縦割りとセクショナリズムに寛容であろう

2006-07-29 10:57:24 | Weblog

 組織・社会に於いて各権威は常にピラミッド型を形成するが、権威主義を行動原理とした組織・社会の場合は権威関係は上下の一方向により強く働き、そのことが各権威関係間の水平方向への力を弱める。権威主義の上が下を従わせ・下が上に従うメカニズムが上は従わせる下を固定化し、下は従う上を固定化する方向性を支配的とするからだろう。

 権威主義に於けるそのような上下関係の固定化が〝縦割り〟業務となって現れ、意識の面でセクショナリズム(縄張り意識)を生じせしめる。いわば権威主義は〝縦割り〟とセクショナリズムを常に常態化し、両者は相互補完し合う運命共同体の関係にあると言える。

 日本人は歴史・伝統・文化的に権威主義を自らの行動原理としてきた。その関係からして、日本の社会、あるいは各組織が縦割りとセクショナリズムを制度・慣習としているのは何の不思議もないごく当たり前の光景である。権威主義を行動原理としていながら、縦割り・セクショナリズムを組織運営上の習わしとしていなければ、矛盾が生じて日本社会とは言えない。言い換えるなら、縦割り・セクショナリズムは日本人にとってごく自然な血としてある。

 奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡)での01年2月の墳丘内工事で防護服を着用しなかったことから大量のカビが発生した問題と、02年1月に電気スタンドが接触して国宝の極彩色壁画を傷つけた不注意事故を起こしながら、それを公表せずに隠蔽した問題について、文化庁の調査委員会は前者を「特別史跡の墳丘を記念物課、国宝壁画を美術学芸課がそれぞれ所管し、意志疎通など図られなかった」「縦割りとセクショナリズム」、後者を「情報公開と説明責任に対する認識の甘さ」(06,6.16.『朝日』朝刊)を原因として挙げている。

 記事は後者の隠蔽に関しては「意図的隠蔽とは断定しなかったものの『情報公開の趣旨に対する認識の誤り』があり、『不手際の積み重ねが結果的に隠蔽の印象を与えた』とした。
 こうした事実関係の検証を踏まえ、組織の問題点に言及。『庁全体として情報公開への認識がほとんど欠如していた』と指摘し、『組織としての文化庁のあり方を基本的に見直す』ことを求めた」と記している。

 「縦割りとセクショナリズム」も「情報公開と説明責任」に反する隠蔽体質も、日本の社会・組織に於いては今に始まった事態ではない。日本人が本来的な体質として持っている態度傾向だから、文化庁の一部局かそこらに蔓延っている動きであるかのように言うのは的外れな指摘でしかない。

 指示と指示を受けた行動が上下方向に固定化されているための「縦割りとセクショナリズム」の体制を、責任に関しては上も下も本質のところで自律意識、あるいは主体性意識を欠いていることから自分の行動として把えることができず、その時点で既に責任意識を欠如させているのだが、上は全体のためにしたことだと自己責任を否定するか、下が指示通りに行動しなかったからだと下に責任転嫁する、下は上の指示に従っただけだと上に責任を転嫁し、結果として責任が宙に浮いて、誰も責任を取らない体制を相互性とするに至っている。

 責任の帰属を明確にする場合もあるが、上の者が自己の責任を回避するために下の者に強制的に責任を取らせるか、あるいは事件となって公になり、何らかの責任を取らなければ片付かないところに追いつめられたといった場合に限られる例外としてある場面であろう。

 戦前の戦争を日本人自らは誰も責任を取らなかったし、誰も責任を問わずに済ませた総括回避はこの民族性とも言える責任を取らない体制が国家全体の姿として現れた貴重な場面だったのだろう。

 責任を無化した無意識の体裁の悪さ・不愉快さが〝自存自衛の戦争だった〟といった言葉に代表される戦争正当化の牽強付会を生み出し、±ゼロ以上の精神浄化の役目を果たして日本人を救っている。

 責任を取らない先に隠蔽が生じる。隠蔽を責任を取らないで済ませる便宜の一つとなるからなのは言うまでもない。強制連行も慰安婦も存在しなかった、そのことを正当化するために証拠を隠蔽するか、自らは証拠を捜さない心理的な隠蔽を行って、証拠がないではないかと言い募る。

 今の時代で言うなら、昔からあったことだろうが、官僚の不祥事隠し、警察の捜査ミス隠し、あるいは警察官の犯罪に対する身内庇い、学校のいじめ自殺隠し、教師のワイセツ等の犯罪隠し、最近あった教育委員会のワイセツ教師の実名隠し、企業の不祥事隠し、リコール隠し、事故隠し、病院の治療ミス隠し等々、洗い出したら際限のないオンパレードに立ち至るだろうが、日本の社会の当然の姿としてあるオンパレードであって、酒飲みが酒を飲むのをやめたら、急に体調を壊すことがあるように、上記オンパレードが日本の社会から姿を消したなら、社会だけではなく、日本の国そのものが調子を狂わし、おかしなことになるのではないだろうか。

