奉仕活動/曽野綾子の「入口は強制だっていい」

2007-01-04 08:45:18 | Weblog

 12月1日(06年)の「朝日」朝刊の奉仕活動の是非をテーマに三者が主張を展開する『三者三論』に作家曽野綾子の「入口は強制だっていい」という題名の記事が載っている。「奉仕」賛成の立場からの意見で、全文を引用してから、言っていることの正当性を問い質してみる。但し、その問い質しにしても、正当であるか否かの見解は受け止める側によって意見は分かれるだろうことは承知している。

 ――厳密には、ボランティアはボランタリーが語源で各自が望んでやるものだが、外国でも実際には子どもたちが勝手にやるものではない。先生や協会、地域の婦人などが組織をつくり、そこに参加する。ボランティアか、奉仕かといった言葉にあまり引っかからないほうがいい。外国の実態を見ていると、ボランティアも奉仕もあまり違いはない。

 奉仕とは与えること。戦後の日本の教育は、受けるばかりで、人に与えることを教えてこなかった。おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう。与えられているだけの間は、子どもの心理が続く。もっと何かしてもらえないか、もっとモノをもらえないかと、永遠の飢渇状態といえる。人間は与えることができて初めて大人になれる。

 でも、子どもたちに自発的な奉仕活動を求めるのは難しい。だから体験を場を用意するのは大人の任務だと思う。幼児期の教育と、新しく始めることの基礎を学ぶ時は「強制」の形を取ることが多い。あいさつすること、朝起きたら顔を洗うこと、6歳の4月から学校へ行くのも全部強制といえる。だが、いつまでも強制をする必要はない。自発性が目覚めて、続けるか辞めるかを判断できるようになったら、自分で決めればいい。強制で奉仕を体験して、いやになる場合も少なくないだろう。多くの子どもは最初は水がきらいだ。でも、無理に水に入れられて泳げるようになることがあるように、奉仕活動を「案外面白い」と思えば、人に与えることの素晴しさを知り、一生続けるかもしれない。美意識として奉仕を選ぶかどうかだと思う。

 自分がどう生き、どんな職業に就けばいいかを考えることにもつながる。つらさや不自由さも体験する。松下政経塾では100キロ歩く訓練がある。歩けた自信が精神面や災害など物理的な困難に直面した時に生きる。それは魂と行動の自由を広げる。

 6年前、私が教育改革国民会議で奉仕の義務化を提案したときは、18歳から1年間ぐらいやるべきだと思っていた。でも、期間や時期など、現実的、各論的なことは教育現場の方々で決めればいい。

 義務化を提唱した理由の8割はこれまでに述べた精神面からだ。残りの2割には、今後マンパワーを輸入しない限り、高齢者の介護に人手が足りなくなるという現実問題もある。若者が1年のうちのいくらかを高齢者のために割いたら手助けになるのではないのか。現実的な問題への対応も奉仕の目的にしていい。

 専門知識や経験のない若者を急に動員して役に立つのかという問題は確かにある。ならばそうした若者たちに適した職種を設ければいい。お年寄りの話を聞くのはどうか。自分史を聞き書きしてあげるのも喜ばれると思う。足をふく。洗髪する。つめを切る。ゴミを出す。相手のために何かできるのか考えることが大切だ。

 国家による奉仕の強制というと、すぐ徴用とか徴兵に結びつけて語られるが、それは古い硬直した考え方。軍事や徴兵とはまったく関係がない。ドイツでも若者が兵役の代わりに、福祉の分野で奉仕する制度がある。日本人は、恐ろしい顔をして歯をむき出したような国家という魔物がいて、それが悪いと考えているように感じる。そんな擬人化はやめたほうがいい。

 私にとって国家とは「同胞」のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない。(聞き手・三ツ木勝巳)――

 先ず出だし部分のであるが、少々乱暴な纏め方となっている。行為としての内容・中身が「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」としても、つまり、やっていることはほぼ同じだとしても、さらにそれらが「先生や協会、地域の婦人など」の手によって組織化されている点に関して日本も外国も同じ経緯を辿っていたとしても、参加の仕方まで同じだとは限らない。「ボランティア」までが授業の一環とか、あるいは地域自治会や子ども会の役目の一環とかで義務づけられていることからの義務への〝従属〟としてある参加だということにしたとしても、それぞれが個人的立場に立った個人的自発性からの参加なのか、集団に縛られた集団的自発性のものなのかで、「参加」の方法・内容まで「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とすることはできない。

