPに「沢田茂(米内内閣倒閣運動を首謀、参謀本部次長)」の言葉として、「大正の末期になると事情は全く変化し、天皇の国軍親率(しんそつ=自ら率いること)は全く形骸化した。それは畏れながら(昭和)天皇のご資性が国軍親率に適しなかった。軍の実権は天皇御親率の名のもとに、軍首脳部に帰した。
 天皇親率制を実際に具現するためには、天皇がさらに軍隊に親炙(シンシャ=その人に近づいて、その感化を受けること)接近されるべきであり、また親補職以上の人事は御自ら掌握遊ばさるべきであったと思う。」

 彼らは天皇の身近に位置していたから、天皇の実像(=天皇の現実の姿)を知り得た。 HPの著者も「天皇が反対の開戦案をなんとかゴーサインを出させてしまう政治体制とその実行担当者に問題があったのだ」と『菊と刀』が描く「俘虜」と似たような考えを示して〝天皇無罪説〟を唱えているが、戦前の日本の権力構造を文字通り解釈するとしたら、その設定上、天皇は絶対でなければならなかったにも関わらず、そのことに反する国民が与り知らなかった非絶対性は天皇自身も関与して維持していた明治維新期からあった権力の二重構造がなさしめた当然の帰結でもあり、その帰結に天皇は名目的立場から常に一枚噛んでいたのである。言ってみれば、起こるべくして起きた何の不思議もない歴史の一場面ずつであった。明治維新自体が天皇自らが起こした政変ではなく、将軍に対抗する地位を担う者として薩長軍に担がれて主役を演じたに過ぎない。現実は薩長軍が天皇の上に位置してすべてを取り仕切っていた二重構造となっていたのである。

 現人神と設定された関係から、人間の姿を取った神を演じながら、自分が神でないことを一番知っていたのは天皇自身だったろう。それが国民統治のための仮構・虚構の類に過ぎないと弁えずに自身を現人神だと信じたとしたら、その客観性は話にもならない。

 いずれにしても既に指摘したように従う側の〝納得〟のプロセスが存在しないままに兵士は下を従わせる資格もない上官・指揮官の類にも面従腹背の〝我慢〟で以て従ってきた。そのことが母子3人放火殺人の長男と父親との関係にも当てはまる構図でもあることから、「我慢する力が弱くなってきている」といったことが問題ではなく、〝納得〟のプロセスが存在しないことを間違いとしなければならない。

 承服し難い事柄に無考え・無条件に従わなければならない場合は、上によって下の権利は抑圧され、自らも抑圧する〝我慢〟しか生まれないが、そのような抑圧を排除して自己の権利が正当に発揮可能な〝納得〟の獲得は議論(=対話)から生まれる。議論(=対話)とその成果である自発的な〝納得〟意識は自他の権利を承認するプロセスを並行させるからである。

 「父親から成績で強く叱られた。暴力も受けた」ことに当然なことではあるが、長男は納得していなかった。父親の権利に対する不承認と自己の権利に対する抑圧意識を抱えて〝我慢〟を自らに強いていた。その〝我慢〟が破綻して、事件が発生した。

 長男が中学2年の家庭訪問のときに担任に「殴るのを辞めさせて欲しい」、「塾をやめさせて欲しい」と訴えた自己権利の主張を担任その他の者の力を借りて引き続いて行い、その力添えで議論(=対話)を通じて父親との関係が〝納得〟いくものとなっていたなら、当たり前のことながら、事件は起こらなかっただろう。

 だがそのような方向には進まずに、母子3人放火殺人という間違った権利行使の方向に進んでしまった。となると、やはり〝我慢力〟といった問題ではなく、自発的な〝納得〟意識の獲得を前提とした正しい権利行使の方法を学ぶことから始めるしかないのではないだろうか。

 日本では学校に於いても家庭に於いても正しい権利行使の教育は存在しない。それは日本が権威主義を行動・思考様式とした権威主義社会となっているからである。上が下を従わせ、下が上に従う権威主義関係は基本的に議論(=対話)のプロセスを排除することによって成立する関係式だからである。学校の暗記教育がその典型であり、象徴的な構造となっている。

 また、一見して「我慢する力が弱っている」ように見える状況は、時代的な権利意識の影響を受けて自己権利を主張する場面が多く生じたことによって、その分〝我慢〟一方ではなくなった各自の姿勢がそう見させているといったことではないだろうか。

 自己権利意識のなかった時代は、例えそれが権利侵害に当たったとしても、〝我慢〟だけで済んだ。日本人の行動・思考様式となっている権威主義が求める上に従う〝我慢〟と時代的な権利意識からの自己権利の主張・行使のハザマで正当な権利行使の方法も知らず、若者は揺れている。揺れた果てに間違った方向に進んでしまった権利行使が母子3人放火殺人事件となって現れた。そう把えるべきではないだろうか。

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