 文化庁の調査委員会の原因究明に従って文化庁自身が精々訓告か誡告、それ以上だったらスズメの涙ほどの減給といった方法で責任を取らせたとしても、上が決めたことだと従うだけで誰も責任意識を持たないだろうから、喉元通れば何とかやらで、元のモクアミに戻るだけだろう。最悪の場合、ハイ、改めますで済ませてしまうこともできる。かくして誰も責任を取らない体制は何事も起こらなかったように以前の健全な状態で推移するわけである。

 カネは有り難がられるが、出した金額ほどには信頼と言う見返りを獲得できない日本のODA(政府途上国援助)政策の弊害原因が、政治家や官僚の名声獲得や利権を守るための援助金額の実績づくりと日本企業の商機提供を主たる目的とするだけで、相手国民の必要性を理解する想像性(創造性)を伴ないために援助が単なるカネの提供で終わることになっていたのは周知の事実であったが(喜ぶのは援助を既得権益化して利益を得る日本と相手国双方の高官や企業だけだろう)、さらにODAを決定・実施する日本の縦割り体制やセクショナリズムが弊害を助長させていたという指摘も周知の事実だが、それが日本の組織の改めようがない本来的な体制であって、縦割りやセクショナリズム、既得権益や利権と言った夾雑物、それらの無駄があってこその社会の活力、日本の活力であって、それらをなくしたら何のための日本かということになるに違いない。

 小泉内閣は6年2月に外務省が担ってきた「無償資金協力」とJICA(国際協力銀行)が担っていた「技術協力部門」を統合し、そこに国際協力銀行が担っていた「国際金融業務」と「円借款部門」を切り離して、「円借款部門」を重ねて統合する新たなODA実施機関の一元化案をODA改革として纏めたが、縦割り意識にしてもセクショナリズムにしても、また無責任体制にしても日本の歴史とし、伝統・文化としてきた日本人性そのものの体質である以上、それを取り除こうとすること自体無謀な挑戦というもので、単なる椅子の並べ替えに終始するだけのことだろうから、小泉首相は無駄な抵抗を展開したに過ぎない一過性の改革を夢見たと悟ることになるに違いない。

 アスベスト対策の遅滞・不備にしても、その由って来る原因は縦割り行政と無責任体制だそうだが、関係省庁に於けるそれらの遺漏のない蔓延は日本人自体が体質としていることの厳粛な証明で、固有の体質である以上、思い遣りを以て受け入れなければならない結果性であろう。

 アスベスト政策が縦割りと無責任を原因としているとする05年8月27日の『朝日』朝刊記事を参考のために引用してみる。

 『時々刻々アスベスト対策検証 責任曖昧 救済も難問 関係省庁、なすり合い』   
                     
 「アスベスト(石綿)による健康被害の広がりを受け、政府は26日の関係閣僚会議で、過去の対策の検証結果をまとめ、救済のための新法制定の方針を打ち出した。しかし、閣僚から『決定的な失敗』とまで言われた行政の責任は依然曖昧なまま。縦割り行政のひずみと責任逃れの体質も滲む。これで実効性ある再発防止の体制が築いていけるのか。新法は被害に苦しむすべての人を対象にできるのか。難問も多い。
 『規制導入が欧州と比べて数年遅れたのは事実』『振返ればもっと早期に規制を講じることも可能だったという批判も行い得る』
 合わせて7省庁から出された検証内容の中で、環境省の報告内容には『反省の弁』らしきものが目立った。
 それは、自分たちは規制しようと思ったのに横やりが入った――。こんな他省庁への当てつけと裏腹でもある。
 同省OBへの聞き取り調査で、こんな話も出てきた。
 89年工場外への石綿の飛散を防ごうと基準を決めた大気汚染防止法改正の際、旧通産省の幹部から『これまでの濃度測定では、工場外では基準以下だった。そもそも何で規制が必要なんだ』『石綿製造工場は中小企業が多い。産業保護の観点からも問題がある』と反対された。
 旧労働省からも『工場内は当省で規制しているから外へは出ていないはずだ。なぜ屋上屋を架す規制をお考えなのか。御説明願いたい』と、やんわりと牽制された。
 その2年前、学校での吹きつけ石綿が社会問題となっていた。環境省の現幹部は『世論に救われた』と振返る。
 こうした霞ヶ関の縦割り行政のひずみは、報告書に明記されていない。
 しかし、当時の担当職員からの聞き取り調査として盛り込まれた『規制制度の立案過程に於いては、関係省庁それぞれの立場から調整は容易ではなかった』などの表現に、その一端が覗く。
 もっとも環境省も、77年から旧環境庁で大気中の石綿の濃度を調査していながら、89年まで大気汚染防止法による規制を行わなかった対応については、正当化に終始する。『測定された石綿濃度は非常に低く、国民への影響は非常に低かった』と理由を述べ、『当時としては妥当な判断だった』と結論づけた。
 報告書では、『省庁間の連携の不十分さ』の具体例として、90年に旧環境庁が中心となって開かれた『石綿対策関係省庁連絡会議』が、3年後に2回目を開いたきり有名無実化していたことも明らかになったが、この評価を巡っても省庁間の見解は異なる。
 厚生労働省は会見で、『8省庁の課長クラスが集まれば、かなりのことが話し合えたはず。回数を重ねていれば対策の連携もできたのではないか』とし、継続しなかった理由は『環境省が主催なので分からない』これに対して環境省は『昔の話を持ち出して、こちらの動きが悪いという話にしている』と反発。責任の押し付け合いを露呈した格好だ。(中略)
 