 違いがあるから、「入口は強制だっていい」という問題提起となったのだろう。「入口は強制だっていい」を正当化するために、「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とする言葉先に持ってくるゴマカシを働いている。結果的に「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とすることができるとすることで、「入口は強制だっていい」が正当性を持ち得るはずである。
 
 主張の出だしで「違い」の無視を行うゴマカシを働いているとなると、全体の主張自体に合理性を備えているとはとても考えられない。

 実際にはボランティア=奉仕活動ではない。それぞれの国の言葉にはそれぞれの国の文化・精神を宿らせている。行為は言葉の持つ文化・精神を反映してその姿を現し、言葉は行為によって、その意味を確定していく相互補強関係にある。

 「volunteer」(ボランティア)なる英語の意味を見ると、名詞では「志願者」、「志願兵」、「義勇兵」、動詞としては「自発的に申し出る(提供する, 買って出る)」、「進んで事に当たる」、「進んで従事する」となっていて、その言葉は〝自発性〟を基本的な文化・精神とし、そのような内容の行為であることによって、言葉に正当性を与えることができ、言葉と行為は相互に裏切らない一致した姿を取る。また「volunteer」は人間の行為を超えて、「〈植物が〉自生の」という営みを形容する言葉にまでなっている。

 対する「奉仕」なる言葉の意味を調べてみると、「報酬を度外視して国家・社会・人のために尽くすこと」(『大辞林』三省堂)、「国家・社会・目上の者などに利害を考えずに尽くすこと」(『角川類語新辞典』)などとなっている。かなり古い版だが、公平を期すために『広辞苑』(岩波書店)の解説を参考までに付すと、「献身的に国家・社会のためにつくすこと」とほぼ同じことを言っている。

 これらの意味から「奉仕」なる言葉に刷り込まれている歴史や伝統を背景とした文化・精神を探ると、主として下位権威者から上位権威者に向けた行為であり、「報酬を度外視して」、あるいは「利害を考えずに」をキーワードとした場合、「volunteer」はそのことには一切触れることなく〝自発性〟のみを問題としているのに対して、「奉仕」は人間の当然な姿・本能としてある自己利害性をことさら禁止事項としている。あるいはタブーと定めている。

 わざわざ禁止事項とし、タブーと規定しなければならない文化・精神とは、どのようなものなのだろうか。「奉仕」がもしも真に自発性を文化・精神としていたなら、それが下位権威者から上位権威者に向けた行為であったとしても、「報酬を度外視して」とか「利害を考えずに」といった制限事項を設ける必要はないだろう。自発的であることによって、出発点から「報酬」も「利害」も除外価値とするからだ。逆に上位権威者から下位権威者に求めた行為であることを伝統とし、文化としていたからこそ、「報酬を度外視」させ、「利害を考え」させなかった文化・精神を宿らせることになったと把えるべきだろう。

 日本が戦争に負けてアメリカによって民主化されるまで、歴史的・伝統的に国家が国民を支配し、国民は国家に従属するものとされてきた。そのような支配と従属の上から下への力学(=上から下へ命令し、下が上に命令される力学)は〝奉仕〟なる文化・精神を形作る力学にも応用されないはずはない。「奉仕」が上(=国家)から下(=国民)に求めた文化・精神だったからこそ、「報酬を度外視して」とか「利害を考えずに」といった〝報酬の度外視〟や〝利害無視〟を要求事項として付け加えることになったとする推論に正当性を与えることになる。

 国家にとって、これ程に都合がよいことはなく、だからこそ、「お国のために殉じる」も可能となったのであり、「天皇陛下のために尊い命を捧げる」も可能となった〝奉仕〟だったのである。国家権力の側から言えば、国民の命を虫けらの如くに扱えたのである。

 そして今以て〝奉仕〟は上から下へ要求する形を取っている。国民主権としたらなら、国家が奉仕の主体者でなければならないはずだが、そうはならず、国家等の上位権威者が下に対して求める行為となっている歴史・伝統・文化を受け継いで、国家権力が「18歳」からといった規定を〝求める〟同じ形式をなぞることになっているのだろう。

 同じ形式のなぞりだからこそ、再び上から下へ命令し、下が上に命令される文化・精神として〝奉仕〟は活用されるではないかと危惧されることになる。例え「入口は強制だっていい」としても、予期した自発性がそこに芽生えず、「強制」が上の命令・指示(=要求)に従属する歴史的・伝統的文化・精神のみを養う力学として推移した場合の危険性も考えなければならないからだ。

