日本の明と暗

2006-07-23 06:13:23 | Weblog

 小泉プレスリー邸訪問と認知症母殺害被告に猶予付き判決

 06年7月21日の朝日新聞夕刊に「京都市伏見区の河川敷で2月、同意を得て認知症の母(当時86歳)を絞殺したとして、承諾殺人などの罪に問われた無職片桐康晴被告(54歳)の判決公判が21日、京都地裁であ」り、「『結果は重大だが、行政からの援助を受けられず、愛する母をあやめた被告人の苦しみや絶望感は言葉に言い尽くせない』と述べて、懲役2年6カ月執行猶予3年(求刑懲役3年)を言い渡した」と出ていた。

 判決を受けた瞬間の被告自身の光景と対極の位置に描き出すことのできる光景は、アメリカを訪問し、ブッシュ大統領との日米首脳会談に臨んだ後、大フアンだったという故プレスリー邸を訪れて、ブッシュ大統領から手渡されたプレスリーのサングラスまでかけ、プレスリーの歌を口ずさみ、そのポーズを真似てご機嫌にはしゃいだ小泉首相の姿ではないだろうか。

 首相在任のこの5年間、何もかもうまくいったと本人は思っていて、最後の日米両大国の(これも本人が思っていることだろうが)両首脳が会談を無事こなし、つい気分が緩んだのだろう。

 記事の続きは、裁判官が述べた言葉として「片桐被告が献身的な介護を続けながら両立できる職を探していた経緯にふれた上で、『福祉事務所を訪れたが相談に乗ってもらえず、生活保護は受けることはできず心身ともに疲労困憊となった』と指摘。『他人に迷惑をかけてはいけないとの信念と姿勢を、かたくなであると非難するのは正しい見方であるとは思われない』」と伝えている。

 「家で老人を介護するのは日本の昔からあった美徳だ」と在宅介護政策を擁護した政治家がいたが、何のことはない、社会保障費を削って財政再建を優先させたいばっかの考えから出た正当化の口実に過ぎないのは、そこに時代の違いを考慮する配慮を一切見せず、昔と今を一緒にする牽強付会(客観的認識性なしの態度)が証明している。小泉構造改革の財政再建は社会的弱者への財政配分を削った上に成り立たせている。その結果の老老介護風景の現出であり、介護疲れ殺人の頻発であろう。

 「福祉事務所を訪れたが相談に乗ってもらえず、生活保護は受けることはできず心身ともに疲労困憊となった」という指摘は、頻発する児童虐待に対して機能しない児童相談所の対応や、あるいは一人暮らしの老人の孤独死を長い期間見過ごしてしまう地域・世間の無関心、あるいは民生委員や生活指導員といった定期的家庭訪問者の不注意を思わせる。いくら制度や組織、あるいは法律を変えても、目指した方向で機能し、国民の福祉に役立たないことには改革は意味のないものとなる。

 また「献身的な介護を続けながら両立できる職を探していた」の介護と仕事との両立の難しさは少子化の大きな原因となっている育児と仕事の両立の難しさと無関係とは言えない日本の社会が抱えるその方面での閉鎖性(=包容力のなさ)を示すものであろう。

 改革がこれらのことに手を差しのべなかったなら、裏通りは放っておいて、表通りだけをきれいにする改革で終わることにならないだろうか。それが格差社会と言うことだろう。

 プレスリーのサングラスをかけ、プレスリーそっくりのジェスチャーで、プレスリーの歌をご機嫌に口ずさんだ小泉首相が日本の〝明〟を象徴するとするなら、各地で頻発する介護疲れからの近親者殺しは日本の〝暗〟を象徴する風景に思える。小泉首相には〝暗〟の風景がはっきりとは目に映っていないよう見えるが、どうだろうか。

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