  対応に不備 首相認める

 小泉首相は26日夜、アスベスト(石綿)による健康被害に対する政府の責任について『反省すべき点もある。被害が起こっているわけだから、ないとは言えない。危険性を察知できなかった』と述べ、対応に不備があったとの認識を示した」――

 関係省庁の「責任の押し付け合い」は日本人性としてある当然の姿だから、大目に見なければならない責任回避であろう。それに対応するかのように「反省すべき点もある」と全部ではないことを強調する「も」という言葉を入れた小泉首相自身の態度にも責任回避意識が滲んでいるが、同じ体質を持った同じ日本人である。日本人であるための許容点であろう。もしも「反省すべき点は十分にある」、あるいは「多々ある」と潔く認めてしまったなら、日本人でなくなる。

 「政府の責任について」は「ないとは言えない」と責任薄めの言葉となっている点も、日本の首相だから自然な発言であり、自然な責任感覚と言わなければならない。

 記事全体から受ける各省庁・政治家の姿勢に<国民の生命・財産>に対する視点が完璧に欠如しているのは彼らの権威主義的人間関係が政治家と官僚の間か、あるいは省内・庁内で完結しているからだろう。勿論管掌事項が地方自治体にまで及ぶ場合はそこまで及ぶが、国民にまで及ぶことはない。及ぶのは自身の権限や権益を有効に擁護するためには国民に対しても便益を図らなければならない場合に限られる。優先事項は国民の利益ではなく、あくまでも自身の利益である。だから法外な給与や退職金を手に入れることになる天下りも、省庁と天下りとの間での私腹を肥やすだけの不正な利益の遣り取りも、族議員への便宜供与も役目とすることができる。国民への目を持っていたら、とでもできないだろう。元々責任意識はない民族なのだから、国民に対する責任などありようがない。誰が政治家・官僚になっても同じである。

 「石綿製造工場は中小企業が多い。産業保護の観点からも問題がある」
 「測定された石綿濃度は非常に低く、国民への影響は非常に低かった」

 権威主義の行動性は一旦決めた指示体制からなかなか抜け出せない。上にとっては従わせることに、下にとっては従うことに価値を置く構造上、一つの指示によって従わせ・従う関係が円滑な状態で推移する限り、そこに踏み止まろうとする力が働くからであり、そのような関係式にはそもそもからして自律性や創造性を欠いていることに対応した状況判断に関わる柔軟性の欠如が踏み止まろうとする力にどのような妨げともならないからである。

 阪神大震災やその他自然災害に見る国や地方自治体の危機管理の機能不全にしても、縦割りやセクショナリズムの先にある国民への視点の欠如や指示体制の膠着性が成果となって現れた一つの状況でもあるのだろう。

 「国民の生命」とは身体的に単に生きている状態の保証ではなく、人間としての尊厳を維持できる範囲内の生きてある状態の保証を欠いたなら、生命としての意味を半ば失う。

 だからこそ憲法で、「健康で文化的な」とわざわざ断った上で、「すべての国民は」「最低限度の生活を営む権利を有する」ことを「生存権」として認めているのだろう。単に生きている状態は決して「健康で文化的な」とは言えない。身体が丈夫であっても、社会的生きものとして社会に生きる部分に関して、その人なりの文化性を持たなければ、決して「健康」とは言えない。人間の尊厳につながらない。そのことを問題としない政治家・官僚の国民への視点の欠如は、やはり日本人が体制としている縦割りの到達範囲(=縄張り)が関わっていることで、このこともごく自然な流れとしてある光景と言える。

 現在騒がれているパロマ社製のガス湯沸かし器のガス漏れ多発事故にしても、湯沸かし器のエネルギー源がLPガスと都市ガスでは事故報告を扱う経済産業省の部署が異なり、情報を共有しなかったことが事故件数の全体数の把握と、全体数から割出される事故の広がりや頻度から判断すべき器具自体の危険性の把握を妨げていたということだが、指示体制を自分の部署にのみ固定化する権威主義の行動性からの縦割りとセクショナリズムの成果でもあろう。

 かくこのように日本のあらゆる組織・社会に蔓延する縦割りとセクショナリズムは日本人が血とし、体制としている切っても切れない関係にあるからこその蔓延なのであって、派閥という縦割り及びセクショナリズムが自民党を支えてきたように、日本を支えてきたのである。縦割りとセクショナリズムの弊害が指摘される場面に出くわしたなら、そういった場面が永遠に繰返されることから免れられない以上、日本人なのだからと確認するだけにとどめる寛容さ、あるいは止むを得ないと受け止める諦めが必要だろう。それとも大いに歓迎してやるべきか。

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