 曽野綾子は「奉仕とは与えること」と定義づけて、その逆の例(=奉仕される行為=与えられる行為)として、「おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう」行為を挙げているが、「奉仕」が持つ方向性に無知な混同を犯している。

 再度例として挙げるが、「お国のために殉じる」も「天皇陛下のために尊い命を捧げる」も「与える」を精神・文化とする「奉仕」であったが、下位権威者の上位権威者に向けた「与える」であって、そのような文化・精神から言うと、親という上位権威者が幼児という下位権威者に向けた「与える」は「奉仕」とすることはできず、当然、下位権威者たる幼児は奉仕される者として位置しているわけでもなく、「おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう」行為にしても、「奉仕」として「与え」られているわけではない。幼児・子どもが自分自身ではできない行為に対する代理として行う親の義務行為・責任行為としてあるものであろう。それを見当違いにも「奉仕」と同じ次元の主張展開となっている。

 こういった行為を母親、あるいは父親が「与える」行為=「奉仕」だとしたなら、為すべき付随行為(親の義務行為・責任行為)から離れて、特別行為と言うことになる。だから日本人は「私はボランティアをしています」とか「ボランティアでやってるんです」とか、ボランティアでありながら、曽野綾子と同じく「与える」奉仕と見立てて特別行為・誇る行為でもあるが如くにやたらと強調したり、吹聴したりするのだろうか。
 
 また「おむつを換えてもらい、ミルクを飲ませてもらい、ランドセルも買ってもらう」が「与えられる」行為であり、「人間は与えることができて初めて大人になれる」としたら、子どもに対して「おむつを換え」たり、「ミルクを飲ませ」たり、「ランドセル」を「買って」やる立場にある親はすべて「大人になれ」た「人間」ということになり、そういった人間になるには何も「奉仕活動」は必要事項ではなくなる。結婚して子供を産み、しつけと称して食べ物・飲み物を与えない限り、すべての親が「大人」の勲章を手に入れることができることになるからだ。その上国会議員などにワイロを「与える」ことができるようになれば、最高の「大人」ということになる。

 以上見てきたように、「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」としてはならない。「奉仕」が上位権威者から下位権威者に向けて要求する方向性の精神・文化であることを一切除外したとき、そして「報酬を度外視して」とか「利害を考えずに」といった損得の価値観に一切考慮を払わなくなったとき、「ボランティアも奉仕もあまり違いはない」とすることができるようになるだろう。

 しかし「奉仕」が「愛国心」と抱き合わせで考慮され、設定される限り、あるいは「愛国心」と共に国民が注意を払うべき重要な価値行為として制度化しようとしている政治家によって(その筆頭者は安倍晋三なのは言うまでもない)問題提起されている限り、上位権威者から下位権威者に向けて要求する方向性の精神・文化であることを維持し、当然の因果性として〝報酬の度外視〟や〝利害無視〟にしても上の下に対する要求事項となり続けることになる。

 曽野はさらに続けて言っている。「子どもたちに自発的な奉仕活動を求めるのは難しい。体験を場を用意するのは大人の任務だと思う。幼児期の教育と、新しく始めることの基礎を学ぶ時は『強制』の形を取ることが多い。あいさつすること、朝起きたら顔を洗うこと、6歳の4月から学校へ行くのも全部強制といえる」

 「あいさつすること、朝起きたら顔を洗うこと」が例え命令形を取ったとしても、生活習慣の習得に向けた要求行為であって、一般的には「強制」行為の内に入れることはできない。「6歳の4月から学校へ行く」にしても、そうと決められている社会制度への参加であり、通過していかなければならない一段上の社会への一員化、大人への成長に向けた一歩であって、それを「強制」としたなら、義務教育の年齢にある小・中学校の間は、生徒は「強制」を受けた通学、あるいは教育ということになるし、不登校生は「強制」から外れた者として、「強制」に従うべく力尽くで学校に戻さなければならなくなる。

