国庫(税金)の使い回しだけで済ますのか
ドミニカ移民訴訟問題で東京地裁は政府の不法行為を認める判決を出したものの、原告の損害賠償請求を〝除斥〟を理由に棄却し、国の勝訴とした。原告側は直ちに控訴したが、「国の違法」との指摘を受けて、政府が原告団に謝罪、損害賠償請求に対する「請求権消滅」判決の代わりに50万円~200万円の「特別一時金の支払い」、その他「農業などを営む移住者約130人へのJICA(国際協力機構)を通じた融資」については「急激な為替変動により過重になった債務負担を軽減する」とし、「融資した計11億円のうち為替変動で増えた4億円程度を軽減」(『朝日』)、「ODA(政府の途上国援助)などによる従来の支援も『更なる協力を積み重ねる』として拡充を明記。(1)日系人社会の拠点作りへの支援(2)高齢者や低所得者を支援する「移住者保護謝金」の拡充(3)移住者の子供らの日本での短期留学や研修――などの支援策も盛り込んだ」(『朝日』)
『朝日』の7月22日の朝刊「時時刻刻」の〈キーワード:ドミニカ移民問題〉は、「『豊かな農地が与えられる』と政府が移住者を募ったのに応じ、1950年代後半、ドミニカ共和国に249家族1300人余りが入植した。だが、実際の土地は狭い上に耕作に適さない荒れ地だった。困窮した移住者の多くは60年代に国費で集団帰国した。
残留した移住者が00年に提訴。帰国者も訴訟に加わった。今年6月、東京地裁は「請求権の消滅」を理由に請求を棄却したが、当時の国の移民施策については「違法」と断定した」と報じている。
以上は当然の措置だろう。事もあろうに「豊かな農地が与えられる」と一国の政府が詐欺を働いたのである。だが、特別一時金の支払いも、債務負担の軽減も、新たな施策にかける資金にしても、すべて国庫(税金)からで、移民政策立案の過ちそのものに対する立案者の責任措置が何ら講じられていない。
ハンセン病政策やエイズ対策の不作為・水俣病政策の過ち・アスベスト対策の遅れ、あるいは耐震偽装問題で建築基準法の不備を棚上げにした被害者への融資にしても、それぞれが予算を組んで賠償・救済等を行い、アスベストの場合は公共の建物からの除去費用まで賄わなければならないのに、議員・官僚の職務上の過ちそのものに対する責任はどのような形でも誰も取らない。
あるいは利用者が少なく、維持費も賄えず赤字を膨らませるだけの高額のカネをかけて建てた観光施設・福利厚生施設等に予算という名の国民の税金を投入して赤字補填を行いながら、その政策の過ちに誰も責任を取らない。手に余って、二束三文で叩き売ったとしても、その差引の損失は帳簿に数字を書き込むだけで片付けられる。全体の予算額が不足すれば、新たに債券を発行して借金を増やすか税金を上げるかして補填し、同じことの繰返しを引き続き行う。
政策の立案から具体化を経て、それが失敗した場合の賠償・補償まで国民の税金という他人の懐で勝負しているから、何ら痛みも後悔も感じず、そのような責任の無存在性が見通しをしっかり立てる政策上の創造性の育成を阻害し、結果として政策の過ちが性懲りもない形で日本の歴史・伝統・文化となって延々と繰返されることとなっているのではないだろうか。失敗が自分の痛みとなって撥ね返ってこないと、人間はなかなか自覚を持って事に臨むことができない。
それが国の政策に関わる過ち・失態の場合は、その埋め合わせに必要とする賠償額・補填額その他の経費等の総額のせめて半額でも、すべての国会議員と国家公務員のそれぞれの給与から一律に0・1%とか1%とか徴収して支払わせる仕組みの痛みを与えたなら、厳しい姿勢で政策立案に臨むこととなって、否応もなく政策に関わる創造性の向上にもつながっていき、少なくともこれまでのような過ちの連鎖を断ち切ることができるのではないだろうか。
あとの半額は、官僚を指揮監督する国会議員がいくら程度の低い者ばかりだといっても、そのような国会議員を国政の場に送り込んでいるのは国民なのだから、その選択に関わる責任として、税金から支払われる痛みを引き受けることを止むを得ないとすべきではないだろうか。