「6歳の4月から学校へ行くのも全部強制」と把える感覚自体が、如何に強制性を内面性としているかを物語っている。
「松下政経塾では100キロ歩く訓練がある。歩けた自信が精神面や災害など物理的な困難に直面した時に生きる。それは魂と行動の自由を広げる」と言っているが、安易で見え透いた奇麗事に過ぎない。「100キロ歩く」ことができる安全地帯の環境と状況が用意された〝場〟での主として肉体的な苦痛に耐えて得た肉体的な「歩けた自信」が常に用意されたものではない「災害など物理的な困難に直面した」〝場〟で「精神面」にも反映されるとするのは短絡思考なくしては導き出せない結論であろう。「魂と行動の自由を広げる」のは確かな自発性と確かな自律性を獲得し、如何なる状況下、人間関係下でも何者にも従属しない境地――個の確立を果して初めて到達可能な精神性であって、そうは簡単には到達できない目標点であろう。論理的ゴマカシを行うことを以て「魂と行動の自由を広げる」営為だとするなら、曽野綾子は雲一つない大空の融通無碍にも匹敵する「魂と行動の自由」を獲得した稀有な人間と言うことができる。

 曽野の「松下政経塾」云々が正しいとして、それをあらゆる競技のあらゆるアスリートに当てはめるとしたら、彼らは自己最高記録を出して以降、それを下回る記録を出すことは決してないとしなければならない。実際にはそのような保証はどこにもなく、一度優れた記録を獲得したしたとしても、走るたびに肉体的・精神的に新たな困難・試練に直面し、その困難・試練に常に打ち勝てるとは限らない。一度金メダルを獲ち取ったマラソンランナーが次のレースで途中棄権することも間々あることである。

 曽野綾子の頭の中では実現実とは違って、「松下政経塾」出身の国会議員は「100キロ歩く訓練」が与えた「自信」が「魂と行動の自由を広げ」て、全員が全員とも優れた政治家との誉れを受けた姿を取っていることだろう。奉仕活動の義務化に賛成する国会議員はそういう姿にあるが、反対する国会議員はそうではないとする差別化は勿論のこと許されない。

 「国家による奉仕の強制というと、すぐ徴用とか徴兵に結びつけて語られるが、それは古い硬直した考え方。軍事や徴兵とはまったく関係がない。ドイツでも若者が兵役の代わりに、福祉の分野で奉仕する制度がある。日本人は、恐ろしい顔をして歯をむき出したような国家という魔物がいて、それが悪いと考えているように感じる。そんな擬人化はやめたほうがいい。

 私にとって国家とは『同胞』のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない」

 「奉仕」が上位権威者から下位権威者に向けた強制の、強制でなくとも、少なくとも義務の意味合いを持たせた方向性を持つ間は、「徴用とか徴兵に結びつけて語」ったとしても、「古い硬直した考え方」と貶めるわけにはいかない。

 「ドイツでも若者が兵役の代わりに、福祉の分野で奉仕する制度がある」は良心的兵役拒否者に対する期限付き(13ヶ月だということだが)代償的義務制度であって、兵役拒否を動機としている点、一般的な日本の「奉仕」とも外国の「ボランティア」とも厳密に一致させることはできない。同じ線上で論ずるのは狡猾なゴマカシに当たる。元々国家の側に立って、如何に国民を国家に寄与させる存在とするかに意を用いているから、タウンミーティングのヤラセと同様、否応もなしに狡猾なゴマカシに走ってしまうのだろう。

 「強制で奉仕を体験して、いやになる場合も少なくないだろう。多くの子どもは最初は水がきらいだ。でも、無理に水に入れられて泳げるようになることがあるように、奉仕活動を『案外面白い』と思えば、人に与えることの素晴しさを知り、一生続けるかもしれない。美意識として奉仕を選ぶかどうかだと思う」と述べている箇所にしても、「強制で奉仕を体験して、いやになる場合」の人間のことは過小に扱う放置・無視を行い、それに反した「素晴しさを知り、一生続けるかもしれない」可能性を根拠とした過大な価値づけはご都合主義以外の何ものでもないゴマカシであろう。

 「私にとって国家とは『同胞』のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない」という言葉がそのことを証明している。

 「国家」がすべての国民にとって常に「同胞」・「隣人」であるとは限らない。低所得者切り捨て・大企業優先の政策を一つとっても、低所得者から見た場合、「国家」を「同胞」・「隣人」と見なすことはできないだろう。「国家」を「『同胞』のこと、隣人のこと」とすることができるのは、既に指摘したように曽野綾子がまさに国家権力の側に立っている人間であるからに他ならない。国家権力の側に立っている人間として、国民すべてを「同胞」・「隣人」と囲い込むことが国家にとって利益となるから、「私にとって国家とは『同胞』のこと、隣人のことだ。私は仲間の日本人につくすことが悪いことだとは思わない」と躊躇いもなく言える。

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